ラティオ・パルティクラーリス

オリヴィというかフランシスコ会系の感覚論について調べる一方で、対照するためにドミニコ会系の議論も見ておきたいと思って入手してみたのが、カルラ・ディ・マルティーノ『部分的理性 – アヴィセンナからトマス・アクィナスまでの内部感覚説』(Carla di Martino, “Ratio particularis – Doctrines des sens internes d’Avicenne à Thomas d’Aquin”, Vrin, 2008)。内部感覚というか、知覚全般についてのアリストテレスの議論を、アヴィセンナ、アヴェロエス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスがどう受容しどう変奏したのかを割と細かく、手堅くまとめ上げた一冊。目を惹くような斬新な議論こそないものの、実に堅実な筆運びで(博士論文がベースだとか)四人それぞれの論点の違いや微細な差異を描き出している。特に各人の著作別の記述的変化(前二者については医学系の著作なども含めて)にも目配せがされていて好印象だ。全体としてはいろいろ勉強になる。

前半は四人それぞれの知覚論のまとめ。後半はテーマ別に四人の議論を対照してみせるという構成。アラブ系の前二者で特に特徴的なのは、動物と人間の感覚受容の差異を際だたせている点だといい、アヴィセンナはそれを機能的(能力的)な違いとし、アヴェロエスは構造的な違いに帰着させているという。総じてアラブ系の論者たちは、感覚的魂が単なる感覚にとどまらず、その先、つまり理性的魂に一部準じた機能まで拡大されていると考えているという。一方、ラテン中世に属する後者二人の場合は、感覚受容をめぐるアウグスティヌス的な伝統がすでにしてあり、これとアラブ経由の思想とをどう摺り合わせるかが各人の違いを生む継起にもなっているらしい。彼らもアラブ系の論者たちと同様に、動物と人間の感覚受容の差異に注目し、狭義の感覚にとどまらない意図などの認識能力・判別力が人間と動物とでは異なっているという立場を取る。表題の「ratio particularis」は、アヴェロエスの『魂論大注解』からトマスが取り込んでいる用語。著者は特に、トマスがアヴェロエスの議論を意外に重く見ていることを文献的に示そうとしている。このあたりはなかなか興味深いところ。ちなみに同書、書籍としては200ページ足らずで、扱っている領域や論者も狭いことから、読者としては少しもったいない感じもしなくもない。こうした詳細な議論は、ぜひともドミニコ会系のほかの論者たちとかにまで拡張していってほしいところ。今後の著作にも期待……。

映画版「ニーベルンゲン」

実に久々に(20年以上ぶりくらい?)にフリッツ・ラングの映画『ニーベルンゲン』(”Die Nibelungen”, 1923年、ドイツ)を観た。第一部(ジークフリート)第二部(クリームヒルトの復讐)を合わせると5時間の大作。今回のものはオリジナルにかなり近い復元版とのこと。ちょうど最近「ニーベルンゲンの歌」の新訳が出たこともあって、これを観たいなあと思っていた。で、DVDを購入。ストーリーラインは大筋はほぼ原作どおりで(岩波版がすぐに見つからないので、昔読んだ印象だけで判断しているが(笑))、ジークフリート中心に描かれるため躍動感溢れる前半と、復讐譚となるため終盤に向かって張り詰めた緊張感が高まっていく後半と、どちらもかなりの重厚感で見応えがある(後半が途中やや冗長な感じもないではないが)。確か原作のほうは、どの登場人物たちもかなり極端な性格のように読めてしまうのだったけれど、この映画はそれを踏襲しつつ、あまりに図式的なその群像劇にいくばくかの人間味を加味した造形になっている感じ(ロマン主義的、か?)。ちなみにワーグナーの『指輪』よりも、この『ニーベルンゲン』のほうがストーリー展開に無理がないのは言うまでもない(笑)。ギュンターとハーゲンとブルンヒルト(ブリュンヒルデ)が復讐の三重唱を歌ったとしてもなんの違和感もありまっせん……(歌わないけど)。

そういえばジークフリートは最初、鍛冶屋のミーメの弟子として登場するのだった。で、余談だけれどつい最近、イアン・グッドール「中世の鍛冶屋とその産品」という考古学系のペーパーが紹介されていた(Ian H. Goodall, ‘The Medieval blacksmith and his products’ in “Medieval Industry”, ed. by D.W. Crossley, Council for British Archeology, 1981)。出土品のラフスケッチを交えて、具体的な品をカタログ的に列挙されている(本当は写真が見たい気がするけれどね)。いずれにしても、具体的な職人の活動とこうした考古学的史料とを結びつけるのは案外難しい気がする。必要な想像力を養うには、やはりなにがしかの映像資料や実地的な見聞がものを言うのだろうなあ、と改めて。なにやらそのあたり、人類学・民族学と歴史が交差する場でもありそうで、興味は尽きないのだけれど……。

