過ぎゆく(?)夏の諸々……

相変わらずの暑さの中、昨日は例年のビウエラ講習会。今回もリュートで参加する。曲はフエンジャーナ(Fuenllana)の「con que la lavare(何で洗えばよいのでしょう)」。これがぱっと見よりも難しく、準備段階から悪戦苦闘する。ま、難曲挑戦シリーズということで勘弁してもらおうかと。懲りずにまた頑張ろう(苦笑)。

講習会では、受講生全員分の楽譜のコピーが配られるのだけれど、その中に先日のフレンチタブラチュアのビウエラ曲集からのコピーがあって(ナルバエス)、そのページにクピド(?)の絵とともにこんな羅語が(たぶん元のナルバエスの曲集からのものでしょうね)。

Ne ingenium volitet,
Pauperitas de primit ipsum

接続法っすね。「才能がふらつかぬように。貧しさはおのずと頭をもたげるのだから」。ぱっと目には「虻蜂とらず」みたいな意味でしょうかねえ。ちょっと気になって出典はないかと、岩波の『ギリシア・ラテン引用語辞典』とか見てみたのだけれど、載っていないみたい。でもこれ、いろいろ含みをもたせる解釈もできそう(笑)で、個人的には気に入った一句。そういえば余談だけれど、最近『ラテン語名句小辞典』(野津寛編、研究社)というのが出た模様。これはそのうちゲットしよう(笑)。

昨日深夜(今日の未明)にBSで放映されていた今年のバイロイト音楽祭の『ワルキューレ』。無事録画できていた。これから2日くらいかけてちゃんと見ようっと。先日(21日)深夜には世界初とかいう「生中継」で同じ演目が放映されていたけれど、一幕目を見たあと、なんと1時間ものインターバル(生中継だから仕方ないのだが)があって、こりゃつき合ってらんないと思い寝てしまう。そもそも、野球とかサッカーとかじゃないんだから生中継ってあまり意味がないような気も……(苦笑)。

「モーセの生涯」

このところ、秋に出る予定の語学教材のゲラ読みなどがあって、あまりまとまった時間が取れないのだけれど、とりあえず今道本のニュッサのグレゴリオスのところで出てきた『モーセの生涯』を、希仏対訳本(Grégoire de Nysse, “La Vie de Moïse”, trad. Jean Daniélou, Cerf, 1945-2007)で、気分転換的にちびちびと読み始める。序文と、モーセの生涯をまとめた第一部のまだほんの出だしのところ。グレゴリオスによるコメントの対象となるはずの、モーセのストーリーをひたすら復習している感じだ。で、ちょうど紅海が割れる逸話のあたりまで差し掛かった。モーセの神的体験を一種のモデルとして称揚するといった実に興味深げなコメント(今道本がそのあたりを強調していたっけ)は、このあとの第二部に登場するはず。第二部はまだもうちょっと先で、とりあえずはもうしばらく復習が続く……(苦笑)。

フレンチタブのビウエラ本

先日、リュートの師匠のところで共同購入の形で取り寄せていただいた、フランス式タブラチュアによるビウエラ曲集『ビウエラのための三つの曲集(“Tres Libros de Musica para Vihuela” ed. Dick Hoban, Lyre Music Publications, 1996)』。これを空き時間にちょこちょこと眺めている(笑)。ビウエラ曲は普通はイタリア式タブラチュア(数字式)だけれど、これはそのフランス式(アルファベット式)でのトランスクリプション版。リュートは一般に、まずはフランス式で習い始め、やがて進んできたらイタリア式も学ぶというのが普通だけれど、人によってはこれが取っつきにくさにもなるのだという。同書はそうしたイタリア式の壁を低減させようという試み。なかなかよく出来ている感じだ。師匠の受け売りだが、ビウエラ曲の普及という意味でもこれは結構有用かもしれないなあ、と。個人的には、ゴンザレスのビウエラ曲集CD-ROMに当たりを付けるための参考資料として使おうと考えている。とりあえずこのフランス式で適当にさくさくと弾いてみて、面白そうならちゃんとしたイタリア式の原典を見てじっくり……みたいな使い方を想定。ま、ルネサンスものについては実はイタリア式タブラチュアのほうが好みだったりするし、逆にフレンチ式で書かれた曲のイタリア式トランスクリプションとかもあってもいいかも、なんてこともちょっと思ったり(それってまったくもって現実的ではないが……苦笑)。

