新緑の季節は小説で

これは確か以前「ヘルモゲネス……」の大橋氏から伺ったものだけれど、ジャン・ベダールという作家の『マイスター・エックハルト』という小説(!)を古書でゲット(Jean Bédard “Maître Eckhart”,Stock, 1998) 。著者はなんとケベックの作家だった。どおりでフランス方面ではあまり名前を聞かないはずだと納得。そう、意外にケベックの刊行物はフランスとかには入っていかない感じだからなあ。まだ最初のほうをちらちらかじっているところだけれど、全体はエックハルトの秘書役だったハルバーシュタットのコンラッドによる記録という体裁で、エックハルトの実際のエピソードなどを再構成したものらしい。これは結構面白そうだ。ちなみに作者のベダールにはほかに(小説作品?)『クザーヌス』とか『コメニウス』などもあるようで、なにやら期待が高まる(笑)。

そういえばその大橋氏の少し前のブログで、トゥリオ・グレゴリーの論文の和訳(「アリストテレス自然学導入以前の中世哲学における自然観」)の話が出ていた。話の出所は吉本さんという方(現職の外語の先生なんですね)。そちらの日記に書誌情報が出ていて、さらにそれが収録された『イタリア学会誌』のCiNiiでのリンクが、ありがたいことにNordica mediaevalisに張ってあって、個人的にはまったく面識のない方々のこうした連携ネットプレー(?)のおかげで、グレゴリーの和訳論文を無事読むことができた。陰ながら感謝を捧げておきます。ほんと、素晴らしい時代になったもんです。で、そのグレゴリーの論文、これもなかなかのハイブロウぶり(笑)。多岐にわたる引用とか、衒学的で剛胆な書きっぷりとか。ある意味(個人的にも、世間的にも?)、これは今だからこそ「読める」という感じのする論考でもある。個々の細かな記述については、ちょっと個人的にも確認したいことなどがいろいろとあったりするので、その意味では「教育的」かも。そういえば、確か前にグレゴリーの『近代の哲学用語の起源』(Origini della terminologia filosofica moderna. Linee di ricerca)というのを購入したように思うのだけれど、積ん読の腐海に埋没しているのか見つからない(苦笑)。

実写版「カムイ外伝」

土屋アンナがビウエラ(!)を弾くシーンがあると聞いていた実写版の『カムイ外伝』(崔洋一監督、2009)を、レンタルDVDで観る。その期待のシーンは楽器のアップがワンカットのみ。うーむ、あまりに短い……(苦笑)。そもそも筋に絡む場面ではないし、土屋の役どころも筋に絡まないし。殿様(佐藤浩市演じるバカ殿(?))の「信長っぽさ」を出すための小道具でしかないのがとっても残念。どうも古楽器の扱いって、全般にいまいちなのよねえ。映画そのものも、CG使いすぎで今ひとつ(ワイヤぐらいでやってほしいかも)。最後の戦いだけが肉弾戦ぽいのだけれど、最初からその路線でやってほしかったなあ、と。そうそう、伊藤英明が主役を食っている感じがするのもちょっと……。登場人物たちの貧しさを著すためか暗めのメイクをロングショットぎみに撮るために、人物の表情とかはよく見えんし。また、舞台設定も南の島なんだか北の島なんだかよくわからんという……(苦笑)。エンドロールで流れるのが、ヘンデルの『リナルド』のアリア「私を泣かせてください」のアレンジ曲。これだけはちょっと面白い起用かもと思った。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 – 3

