リュートtube 7 – 「牛を見張れ」

昨日は毎年恒例のビウエラ講習会。ナルバエスの「O gloriosa domina(おお、栄光の聖母よ)」から第二ディフェレンシアで参加。まだ取りかかったばかりなのであまりうまく弾けず、ちょっと顰蹙だったかも(いつものことだが……笑)。これの一連のディフェレンシアは10年くらいかかってもいいから全部ちゃんとできるようになりたいもんだなあ、なんて思ったり。ナルバエスといえば、「皇帝の歌」とかもあるけれど、一番ポピュラーなのはやはり「牛を見張れ」でしょうかね。YouTubeにもギター演奏とかがいろいろあるけれど、多くは前半までの短いバージョン。実は後にさらにディフェレンシアが続く。というわけで、そのロングバージョンから。演奏はヴァレリー・ソヴァージュという人。プロというわけではないみたいだけれど、YouTubeにはいろいろな曲がアップされていて参考になる(笑)。さすが古楽の世界では、プロに限りなく近いような人がゴロゴロいらっしゃたりする(チェンバロなんかは最たるものなのだとか)。こちらもそういう方かしらね。

トマスと西田哲学?

長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは本源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせいで徹底化していないとこれを批判すらしてみせる。その上で、日本語の「ある(あり)」を助動詞に分類する時枝誠記(!)の「反・存在詞」議論を取り込んで、肯定的断定の「だ」に置き換えることを提案している。ちょっと驚くのだが、つまりトマスにとっての神は日本語的に「<だ>そのもの」とするのがよいのではないか、というわけだ。うーむ、これはトマスの存在論もさることながら、西田哲学の解釈の問題や、日本語をめぐる言語哲学の可能性などまで盛り込んだ、いってみれば時限爆弾のような挑発的議論かもしれない(もちろん良い意味で。けれど一歩間違うととんでもないことにもなりかねないような……)。この考察をさらに展開する作業が著者の死によって中断されているらしく、その意味でも、まさにこれは後続世代に突きつけられた挑戦状という感じ(?)。

古代における「胚」

メルマガのほうで見ているインペトゥス理論がらみかどうかと思い、フランスのVrinから去年出た、リュック・ブリソンほか編の論集『胚:形成と生命活動』(“L’embryon – Formation et animation”, éd. Luc Brisson et al., Vrin, 2008)を読み始める。古代から中世にかけて、思想史的に胚(胎児)の形成や活動がどう考えられていたかをめぐる論集。まだ3分の1ほどだけれど、なるほどいろいろと整理されていてためになる。そもそも胚は生命体と考えられていたのかどうか、という点については、プラトンがそれを生命体と考えていたのに対して、ストア派は腹部の一部で生物ではないと(木になる果実のようなものと)見なし、エンペドクレスは呼吸をしていないから生命体ではないとし、セレウコスのディオゲネスはまだ魂を欠いていると考えていたという。ガレノスは種子からして生命体という立場だそうだ(ブドン=ミヨーの論文)。個人的に面白いのはグルニエの論文で、ストア派が魂の形成をどう考えていたかをまとめたもの。それによると胎内の胚はまだ生命体とは考えられていないものの、誕生とともに、ちょうど熱い鉄が冷やされることによって固まる「焼き入れ」のようにして、息吹が性質を変え、かくして魂が形成されるのだという。なるほど、そういえばストア派の魂ってば、物質と一続きだったっけね。それにしても「焼き入れ」の比喩を出してくるとは……(笑)。なにかこの、金属と生命の類比というのは気になるところ。

インペトゥスがらみでも、アリストテレスの『動物生成論』にちょっと興味深い箇所があることが判明(モレル論文)。また、この後も双子の場合の問題とか、重要著作とされるAd Gaurum(ポルピュリオス?)についてとか、期待値の高い論考が並んでいるようで、なかなか楽しみ。

カプスベルガー

17世紀前半に活躍したリュート曲の作曲家、ジョバンニ・ジロラーモ・カプスベルガーといえば、その曲はルネサンスというよりも初期バロックというか、当時としてはかなり斬新な音楽だったとされる。たしかにトッカータとか、とても面白い感じ。で、そのカプスベルガーが残した第三曲集を取り上げたCDが出ている。『カプスベルジアーナ』(G.G.Kapsberger: Kapsbergiana / Los Otros)。演奏しているのはロス・オトロスというグループ。以前、スパニッシュ・バロックものというか、ワールドミュージックものというか、ちょっとご機嫌なCDを聴いたっけ。今回はキタローネ独奏用(プラス通奏低音)の曲集をアンサンブルに編曲している。じっくり聴かせる路線。曲想も、何かこのちょうど秋めいてきた今ごろにフィットする感じだ(笑)。トッカータは連番になっているのだけれど(1番のみもとより欠落)、番号が増えていくほどなんだか情感に溢れるようになっていく感じ。8番とかは結構感動的かも(?)。うーん、やはりカプスベルガーは面白いなあ。楽譜も探してみたいかも(笑)。

G.G.Kapsberger: Kapsbergiana / Los Otros

『チェーザレ』7巻

先日、出先の本屋に行ってみたら、普段新刊の売れ筋本が並んでいるコーナー(この間まで『1Q84』とかが並んでいた)が、すべてコミックの新刊になっていた。『のだめ』(いよいよ佳境っすね)とか『神の雫』(これは読んでいない。発酵ものというと『もやしもん』のビール編を堪能したばかり)……ってその下に、惣領冬実『チェーザレ』7巻(講談社)が並んでいるでないの。で、即買い。秋ぐらいかなと思っていたら、もう出ていたのね。この7巻、降誕祭の司祭をつとめるチェーザレが、みずからの政治思想の根幹を語り、それを通じて聖職叙任権闘争の象徴の一つ「カノッサの屈辱」と、ダンテがハインリヒ7世に託した「帝政論」が重ねて描き込まれるという、なんとも贅沢な巻。「カノッサの屈辱」なんか、教科書的には単純に「教皇側の勝ち〜」みたいに言われていたりするけれど(ほんとか?)(笑)、事態はそう単純にあらず、という話を実にドラマチックに描いていて秀逸。ダンテにしても、きわめて政治的な、ある意味とても俗な人物として描かれているのがまた素晴らしい(笑)。

今回はまた、若き日のミケランジェロとかちらっと出てくるし、『ニコマコス倫理学』が言及されていたりもする。ん、レオナルド・ブルーニのラテン語訳はともかく、アンギュロプロス(ヒューマニストらにギリシア語とか教えた人よね)による翻訳本って初耳。あと、アヴェロエス版って?(とアラビア語訳?)これって注解書のことかしらね。うーむ、いずれにしても『ニコマコス倫理学』はこのところ、改めてちょっと注目したいと思っていただけに、なんだかとってもタイムリー(笑)。ちょうどBrillから今年出た、ビザンツでの同書の受容についての論集を注文したばかり。