フエンジャーナ曲集

16世紀のビウエラ曲の作曲家、ミゲル・デ・フエンリャーナ(フエンジャーナ)の曲集を聴く。演奏はモッテン・ファルクというスエーデンの奏者。フエンリャーナ、ミゲル・デ(c.1500-c.1579)/Vihuela Works: Marten Falk(Vihuela) El Escorial。フエンジャーナの曲は(というかビウエラ曲全般だけど)一見簡単そうに見えて、実はめちゃくちゃむずかしい。というか、奥深い。曲自体がそもそも結構複雑だし。でもそれがとても美しく響く(もちろん、ちゃんと弾ければ、という条件つきだけど)。この盤では、ビウエラだけでなく、ソプラノ(イングリッド・ファルク)、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバが加わって、なんとも大陸的な、哀愁漂うパフォーマンスを繰り広げている。なかなかの逸品かも(笑)。モッテン・ファルクはもともとギターの人のようだけれど、うーむ、ルネサンスものから現代ものまでなんともレパートリーが幅広いっすねえ。

「原因すなわちラティオ」より 1

スアレス研の一環として、ヴァンサン・カローの『原因すなわちラティオ』(Vincent Carraud, “Causa sive ratio – La raison de la cause de Suarez à Leibniz”, PUF, 2002)の最初のあたりを見ていくことにしよう。Causa sive ratioという表現はデカルトの『省察』に出てくるということだけれど、同書は「原因」という概念の近代的理解の成立について、スアレス、デカルト、ライプニッツを通じて検証するという趣旨の思想史本。500ページ超だけれど、とりあえずここではスアレス研ということで、序章と第一章のスアレスについてメモを取っていくことにする(全体の3分の1弱くらい)。というわけでさっそく序章から。序章は「vade mecum」(手引き)となっていて、「原因」概念が古代・中世とどう変遷してきたかを大きな枠でまとめている。とりわけ、なぜスアレス以前を詳しく扱わないのかについての正当化が注目点。なぜかというと、それが同書の問題機制の要の部分に関連するからだ。実際のところ、近代においては作用因が唯一無二の原因として取り上げられるようになったわけだけれど、そこにはほかの原因(アリストテレスのいう四原因のうちのほかの三つ)が後退していく過程が読み込めるということにもなる。そしてまた、近代的な見方のもう一つの特徴は、因果関係が「基礎付け・根拠」から乖離しているということでもある。何かの事象の原因を云々する場合でも、その成立基盤そのものに立ち入るのではなく、要は直前の作用関係だけが問題になる。そしてそれを「理解」することこそが、原因を掌握したこととされる。まさしく「原因すなわちラティオ(理解・理由)」だ。

断絶の第一点は古代のアリストテレスにある、という。なぜならそこで、「起源」に対する「原因」の優位が確立されることになるからだ。それ以前のたとえばプラトン『ティマイオス』では、基本的に問題とされるのは「起源」でしかない。「原因」の議論を持ち込んだアリストテレスは、それをめぐる諸々の議論(ストア派など)をもたらし、やがてそれがetiologie(アイティオロギア:原因論)を成立させる。

一方で、七〇人訳聖書などにあるという「何も原因なしにはもたらされない」といった言い回しも、実情としては、何事にも「起源」が必要だということを述べた成句にすぎないとされる。初期教父たちはその場合の「原因」を「起源」の同義に解釈し、上の『ティマイオス』での記述と重ね合わせる。原因とはすなわち「産出するもの」「先行するもの」であり、それは「ラティオ」をともなっているものと解釈される(カルキディウス訳の『ティマイオス』)。

ここで再びステップバック。「何も無からは生まれない」「何も無には帰されない」という成句は古代の原子論の遺産かもしれないという。ペルシウス(一世紀)経由でルクレティウスに、さらにルクレティウス経由でエピクロスやデモクリトスにまで遡及できるらしい。で、その成句はアリストテレスによっても取り上げられる。アリストテレスは「非在からは存在は生まれない」とし、パルメニデス流の「万物は生成も消滅もせず、存在・非在のいずれかから必然的に出来する」といった考え方に反論を加えるのだけれど、その一方で「非在からの生成があるとすれば、それは偶有的な場合(たとえば何かの存在の欠如など)が考えられる」というようなことも述べている。これはかなり画期的なことで、これにより「存在は存在から生じる(=何も無からは生まれない)」ということが一つの典型例にでしかなくなってしまう。ならば存在は何から生じるのかというと、それはなんらかの「原理」(存在の欠如もそれに含まれる)ということになる。こうして、それまで起源が問題だった地平は、原理・原因が問題とされる場所に転じる。生成の認識もまた、もはや「存在」か「非在」かではなく、その原理についてのラティオが問題となる……。

雑感:一より複数?

