プロクロス「カルデア哲学注解抄」 -14

Δεῖ γὰρ καὶ τοῦτο εἰδέναι, ὡς πᾶσα ψυχὴ πάσης κατ᾿ εἶδος διέστηκε, καὶ ὅσαι ψυχαί, τοσαῦτα καὶ τὰ εἴδη τῶν ψυχῶν ἐστι · πρῶτον μὲν γὰρ καθ᾿ ἓν εἶδος, πολλῶν ἀτόμων ὑπόστασις ἑνοειδῶν περὶ τε τὴν ὕλην ἐστὶ καὶ τὰ σύνθετα τῶν ὄντων, μιᾶς ὑποκειμένης φύσεως ποικίλως τοῦ αὐτοῦ μετεχούσης εἴδους · εἰ γὰρ τὸ εἶναι τῆς ψυχῆς λόγος ἐστὶ καὶ εἶδος ἁπλοῦν, ἢ οὐδὲν διοίσει κατ᾿ οὐσίαν ψυχή τις ἄλλης, ἢ κατ᾿ εἶδος ἂν διαφέροι · ὃ γὰρ ἐστι διοίσει μόνον, ἔστι δὲ εἶδος μόνον. Ὅθεν δῆλον ὡς πᾶσα ψυχή, κἂν τῶν αὐτῶν ᾖ λόγων πλήρης, ἀλλ᾿ ἓν εἶδος ἔλαχεν ἀφοριστικὸν τῶν ἄλλων, ὥσπερ τὸ ἡλιακὸν εἶδος χαρακτηρίζει τὴν ἡλιακὴν ψυχήν, ἄλλο ἄλλην.

というのも、次のことを知らなくてはならないからだ。魂はすべて種において(ほかの)すべてと異なっており、魂があるだけ魂の種もある。なぜなら、まずは一つの形相のもとでも、質料および複合的存在においては、一者の形相をもった複数の分割できない実体が存在するからである。下支えする単一のピュシスが様々にその同じ形相に与るのである。もし魂の存在とはロゴスであり、端的な形相であるとするなら、どの魂も実体においては他とまったく変わらないか、あるいは形相において異なるかである。というのも、存在するもののみが異なりうるのであり、それは形相でしなかいからだ。ゆえに、次のことは明らかである。魂がすべて同じロゴスに満たされているにしても、わずかに形相においては他と区別されうるのであり、結果的に太陽のごとき形相が太陽のような魂を特徴づけ、他の形相は他の魂を特徴づけるのである。(了)

*次回からはプセロス「カルデア神託注解」。

実在、不確定、神……

これもちょっとした話題作……なのかな?マイケル・ダメット『思想と実在』(金子洋之訳、春秋社)にざっと目を通す。分析哲学はなにやらとても窮屈な感じがするので、そういうのに耐えられる心情のときでないとなかなか読み進められないのだけれど、これは講義がもとだということで、比較的とっつきやすい感じではる。ま、そうはいっても歯ごたえは十分すぎるほどあるのだけれどね(笑)。個人的には最後の3つの章が断然面白い。まずは命題の真偽がどう決まるのかという大きな問題をめぐって進んだ末に、命題が時制をもっている場合の処理が、諸説にとってのある種の試金石になることを論じている。ダメットはそこから、「文理解についての正確な説明」が「要求する程度にとどめる」限定つきの実在論を擁護する。次いで今度は、そうして考えられた実在論から、二値原理(真か偽か)でもって確定できないような実在が導かれる。「もし世界が創造者をもつならば、神は確実に人間の著者と同じように世界の細部を未決定のままに残す自由をもつはずである」。こうして、事物の現れ方(われわれにとっての)と事物それ自体がどのようにあるかということとの断絶があらわになり、と同時に、あるがままの事物を捉えることの不可能性(われわれの)が、そうした事物を捉える純粋知性としての神の概念へと織り込まれて表裏をなすことが概括される……。この、世界観や神についての問いは同書の白眉といえそうな部分で、このあたり、(多少の読みにくさはあっても)なんだか一気にたたみかけるような調子でどんどん読ませてくれる。分析哲学も大陸系の現象学のように、そうした壮大な問いへと開かれている……なんてことはつい忘れてしまいがち(反省を込めて、苦笑)。

