この一週間のtweets : 2011-01-24から2011-01-30

オリヴィの政治論?

メルマガの関連もあって、ペトルス・ヨハネス・オリヴィに関する論集を入手する。アラン・ブーロー&シルヴァン・ピロン編『ペトルス・ヨハネス・オリヴィ – スコラ哲学、反逆精神、そして社会』“Pierre de Jean Olivi – pensée scolastique, dissidence spirituelle et société”, ed. A.Boureau et S. Piron, Vrin 1999)という一冊。あいにく、調べたいと思っていた質料形相論関連の話などは出ていなかったのだけれど、論集そのものとしてはなかなか面白くて、拾い読みに精を出しているところ(笑)。これ、オリヴィの没後700年を記念して1998年に、ゆかりの地ナルボンヌで開催されたシンポジウムの論集なのだそうだ。変な癖で、ついつい直接関係ないものに眼がいてしまう(苦笑)。ま、これもまた論集の楽しみ方であるのは確かだけれど。

この間のミュラ本以来、政治哲学関係にも関心が向いていたところ、これにもルカ・パリゾーリ「政治的自由概念の誕生への、フランシスコ会の貢献:オリヴィにおける予備的与件」(Luca Parisoli, ‘La contribution de l’école franciscaine à la naissance de la notion de liberté politique : les données préalable chez Pierre de Jean Olivi’)という論考があり、とても興味をそそられる。それによると、オリヴィの意志論での自由というのは、一種の制約概念として読むことができるのだという。法概念の基礎には自由と支配があり、支配・被支配の関係は、主体がおのれの自由を一部放棄することによって成立するとされる。この放棄もまた、上下関係を求めるような行為ではなく、ただ自由を前提とした行為なのだ、と。なるほどその場合の自由とは、近代的な意味合いではまさしく制約か。そして支配者の側、たとえば教皇なども、不謬性という形で啓示や伝統に照らした意志決定が求められる。この意味でも、立法に際しての支配者の自由もまた一種の制約ということに成る……。オリヴィは教皇論者(つまり教皇の不謬性を支持する立場)だったというが、基本的には不謬性を、教皇の権限に制約を課す手段と見なしていたのではないかという。うーん、なんとも微妙な理路ではあるが……。

ほかの収録論考としては、ダンテにおけるオリヴィの影響(ダンテはオリヴィの説教を聞いていたらしい)、オリヴィ死後の崇拝を扱ったもの、さらには同時代人のライムンドゥス・ルルスとの対比の論考なども面白い。ルルスとオリヴィはある時期ともに南仏にいて、出会っていた可能性が高いのだという。文献的には証明されていないようだけれど……。

プセロス「カルデア神託註解」 14

Μηδὲ κάτω νεύσῃς · κρημνὸς κατὰ γῆς ἡπόκειται,
ἑπταπόρου σύρων κατὰ βαθμίδος,

ὑφ᾿ ἣν ὁ τῆς Ἀνάγκης θρόνος ἐστίν.

Τὴν μετὰ θεοῦ οὖσαν ψυχὴν τὸ λόγιον νουθετεῖ ἐκείνῳ μόνῳ προσέχειν τὸν νοῦν καὶ μὴ κάτω τὴν ῥοπὴν ποιεῖσθαι · πολὺς γὰρ ὁ ἀπὸ θεοῦ κατὰ γῆς κρημνός, ¨σύρων¨ τὰς ψυχὰς διὰ τῆς ¨ἑπταπόρου βαθμίδος¨. Ἑπτάπορος δὲ βαθμὶς αἱ τῶν ἑπτα πλανητῶν σφαῖραι εἰσιν. Νεύσασα γοῦν ἄνωθεν, ἡ ψυχὴ φέρεται ἐπὶ γῆν διὰ τῶν ἑπτὰ τοῦτων σφαιρῶν. Ἡ δὲ ἀπὸ τῶν ἐπτὰ κύκλων ὡς διὰ βαθμίδος κάθοδος ἐπὶ τὸν θρόνον ἄγει τῆς Ἀνάγκης · οὗ δὴ γενομένη ἡ ψυχὴ τὸν περίγειον κόσμον ποθεῖν ἀναγκάζεται.

