改めて宣伝:『時事フランス語』

先日ちょっとだけ紹介させていただいた拙著『時事フランス語』(東洋書店)は、どうやら書店に入った模様。というわけで、改めて宣伝(苦笑)しておくと、これ、文法解説などいっさい抜きで、いきなり実践的にテキストをがんがん読みましょう、という方式です(それで引いちゃう人もいるかもなあ)。見開きで一課という体裁で、左にテキスト、右に関連する(?)ボキャブラリを採録しています。テキストはもとがニューズレターの一部なので、短いながらも情報が圧縮されている感じの濃いもの。でも、報道の論述形式に慣れる意味で悪くないのでは、と採用に至った次第。ボキャブラリは最近の時事問題で比較的目に付いたものを集めてみた。例文がもうちょっと多くてもよかったかな、と後から少し反省。とにかく小さな学習用の実用書ですが、フランス語学習をめぐる学生時代からの苦闘など(笑)様々な思いを込めて作った一冊です。

プセロス「カルデア神託註解」 7

Τινὲς δὲ ἁπλούστερον ἐξηγήσαντο τὸ παρὸν λόγιον · ¨μὴ ἐξάξῃς¨ γὰρ, φησίν, ¨ἵνα μὴ ἐξίῃ ἔχουσά τι¨ · τοῦτ᾿ ἔστι · μὴ προανέλῃς σαυτὸν τοῦ φυσικοῦ θανάτου, κἂν πάνυ πεφιλοσόφηκας · οὔτω γὰρ τῆς τελεωτάτης καθάρσεως ἔτυχες. Ἔνθεν καὶ ἀφιπταμένη ἡ ψυχὴ τοῦ σώματος διὰ τῆς τοιαύτης ἐξαγωγῆς ἔχουσά τι τῆς θνητοειδοῦς ζωῆς ἔξεισιν. Εἰ γὰρ καὶ ¨ὡς ἐν φρουρᾷ τῷ σώματί ἐσμεν οἱ ἄνθρωποι¨ ὥς που δὴ καὶ Πλάτων εἴρηκεν ἐν ἀπορρήτοις λόγοις, τὴν ἄνω δόξαν μεμαθηκώς, ἀλλ᾿ οὐ δεῖ ¨ἑαυτὸν ἀποκτιννύναι τινὰ πρὶν ἂν ἀνάγκην θεὸς ἐπιπεμψῃ¨. Καὶ κρείττων ἡ ἐξήγησις αὕτη τῆς προτέρας καὶ τῷ χριστιανικῷ λόγῳ συμβαίνουσα.

ある人々は、上の神託をより単純に解釈してきた。「排出させてはならない。それが何かを引き連れて外に出ないように」とは次のような意味だと彼らは言う。つまり、みずからの自然の死に先立って高まってはならない、たとえ知をすっかり愛そうともである、なぜなら完全な純化には至っていないからだ、というのである。このことから、魂がそのような導きにより肉体から飛び立つ場合、死せる運命にある生命の何かをも引き連れていくことになる。実のところ、たとえ「私たち人間は肉体の監獄の中にいるようなもの」であり、上方からの見解を学んだがゆえにプラトンがそのことを謎めいた言葉で述べているとしても、「神が必然をもたらす前にみずから命を絶つ」べきではない。この解釈のほうが上の解釈よりも優れており、キリスト教の教義とも一致する。

