「天使」は「隅石」?

ブログ「ヘルモゲネスを探して」さんのところから、今月23日のエントリに衝撃的な一言が:「天使とは角度のことであったのか?」。うーん、angelusとangulus、確かにラテン語において両者が形の上で混同されそうな感じはする。でもギリシア語まで行くとまた違う……と思いつつ、ふと思い出した。夏前ごろからずっと読んでいるピロポノスの『世界の始まりについて』6巻11章に(この箇所は、世界の支配者は人間ではなく天使だというテオドロスの説への反論を述べているところ)、天使は地上のすべてを統べるのではないが、個別の(みずからの)秩序を統べる、みたいなことが記されていた。この一文、何気なく読んでごく普通にディオニュシオス・アレオパギテスの天使の序列論を思い浮かべていたのだけれど、これを「天使こそが秩序の要(土台)だ」というふうにとると(ちょっと強引か?)、にわかにこれが「角」に結びついていきそうにも思える(笑)。なにせ隅石(土台)のことを、たとえば仏語でpierre angulaire、伊語でpietra angolareなんていうし。ちょっと妄想気分ついでに、この「隅石」、民間語源的にでいいので、遡れないか検証してみたい気もする。さしあたりウィトルウィウスあたりに何かそれっぽい言葉がないかしら、なんて。

『月刊言語』も休刊

遅ればせながら知ったのだけれど、大修館書店の『月刊言語』も12月号で休刊だそうな。面白そうな特集が組まれているときだけ買っていた雑誌だったけれど、なくなってしまうとちょっと寂しい気も。80年代くらいから、基本的には高校生くらいから大学院受験生くらいまでを対象とする雑誌だったように思う(それ以前はもっと専門的だったらしいが)。結構古いバックナンバーも以前は手元にあったのだけれど、内容的にもだいぶ古びたものなどが多くて(ソシュールものとか)処分してしまい、あまり残っていない。残っている比較的最近の号では、たとえば「ラテン語の世界」を特集した2002年9月号などがそれなりに印象的。ラテン語のすすめという感じの特集にしては、古典ラテン語に傾斜せず、キリスト教やスコラ学のラテン語についての概括(月村辰雄)や、ダンテの詩作についての紹介(浦一章)、さらには美食のラテン語と題してローマ時代のメニュー用語の紹介(塚田孝雄)などがあってとても楽しい特集になっている。こういう特集は同誌ならではだった。ほかの雑誌ではこうはいかないだろうなあ、と。そういう意味ではとても残念。

「カルデア教義の概要」- 3

/ Καὶ ὑλικὰς δὲ πηγάς φασιν, κέντρων καὶ στοιχείων καὶ ὀνείρων ζώνην, καὶ πηγαίαν ψυχήν. Μετὰ δὲ τὰς πηγὰς λέγουσιν εἶναι ἀρχάς. Αἱ γὰρ πηγαὶ ἀρχικώτεραι τῶν ἀρχῶν· τῶν δὲ ζωογόνων ἀρχῶν ἡ μὲν ἀκρότης Ἑκάτη καλεῖται· ἡ δὲ μεσότης, ψυχὴ ἀρχική· ἡ δὲ περάτωσις, ἀρετὴ ἀρχικὴ· Εἰσὶ δὲ παρ᾿ αὐτοῖς καὶ ἄζωνοι Ἑκάται, ὡς ἡ τριοδῖτις ἡ χαλδαϊκή, καὶ ἡ κωμάς, καὶ ἡ ἐκκλύστη· ἀζωνικοὶ δὲ παρ᾿ αὐτοῖς θεοί, ὁ Σάραπις καὶ ὁ Διόνυσος καὶ ἡ τοῦ Ὀσίριδος σειρὰ καὶ ἡ τοῦ Ἀπόλλωνος. /