「下方へと向かってはならない。断崖は地の底の上に突き出、
七つの道の入り口へと引き寄せる」

その下に、「必然」の玉座があるのである。

神とともにある魂に対して神託は、それにのみ注意を向けて下方への傾きが生じないようにと忠告を与えている。なぜなら、神から地の底へといたる断崖は多々あり、「七つの道の入り口」を通じて魂を「引き寄せる」からである。七つの道の入り口とは、七つの惑星の天球のことである。魂は、上方から傾く際に、その七つの天球を経て地上に運ばれる。七つの天球から、「必然」の玉座の入り口を通るようにして下ってくるのである。そこに魂がいたると、必然的に地上世界を欲するようになる。

舞台上演版「メサイア」

なんとも大胆な企画だ。ヘンデルのオラトリオ『メサイア』を、オペラ風の舞台上演に仕立ててしまうとは!そのDVDがこちら。ヘンデル/Messiah: Guth Spinosi / Ensemble Matheus Gritton Horak B.mehta Croft Boesch。2009年の案・デア・ウィーン劇場での公演。キリストの生涯をそのまま描くのではなく、ここではその説話に埋め込まれた情感を、一人のサラリーマン風の男性の苦悩と自殺、そしてそれを受け止めなくてはならない親族たちの苦しみとして、いわば「抽出」して描き出している。一種の換骨奪胎なのだけれど、これが結構上手くいっているように感じられる。なかなかに劇的な構成。回り舞台は次々に様々な場面を見せていき、また、主人公の分身のような無言の女性ダンサー(唖という設定?)が、不特定の人々を表すかのような合唱団と相まって全体を見事に引き締める。うーん、見事。演出はクラウス・グート。あー、アーノンクールの指揮だった2006年のザルツブルク音楽祭の『フィガロの結婚』とかの演出を手がけた人ね。なるほど〜。で、音楽自体も全体に抑えの利いたとても美しい演奏で、とても冴えている印象。オラトリオで聴くのとはまた違って、舞台の陰影とともに深みが増すような効果もあるのかしら。指揮はジャン=クリストフ・スピノージ。アンサンブル・マテウスとアーノルド・シェーンベルク合唱団。スピノージ&アンサンブル・マテウスはnaïveのヴィヴァルディ・エディションとかでオペラものを出しているっすね。

関口文法……

就寝前読書で池内紀『ことばの哲学 – 関口存男のこと』(青土社、2010)を読了。これ、タイトル(副題じゃないほう)に惹かれて購入したのだけれど、ことばの哲学の話ではなく、関口存男というドイツ語学者の評伝だった。つまり副題こそが本題というわけ(苦笑)。うーむ、こういうタイトルの付け方はちょっとなあ。『現代思想』連載だというけれど、後書きには、連載中は「ことばの哲学者」というタイトルだったと記されている。それをタイトルにするのが筋ってもんじゃないのかしら……と。でもま、評伝自体は結構面白かったので、とりあえずはよしとしておこう(笑)。関口文法って、大昔の外語の生協あたりにも参考書として置かれていたように記憶する。というわけで名称は聞いたことがあるけれど、読んだこともなければ、その名称のもとになった人物もまったく知らなかった。埋もれた存在に光を当て直すという意味では、とても優れた着眼点ということは言えそうだ。で、前半の中心をなすのはその語学習得方法。原書をひたすら浴びるように音読するというその方法は、語学学習者ならばある意味誰もが多かれ少なかれやっているはずことを、もっと壮大なスケールに拡張したようなやり方だ。昔の人の気骨みたいなものが感じられて興味深い。でも、評伝というからには、そこに宿っているような狂気のような面を焙り出したりするというようなことも、多少やってほしかった気もする。で、同書はその語学習得を軸に、関口本人の陸軍から大学人への変転、演劇人としての横顔、戦中のエピソード、そして戦後の大著執筆などが、それぞれスポットを当てられて記されている。さながらドキュメンタリー映画を見たような読後感。でも(これまた上と同じような話だけれど)、せっかく対象が語学の巨人なのだから、その文法体系の思想面をもう少し掘り下げて、というか、もとの著書からの引用なども入れて具体的に論じてほしかったという気もする(それはぜひ別の著書でお願いしたいところ)。また、(題名を意識してなのか)ところどころに挿入される同時代人としてのウィトゲンシュタインの話は、日独の両方に同じような精神で学問的営為をしていた人物がいたという点はともかく、同書の本筋にさほどうまく絡んでいない印象も(笑)。