昨日NHKで放映していたサンデルの東大でのレクチャー。これに、「二人の人物が助けを求めているとき、あなたが一人しか助けられないとしたらどちらを助けるか」なんて問いかけが出てきた。サンデルはこれにコミュニティへの帰属問題を絡めていたけれど、その部分はさしあたり置いておくと、この一見アポリアに見える設問、実はこういうふうに抽象化されるせいでアポリア感が強まってくる。現実的・具体的な情報が与えられればなんらかの対応策がありうるかもしれないわけで。状況のパラメータは無数にあり、端から見れば弱腰とか逃げているとか見られても、場合によってはいったん現場から立ち去って援軍・仲間を呼びに行くほうがよい、なんて選択もありうるはず。でもサンデル流の設問の仕方では、そういう方向にすぐには思考が行かないようある意味「誘導」(言葉は悪いが)されている感じも。前提はこうこう、その中で考えるならどうか、みたいな、学生ディベートなどでよくやる問題の搾り方・外堀の埋め方なのだけれどね……。そう、サンデル流の設問って、具体的な問題とかいいながら、捨象するところは捨象して、結構うまく抽象化されている。そのあたりが名人芸といえなくもないけれど(笑)。

一人では対応できない状況なら複数でもって立ち向かう、というのは案外プラグマチック。すっごく卑近なところでは、福本伸行の『カイジ』の限定じゃんけんとかにもそういう話があったし(笑)、CSチャンネルで先日やっていた『スタートレック・ヴォイジャー』のとあるエピソードでも出てきた(笑)。肝心なのは周到に準備して、一端そういうスタンスで行くとなったらブレないこと。ブレると破綻するという話も両方に出てくるし。そりゃそうよねえ。なにやらこのところ中国への対応とかでいろいろ騒がしいけれど、これなどもASEAN諸国あたりと連合組んで対応するとか、何かやり方はありそうな気もするのだが……?

プセロス「カルデア神託註解」 3

Ὁ μὲν γὰρ ἑλληνικὸς λόγος, ἀθάνατον τιθεὶς καὶ τὴν ἄλογον τοῦ ἀνθρώπου ψυχήν, μέχρι τῶν ὑπὸ σελήνην στοιχείων αὐτὴν ἀνάγει · τὸ δὲ χαλδαϊκὸν λόγιον καθαῖρον αὐτὴν καὶ ὁμόφρονα ποιοῦν τῇ λογικῇ ψυχῇ, εἰς τὸν ἐπέκεινα τῆς σελήνης τόπον τὸν ἀμφιφαῆ ταύτην ἀποκαθιστᾷ. Kaὶ τὰ μὲν τῶν χαλδαίων δόγματα τοιαῦτα. Οἱ δὲ τῆς εὐσεβείας ὑφηγηταὶ καὶ τῶν χριστιανικῶν δογμάτων ὑποφῆται καὶ κήρυκες οὐδαμοῦ τὴν ἄλογον ψυχὴν ἀνάγουσιν, ἀλλὰ θνητὴν διαρρήδην ὁρίζονται, ἄλογον δὲ ψυχὴν τίθενται τὸν θυμὸν καὶ τὴν ἐπιθυμίαν τὴν ὀρεγομένην γενέσεως. Οὕτω γοῦν ὁ Νυσσαεὺς Γρηγόριος ἐν τῷ περὶ ψυχῆς λόγῳ διέξεισιν.

というのもギリシアの言葉は、人間の非理性的魂をも不死のものとし、月下の元素にまで引き上げているからである。一方でカルデア神託はそれを浄化し、理性的魂と同じ情感で結び、月を越えた光溢れる場所へと再び戻す。カルデアの教義とはそのようなものなのである。一方、キリスト教の教義の信仰を導く人々、預言者、布教者たちは、誰も非理性的魂を高みに導こうとはせず、死を運命づけられたものと明確に断じ、非理性的魂を生成に向かう意志ないし欲望と位置づける。このことは、たとえばニュッサのグレゴリオスが魂についての著書で示している。

ブールノワ

メルマガとの関連もあって、このところオリヴィエ・ブールノワによるスコトゥス論『存在と代示』(Oliver Boulnos, “Être et représentation”, PUF, 1999-2008を部分的ながら眺めている。これがまた、なかなかに面白そうだ。副題が「ドゥンス・スコトゥス時代における近代形而上学の系譜」となっていて、全体としてはスコトゥスを中心としつつ、同時代的な(13世紀から14世紀)形而上学の一大転換の諸相をテーマごとに追っていくという体裁らしい。スコトゥスの革新性はかつてジルソンなどが語っていたわけだけれど、これはスコトゥスに結集するフランシスコ会などの流れなどをも視野に収めつつ、より細やかで幅広いアプローチを取っている感じだ。通読したわけではないのでナンだけれど、中心となるのはタイトルにもあるように「代示(representatio)」の問題で、その表象論・認識論的な拡張の先には当然というか神の問題、神学(存在神学)の転回が控えている、という次第。けれども個々の細部の結構興味深いので、少しまたメモでもしながら読んでいきたいと思っている。