/さらに彼らが言うには、物質の源泉があり、中心と元素と夢想の帯があり、そして魂の源泉がある。源泉に続いて原理があると彼らは言う。というのも、源泉は原理よりも古いからである。生命発生の原理のうち最も高みにあるものは、ヘカテーと呼ばれる。中間にあるものは原初的魂、最も端にあるものは原初的真理と呼ばれる。それらのうちには帯をなさないヘカテーの一群がある。カルデアの交差路のヘカテー、快楽(κῶμος)のヘカテー、洗濯女(ἐκκλυστική)のヘカテーである。それらのうちには帯をなさない神々がいる。サラピス、ディオニュソス、そしてオシリスに連なるもの、アポロンに連なるものである。/

アルキンディと魔術

『ピカトリクス』だけを眺めているのもナンなので(苦笑)、魔術関連の参考書も併読しようと思い、以前に届いていたヴェスコヴィニ『魔術的中世』(Graziella Federici Vescovini, “Medioevo magico – La magia tra religione e scienza nei secoli XIII e XIV”, Utet Libreria, 2008)も開いてみる。400ページ超の本で、様々な著作や思想を取り上げている一冊のようだけれど、とりあえず第一章30ページにざっと目を通す。語り起こしとして言及されているのはアルキンディ。なるほど、西欧中世の魔術関係の文献は、9世紀アラブ世界のアルキンディから始まるというわけか。たとえばその『視覚論』は翻訳を通じて広まり、ロジャー・ベーコンやアルベルトゥス・マグヌスの引用するところとなる、と。さらに『第五元素論』やら『光線論』などを通じて、その後の「魔術」プロパーのテーマ系が出そろい、とりわけルネサンス以後に影響を強めていくことになるようだけれど、中世ではまだ個々のテーマが散発的に取り込まれたりする程度の印象を受ける(ホントか?)。章の後半では9世紀から12世紀にかけてヘルメス主義的な占星術・魔術の伝統ということで、『ピカトリクス』を初めとする代表的な文書が紹介されている。いろいろあるねえ。そのあたりも興味深いのだけれど、なによりもまずはアルキンディの文書をちょっと読んでみたいところだ。

2章以降はテーマ別に各論的議論が展開するようなので、また興味深い点などがあればまとめていくことにしよう。

ハイドン「四季」

ハイドン・イヤーの今年はとくに秋にいろいろ出かけたい催しもあったのだけれど、腰痛ですべて行けず残念だった。リュートの師匠は10月のリサイタルで「カッサシオン」2曲を取り上げたそうで、これはぜひ聴きたかったなあ、と(これ、録音も昔のヤーコブ・リンドベルイの全曲録音くらいしかないのでは?)。また今月の頭にはミンコフスキとルーヴル宮音楽隊のハイドン演奏も逃したし……。考えてみると、ハイドン・イヤーとか言われてもそれほど聴く機会があったわけでもない(ヘンデルも同様。ヘンデルはリュート曲とかもないしね)。で、ちょっと反省して(苦笑)、とりあえずアーノンクールとコンツェルトゥス・ムジクス・ウィーンによるハイドン晩年の大作オラトリオ『四季』(Haydn: Die Jahreszeiten (6/28-7/2/2007) / Nikolaus Harnoncourt(cond), Concentus Musicus Wien, Arnold Schoenberg Chor, etc)などを聴いてみる。うわー、冒頭からこりゃド迫力。荘厳な春。一転して軽妙な流れるような調べになる夏。やがて嵐とかがあって喜びの秋を迎える。そしてまたどこか静謐さ漂う冬へ。演奏は全体に近年のアーノンクールならではの重厚感が利いている感じ。アーノンクールにとっては2度目の録音なのだそうな。この曲の完成は1801年ごろとのことで、オラトリオ自体が形式的に古くなっていただろうに、バロック的な要素と古典派的な要素にとけ込んでいる感じで、実に複合的な楽曲になっている。なかなか面白かったり。

↓ジャケット絵はご存じアルチンボルドー。