フランシスコ会とストア派

オリヴィ関連の論文として、メルマガのほうで何回か取り上げる予定のトロイヴァネン「動物の意識:感覚的魂の認識機能についてのオリヴィ」(Juhana Troivanen, “Animal consciousness: Peter Olivi on cognitive functions of the sensitive soul”, Jyväskylä University, 2009 →PDF)。これの序文によると(メルマガの繰り返しになるけれど)、オリヴィの知覚・認識論でひときわ特徴的なのが、感覚器官にありながら魂にも局在する諸感覚を統合する司令塔のような部分があると考えていることだという。で、著者はこれが一つにはストア派の「ヘゲモニコン」に類似するものだということを指摘している。「ヘゲモニコン」は指導理性みたいに訳されたりしているけれど、要は魂の指導的部分・主要部分のことで、SVF(初期ストア派断片集)IIの836に詳細な説明が載っている。「ストア派は、ヘゲモニコンが魂の最高の部分で、像や賛意、感覚、運動などを生み出すものだと述べ、それを理性と称している。ヘゲモニコンからは魂の七つの部分が生まれ、タコの触手のように肉体へと伸びている」。オリヴィのその司令塔部分が果たして本当にこれに重なるようなものなのかどうかはテキストを調べてみないとわからないけれど、論文の著者はこれを受けて、フランシスコ会へのストア派の影響という文脈を示唆している。中世にはセネカがとりわけ幅広く読まれ注解書が書かれたりもしていたといい、フランシスコ会ではとくにそうで、ロジャー・ベーコンなどはセネカを下敷きにした倫理学の教科書まで記しているという。またキケロもそう。ただ、ストア派の思想はキリスト教世界に大きな影響を及ぼしたものの、中世の思想家たちには明確にストア派的な思想として取り上げられているわけではないため、全体としてその影響関係は見えにくくなっているとも述べている。そのため中世思想の中にストア派をトレースするのは困難だとも……。一方で著者は、G.ヴェルベケの「引用だけでなく教義的な影響関係もさぐって、間接的なストア派の遺産の浸透を明らかにしなくてはならない」との言葉を引いて、明確なリファレンスの不在は乗り越えられない問題ではないとも宣言してはいるが……。

個人的にもフランシスコ会とストア派というのはとても注目しがいのあるトピックだと思うのだけれど、なるほどこれは狭い意味での実証的アプローチを越えて、比較研究のようなアプローチが必要になってくるというわけだ。具体的にどう探ればよいのかも含めて、この論文の本文を読みつつ併せて考えてみることにしよう。

↓コルドバにあるというセネカの像(ウィキペディアより)

アルベルトゥス:護符に宿る力

占星術系の話になるけれども、アルベルトゥス・マグヌスについての論考から、ニコラ・ヴェイユ=パロ「星辰の因果性と中世の<形象の学>」(Nicolas Weill-Parot “Causalité astrale et « science des images » au Moyen Age : Éléments de réflexion”, Revue d’histoire des sciences, Numéro 52-2, pp.207-240, 1999)というのに目を通しているところ。天空の星が地上世界に影響するという考え方はもちろん古くからあるわけだけれど、中世盛期においてはそれまでの「星を読む」という象徴論的な考え方から、アリストテレス思想(と『原因論』)の浸透で、上位の存在から下位の存在へと影響の連鎖が続くという因果論的な考え方にシフトしたとされる。そこでは(たとえ稚拙なものでも)多少とも「科学的な説明」がなされるようになり、たとえばアルベルトゥス・マグヌスは、一部の宝石など(護符として用いられる)に宿るとされる力の源泉を天空の力によるものと説明したりしている。同様に、異形の人間の誕生とか、人間の顔をした豚、さらには人間や動物の姿が自然の岩(宝石)に刻まれる場合があることなども同じ系列の作用で説明づけられる。で、これまた同様に、占星術的な作法にもとづいて人為的に像を刻む場合(それがすなわち<形象の学>)にその石が同じような効力をもつ、という場合についても、アルベルトゥスは考察をめぐらしているのだという。

面白いのは次の点だ。著者によると、トマスなどはそういう護符のたぐいは上位の存在(ここでは悪魔ということになる)に対する「しるし」でしかなく、なんらかの力がもたらされるのはその上位の存在によるものだとするのに対し、アルベルトゥスは自然物の場合と同様に、製作が占星術的に適切なタイミングで行われれば、天空の力が、それを製作する者(職人=アーティスト)を媒介として(職人をいわば「導いて」)その像に直接宿りうるのだと論じているという。一方で人間がその力を阻む物質性をもっていることが強調される場面もあるといい、このあたり、以前にも出てきたような気がするが、媒体=障害物という二面性を人間(のとくに身体?)に見出すという、アルベルトゥスのちょっと興味深い人間観が伝わってくる。天空の決定論的な影響と自由意志とがせめぎ合う舞台としての人間、か。論文後半は、占星術的な作法の問題とも絡んでくる、像の力の作用の因果関係の詳細についての模様。

↓ヴィンチェンツォ・オノフリ(15世紀)によるアルベルトゥス像。wikipedia(en)から。

ツナミ本(の予告)

現在、来月岩波書店から出ることになっているジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』の邦訳(拙訳)が校正段階に入っている。現在鋭意作業中。原書は100ページ強の小著ながら、自然災害と人的災禍(戦争、テロなど)の垣根を取っ払い、両者に共通する「悪」を再考し、それをパージするための抜本的な方途(脱構築的な)を探ろうという一冊。ルソー、ヴォルテール、ヨナス、アーレント、そしてギュンター・アンダースなどが主な登場人物(笑)で、それらをたたき台にして議論が展開される。岩波にしてはめずらしい(?)、3月の震災を受けてのいわゆる「緊急出版」のため、全体的にどこか突貫工事的な作業となった。話をもらってから引用されている書籍などを一気に集めたてみたものの、訳出作業のためだけに引用箇所を確認したり読み飛ばしたりするだけではあまりにもったいないので、少し私見をまじえつつ改めて諸問題を整理してみたいという気がしている。少し長いスパンで考えていきたいところ。取りいそぎ、今回は予告だけ(笑)。

ちなみに原書はこちら↓

Jean-Pierre Dupuy, “Petite métaphysique des tsunamis”, Seuil, 2005