詩的文章に身を寄せること

先日挙げたサラ=モランスの『ソドム』もそうだけれど、これまたとても詩的な文で綴られた一冊。南原実『極性と超越−−ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』(新思索社、2007)。うーむ、こういうのはいったん手に取り始めるとなにやら続くなあ(笑)。これもほぼ書名だけに惹かれて手にした一冊(笑)。この書もどこか読み手を寄せ付けず、議論を取り出すのも容易ではない極北の一冊(かな?)。上の『ソドム』とどこか同じような空気を感じさせる。でも「エセー」って本来は(もとの意味に留意するならということ)こういうものかもなあ、なんてことも思う。こちらは東西の垣根までも自由奔放に往還しつつ、ベーメ(17世紀初頭のドイツの神秘主義者っすね)の思想の根底に接近しようとする試みらしい。ベーメのことをあまりよく知らないのでナンだけれども。ベーメについて何か知識が増えるというのではなく、むしろテキストを追うことでなにかが意識下に訴えかけてこないか探る、という感じの読書。あるいは、読んで理解するというよりも、テキストの手触りを味わいつつ表層を滑っていき、うまくいけば裏側にまで滑り込んでいくかもしれない(?)というような読書。まさに詩を読むという感触ですね、これは。個人的にとりわけ訴えてくる部分は、リズミカルな文章で綴られていく錬金術がらみの記述か。その手触り、なかなかよい。もしかするとベーメの、あるいは大もとの錬金術方面の思考の襞、意識下みたいなものが、著者の筆そのものにも闖入してきているのかもしれないなどとふと思ったり。うーむ、こちらも安っぽいながら詩的な思考形態に引きずり込まれそうかも?(苦笑)。そういうのって伝染するのかしら、なんて。

法哲学の根っこの方へ

ルイ・サラ=モランスといえば、個人的には以前読んだ『異端審問の手引き』の仏訳者。博論がライムンドゥス・ルルスの研究だったという話も聞いていたのだけれど、あまりマークしていなかった。で、少し前に邦訳が出たと聞いていた『ソドム−−法哲学への銘』(馬場智一ほか訳、月曜社)をつい数日前に読み始めたところ。まだ全体の3分の2くらいか。読む前、きっとかっちりとした論考だろうと想定していたため、最初は見事に面食らう。ほとんど詩といってよいような自由奔放な比喩・連想で綴られる文章。「現代思想」系に慣れていないと閉口間違いなしというふうなのだが、でもこのノリに乗っかってしまうと読書のある種の快楽を味わうことができる(笑)。ロラン・バルトっぽく言うならテキストの享楽。ま、広く推奨しうる本ではないかもしれないけれどね。闊達な語りから浮かび上がってくるのは、「法」というものの基盤が実は空間的な囲い込みにあることのほか、一方でそれが全体性として君臨し、(それを神に譬えるならば)司祭役によってその支配は幾重にも強化され、それが語りとして歴史をなしている、といった話。法のそうした基盤というか根っこの部分を掘り下げることが、サラ=モランスのねらいということになる……のかしら(?)。ルルスや異端審問への言及もいたるところに出てきて、そのあたりも興味深い。

個人的には、学術論文などのかっちりした論理構成の明晰な文章もいいけれど、たまにはこういう組んずほぐれつする詩のような曖昧でおぼろな文章もいい。でも、だんだんと後者のようなテキストは出版されなくなってきているのが残念(こういうのが盛んだったフランスでも、日本でも)。まあ、売れないだろうし、需要も受容も今一つというところなのだろうけれど、たとえば同書で扱っているような法という現象の根源をめぐって思考を重ねていくような場合には、そもそも通常の論証には馴染まないかもしれず(本当にそうかどうかはさしあたりわからないけれど)、こうした詩的言語を駆使した、いわば考察の追体験のようなものが意外に読む側に響いてくるような気もする。そういうのがなくなっていくというのはちょっと寂しいかもなあ、なんてことを思う。