Β᾿
«Ψυχῆς βάθος» τὰς τριπλᾶς αὐτῆς γνωστικὰς δυνάμεις φησί, νοεράς, διανοητικάς, δοξαστικὰς · «ὄμματα» δὲ «πάντα», τὰς τριπλᾶς αὐτῶν γνωστικὰς ἐνεργείας. Τὸ γὰρ ὄμμα, γνώσεως σύμβολον · ἡ δὲ ζωή, ὀρέξεως · τριπλᾶ δὲ ἑκατέρα. Γῆ δὲ ἀφ᾿ ἧς δεῖ κουφίζειν τὴν καρδίαν, τὰ ὑλικὰ πάντα καὶ τὰ ποικίλα τῶν ἐν γενέσει φερομένων, καὶ πᾶς τύπος σωματικός · οἷς ἕπεται θέα μὲν τῆς πατρικῆς μονάδος, εὐφροσύνη δὲ ἄχραντος ἐπ᾿ αὐτήν, εὐστάθειά τε ἀπὸ τῆς νοερᾶς ταύτης περιωπῆς · ἀφ᾿ ῶν δῆλον ὡς μικτὸν ἡμῶν τὸ ἀγαθόν, ἔκ τε κινήσεως καὶ τῆς συμφυοῦς εὐφροσύνης. Πᾶσα γὰρ ζωή, τὴν ἑαυτῆς ἐνέργειαν εὔλυτον ἔχουσα, ἡδονὴν ἔλαχεν αὐτῇ σύζυγον.

2.
「魂の深み」とはその三つの知的な力、つまり理解、創意、見識だと言われる。「すべての目」とはその三つの認識の働きとされる。なぜなら目は認識のシンボルだからである。生命とは欲望のことだとされる。両者ともに三つ(の働きが?)ある。心が軽くなって離れるべき土とは、あらゆるものの材料であり、創造において作用した多くのものであり、あらゆる物体の刻印でもある。それに続くのは父なるモナドの観想である。それは父を目にする純粋な喜びであり、父を見て理解することから生じる均衡である。それゆえ私たちの善が、動きの喜びと同じ性質を分かち合う喜びとが合わさったものであることは明らかである。なぜならすべての生命は、みずからしなやかに働きかけることができ、父と結びついていることに喜びを感じるからである。

希語作文

まだ忙しい状態が続いていて、なかなか通常の読書とかに戻れない……(苦笑)。そんな中、昨年秋からやり直していたギリシア語作文練習の教科書、ノース&ヒラードの『ギリシア語作文』(North & Hillard, “Greek Prose Composition”, Duckworth 2003)の背がついに痛んでページが少し脱落。うーん、結構酷使していたからなあ。この教科書は短文練習が充実しているので、 ほかよりも個人的には気に入っている。でも、ある意味似たような練習問題が繰り返されるので、ちょっと内容的に飽きてしまうきらいも……(苦笑)。ま、もともとパブリックスクールあたりの教科書らしいけれど、なんだか受験勉強を思い起こさせる感じ……。やはり次はもうちょっと創造的な希訳練習ができるものがよいかもなあ。うーん、まだ先は長い>エウパリノス・プロジェクト。

リュート図像

青土社の刊行案内(新刊に挟まっているチラシ)が、一連のリュート画像を使っていることに今更ながら気がついた。いつからこうなっていたのかちょっと不明なのだけれど、なかなか粋なはからいでないの(笑)。普通、帯とかチラシとかはすぐに捨ててしまうため、とりあえず手元にあるのはNo.80(2010年春)とNo.79(2009年夏)。前者で使われているのはハンス・メムリンク(Hans Memlinc)の『奏楽天使』っすね。15世紀末ごろの三連版の左側。現在はブリュッセルの王立美術館所蔵とか。

後者で使われているのは、ちょっとすぐには分からなかったので探してみた。で、無事見つかる。17世紀のエヴァリスト・バスケニス(Evaristo Baschenis)の『アレッサンドロ・アリャルディとの自画像』という作品。リュート(というかテオルボ)を弾いているのではないほう(つまり鍵盤(?)をいじっているほう)が自画像らしい。あっと、下のサムネイルでは顔が半分切れてしまっている……。それにしても、その上にある超ミニのリュート……描かれている楽器でこれだけが大きさ的にバランスが取れていない感じで、なんだかとても気になる(笑)

ちなみに、古楽系の図像で「これは何」というのがあったら、まずはカメラータ・ムジカーレのギャラリー古楽画廊を覗いて見ませう。