モノ暮らしの起源

これは期待通りの一冊。キアーラ・フルゴーニ『カラー版・ヨーロッパ中世ものづくし』(高橋友子訳、岩波書店)。基本的にいろいろな「モノ」に囲まれた現代人の暮らし。その大元がもしかするとヨーロッパ中世にあるなんて話は、すでにいろいろなされているけれど、まとめて読むと改めて感慨深いものもあるなあ。メガネや本、楽譜、トランプ、チェスボード、ボタンや下着、フォークなどなど、その大筋の形が定まっていくのが中世。もちろん最初は修道院とか、財力のある富裕層で消費されるだけだったわけだけれど、私たちの生活の馴染みのモノが、はるか上流でそれがどのように使われていたのかを垣間見るとうのもなかなかの一興だ。この小著(もっと大部の本かと思っていた)、類書もないわけではないけれど、同書は記述も細かくてとても面白い紹介になっている。たとえば冒頭のメガネの章では、メガネの発明家が捏造された話なども取り入れているし、またカラー図版をふんだんに紹介して、図像学的な見地からのその変遷なども詳しく解説していく。この図像学的な解説部分が個人的にはとても気に入った。ちなみに解説を大黒俊二氏が記しているけれど、これは同書の訳者の遺作なのだそうだ。

古代・中世の「意志」問題

これも「意志」がらみの研究書。マイケル・フランプトン『意志の具現化』(Michael Frampton, “Embodiment of will”, VDM, 2008をちらちらと眺め始める。これ、副題が「古代からラテン中世までの動物の自発的運動に関する解剖学的・生理学的諸理論」となっていて、つまりは動物が意志的に行う運動についての理論の変遷を前400年から1300年までのスコープで扱うという、とても野心的な本。600ページを越える本だけれど、文献表や索引が200ページ以上を占めていて、なにやら圧倒的。学術論文の形式を取っているので、本文よりも注がページを占拠している感じ。でもこの学術論文形式のよいところは、目次の小見出しを追うだけでも全体的な流れがわかることっすね。大筋でいえば、最初の二章では、魂が座する器官を心臓とするアリストテレスと、それを脳や神経に認めるガレノスが対比されていく。後者は中世にまでいたり、次いで中世盛期にはアヴィセンナ経由などでアリストテレスの考え方が入ってきて、両者の折衷案のようなものができる、というのが大きな見取り図。けれど、やはり個別の議論は結構細かい目配せがなされているようで、たとえばアリストテレスを扱う第一章でも、その医学的議論の前史などもまとめられていて興味深い。中世盛期でいえば、たとえばアリストテレスの本格流入前について、サレルノで活躍したらしい数人の医者の著作なども取り上げられている。そのあたりが個人的には面白そう。ちょっと腰を据えて読んでいきたいところ。目次からすると、ちょっと中世初期と盛期との間が抜けているような印象だけれど、まあこれは仕方がないところなのかな。ちなみに著者は独立系の研究者(機関に所属していないということでしょうね)。

意志をめぐる問題

また例によって多忙な月末。とはいえそんな中、分析哲学系の論集『自由と行為の哲学』(門脇俊介、野矢茂樹編・監修、春秋社)を読み始める。メルマガのほうでドゥンス・スコトゥスの意志論を見ているせいか、このところ現代的な文脈での意志論・自由論にも改めて関心が向いてきていたところ。そんわけで同書。ストローソンほか六人の論者による八つの論考を、監修二人、訳者八人でまとめ上げたアンソロジーの力作。なかなか濃い内容のようで、見るからに壮観だ。最初の野矢氏の序論が全体のトーンや論点を紹介していてとても参考になる。で、まだ第一章のストローソンを読みかけなのだけれど、とりわけ第二章のフランクファートの選択可能性(ある行為が成立した背後に、別の行為の可能性があったというもの)議論が個人的には興味深そう。序論によると、フランクファートは自由の核心を選択可能性ではなく、行為者性に置くのだという。選択可能性に近い発想はスコトゥスの偶有論にもあって、過去や現在を決定済み、未来を未決定(つまり偶有)と考えていたそれまでのアリストテレス哲学的な時間論を、偶有とは同時的な選択性であると喝破して、そういう決定・未決定の問題から切り離したのだという話(メルマガNo.181を参照)だったのだけれど、フランクファートの行為者性というのがどうもそういう決定性の話らしく、もしそうだとするとこれは、スコトゥスとのバーチャルな対話・議論さえ夢想できそうな気がしてくる(笑)。虚言妄言失礼……。