年末はレヴィ=ストロースで

レヴィ=ストロース死去のニュースとほぼ時を同じくして出た渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書、2009)を読了。前半はこれまであまりきちんと触れられてこなかった(というか寡聞にしてそういう参考書を知らないもんで)若き日の左翼活動家時代のレヴィ=ストロースをクローズアップした評伝。学生の闘士から人類学への接近というテーマはなかなかに興味深いものがあり、読み応えも十分。後半はその学問的な深まりをフルスピードで追っていくという印象。親族の基本構造から後の神話論理への流れがとてもわかりやすく整理されている。うん、改めて未読の著書とか読みたくなった(あるいは再読でもいいのだけれど)。入門書のいわば鑑っすね。

だからというわけでもなかったのだけれど、長く積ん読だった『見る、聴く、読む』(“Regarder Écouter Lire”, Plon, 1993を引っ張り出して読んでいるところ。すでに邦訳もあるけれど、とりあえず原文で。まだ半分ほどで、年越し本の一つになるのは間違いないけれど、すでにとても面白い。とくに音楽関係の論は個人的にも興味深く、「ラモーの和声理論は構造分析の先駆けだ」(7章冒頭)とか言われると、もうそれだけでシビれてしまう感じ(笑)。ラモーを扱った7章から9章には、いろいろと興味をそそる記述がある。たとえばラモーのオペラ「カストールとポリュックス」について、18世紀の聴衆が(今の聴衆とは違って)、3つの音でもって転調する大胆な音運びを、作曲家の意図を汲む形でちゃんと理解していただろうという話とか。うーん、レヴィ=ストロースも「よりドラマチックだ」と高く評価し、スコアの一部が同書に再録されている1754年版の「カストールとポリュックス」(初演版は1737年)はぜひ聴かなくては(笑)。

漢籍的教養……

当たり前だけれど、もうすっかり年末モード。この数年は年末に(年末以外にも時折やるけれど)2時間くらいかけて焼き豚風の煮豚を作っているけれど、今年もうまい具合にできた(笑)。ま、それはともかく。

年末読書ということで、最近出たばかりの『西田幾多郎歌集』(上田薫編、岩波文庫)を読む。西田幾多郎の創った短歌、俳句、漢詩、訳詩、さらに短いエッセイ、そして親族らの手記からなるなかなか興味深い一冊。特に長男の死を契機に増えたとされる短歌の数々は、いわゆる喪の仕事として切々たるものがある。少し前に道元の短歌についての入門本を読んだけれど、そこでの歌というものは、リファレンスの照応関係が織りなす万華鏡のようなものという感触だった。西田幾多郎の短歌はもっと近代的なものではあるだろうけれど、やはり詩作全体を支えているのは豊かな漢籍的教養。今ではすっかり失われている(と思われる)ような質の教養だ。それは同時に哲学的探求をも下支えしているのかもしれない、なんてことを考えると、あの難解な文章の数々もまた違って見えてきそうな気がする。一方、親族の手記から伝わってくるいかにも明治時代的な父親像というのも鮮烈だ。学問への取り組みは老いてなお常に若々しく、定年後にラテン語やギリシア語に本格的に打ち込んだ、なんてエピソードも見られる。

新刊情報(ウィッシュリスト)

久々にウィッシュリスト(笑)。この秋から冬にかけては例年に比べめぼしいものが少なかった。うーん、冬から春にかけては期待したいところだが……。

ピロポノス「世界の永続について」

夏くらいからちびちびと読んでいた3巻本のピロポノス『世界の始まりについて』は少し前に読了。創世記の註解として、新プラトン主義などいろいろな要素が織り込まれていてとても興味深いものだった。で、引き続き今度は今年Brepolsから出た、同じくピロポノスの『世界の永続について』(“De Aeternitate Mundi – über die Ewigkeit der Welt”, I & II, Clemens Scholten (übersetzen), Brepols, 2009を読み始める。こちらは2巻本で、上のとは違い、1巻が解説(というか論考ですね)、2巻が希独対訳になっている。というわけで両巻並行で読み進めることになる(笑)。『世界の始まりについて』のほうは哲学からの神学「転向」(というか断絶?)後の作品とされるのに対し、『世界の永続について』はその「転向」直前の作品らしい。このタイトル、実は略さずには「プロクロスによる世界の永続についての議論に対するアレクサンドロスのヨアンネス・ピロポノスの書」となっていて(クレメンス・ショルトンの解説によれば、これも後世に付けられたものらしいのだけれど)、「反プロクロス論」みたいに呼ばれることもあるという。実際、世界の永続についての反論はもう一つ、反アリストテレス論もあるらしい。いずれにしても、プロクロスによる世界の永続の擁護論(アッティコスなど、その先達たちのプラトン主義からすると逸脱とされるが……)は反キリスト教の議論として一種の標準となるものだったようだ。で、キリスト教を奉じるピロポノスがそれに反論を加えたというのが同書。まだほんの出だしだけれど、すでに「コスモスが仮に無限だったとして、コスモス内に有限の存在が複数生じるのは論理的におかしい」みたいな議論が執拗に繰り出されたりしている。うーむ、これはなかなか面白そう。ピロポノスの議論に対するシンプリキオスの反論もあるといい、このあたりの論争もまた興味深い。

「カルデア教義の概要」- 7

/ Ἀποκαθιστῶσι δὲ τὰς ψυχὰς μετὰ τὸν λεγόμενον θάνατον κατὰ τὰ μέτρα τῶν οἰκείων καθάρσεων ἐν ὅλαις ταῖς τοῦ κόσμου μερίσι· τινὰς δὲ καὶ ὑπὲρ τὸν κόσμον ἀναβιβάζουσι καὶ μέσας αὐτὰς διορίζονται τῶν τε ἀμερίστων καὶ μεριστῶν φύσεων.

Τούτων δὲ τῶν δογμάτων τὰ πλείω καὶ Ἀριστοτέλης καὶ Πλάτων ἐδέξαντο, οἱ δὲ περὶ Πλωτῖνον καὶ Ἰάμβλιχον Πορφύριόν τε καὶ Πρόκλον πᾶσι κατηκολούθησαν, καὶ ὡς θείας φωνὰς ἀσυλλογίστως ταῦτα ἐδέξαντο.

/彼らは、死と称されるものののち、魂は内的な浄化の度合いに従って世界のすべての部分に復帰するのだとする。(魂の)あるものは世界の上へと登り、分割できない本性と分割可能な本性との境を切り分ける。

これらの教義の多くは、アリストテレスやプラトンが受け入れている。プロティノス、イアンブリコス、ポルピュリオス、プロクロスにあっては、すべてに従い、論証の対象ではない神の声として受け入れている。(了)