自然の鑑

この数日はほとんどとんぼ返りの帰省でいろいろと疲れる……。こういう時は、やはり本に没頭するに限るかも(苦笑)。暑気払いの意味も込めて、夏読書に取りかかろう。というわけで第一弾は、トゥーリオ・グレゴリーの論集『自然の鑑 – 中世思想探索』(Tulio Gregory, “Speculum naturale – percorsi del pensiero medievale”, Edizioni di storia e letteratura, 2007。まだとりあえず、「自然と惑星の性質」(Natura e ‘Qualitas Planetarum’)という一章を眺めただけだけれど、これがまた、なんとも魅力的。天空が地上世界に影響するという占星術的な考え方の伝播・拡がりを、12世紀から15世紀にかけてのスパンで描き出したもの。うーん、なかなか勉強になる。こういう長いスパンを取って個別の事象をめぐっていくというのはグレゴリーのスタイルなのかしら。個人的にはとりわけ、聖書のコスモロジーとアリストテレス自然学の摺り合わせは創世記よりも終末論に絡んで複雑になるという指摘に、突かれる思いがした。うーん、終末論絡みで自然学がどうなるかというあたりはスルーしてきたなあ、と改めて思う。で、そこでもまた、ペトルス・ロンバルドゥス『命題集』の四巻が重要らしい。で、ボナヴェントゥラ、ミドルタウンのリカルドゥス、トマス・アクィナスのそれへの注釈が簡単に紹介されている。そのうちチェックしておかなくては(笑)。

教会と俗世:錯綜感

小著ながらこれはなかなか興味深い一冊。フランツ・フェルデン『中世ヨーロッパの教会と俗世』(甚野尚志編、山川出版社)。マインツ大学の歴史学教授による日本での講演をまとめたものということだけれど、収録されている三つの講義はそれぞれ12世紀の女子修道院、聖堂参事会、アヴィニョン教皇庁など、どれも内実があまり知られていない(と思われる)事象を扱った貴重な内容だ。最初に編者による解説があって、これが端的なまとめになっているのだけれど、実際の本文になると、なかなか歴史事象というものがすんなりと一筋縄ではまとまらないことを改めて感じさせる。たとえば最初の女子修道院。12世紀初頭ごろにはいったん男女共生の修道院(プレモントレ会とか)が登場しながら、すぐにそれは廃止され、その記憶すらも消去されるという話や、シトー会の周辺というのが以外に様々な動きを見せて、シトー会の女子修道院の実体というのがとても多義的だというあたりの話など、なにやらとても錯綜した感覚だ。聖堂参事会もしかりで、修道院との関係などの話は興味深いものの、なにやらよくわからなかったり(苦笑)。アヴィニョンの教皇庁も、従来の確固たる権力機構というイメージは修正を強いられているらしい。そのあたりを読み解く鍵は国王との関係だともいう。うーん、このあたりはなかなかに興味深い。巻末には結構充実した参考文献も。

「スアレスと形而上学の体系」 8

スアレスが唱える形而上学の対象は、「可能性」としての存在者だという話になった。で、第二部第五章は、ならばこの可能性とはどのようなものなのか、という観点でスアレスの議論を眺めるという趣旨となっている。で、まずこれは、ガンのヘンリクスなどが提示する(とスアレスは言う)可能態の自律した秩序、神そのものも与り知らないとされる秩序を批判するものなのだという。スアレスは、「現実としてあるものは創造されたものである以上、存在を与える神の決定に対して後続する関係にある」とし、かくしてスコトゥスの考えるような「認識された存在」のごとく、存在の現勢化を考慮しない、あくまで存在するものの「名称」を問うにとどめるのだという。

さらにスアレスは、神がもたらす絶対的な可能態という意味での絶対的可能性を肯定的なものとする(否定的定義に対立する)。つまりそれは無ではない何かであって、しかもそれは神という絶対的な力によって担保される何かということになる。また、角度を変えて今度はその神の端的な知性が可能態をいかに認識するのかということを思い描くと、可能態そのものにはやはりなんらかの内在的な現実がなくてはならないということになる。スアレスはそれを「存在に向かう性向」(aptitudo ad existendum)と称する。これが著者の言うところの「モノ性」だ。スアレスにおいて、こうした可能的存在は、理性的存在(理性が捉えた存在)に対して、実在しうるという意味での余剰性を持つのだけれど、著者によれば、それはほとんど無に近いような余剰性だ。けれども、かくして導入されたこのわずかな実在性・現実性が、形而上学の転換という大きなギアチェンジをもたらすことになる……(?)