オリヴィというかフランシスコ会系の感覚論について調べる一方で、対照するためにドミニコ会系の議論も見ておきたいと思って入手してみたのが、カルラ・ディ・マルティーノ『部分的理性 – アヴィセンナからトマス・アクィナスまでの内部感覚説』(Carla di Martino, “Ratio particularis – Doctrines des sens internes d’Avicenne à Thomas d’Aquin”, Vrin, 2008)。内部感覚というか、知覚全般についてのアリストテレスの議論を、アヴィセンナ、アヴェロエス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスがどう受容しどう変奏したのかを割と細かく、手堅くまとめ上げた一冊。目を惹くような斬新な議論こそないものの、実に堅実な筆運びで(博士論文がベースだとか)四人それぞれの論点の違いや微細な差異を描き出している。特に各人の著作別の記述的変化(前二者については医学系の著作なども含めて)にも目配せがされていて好印象だ。全体としてはいろいろ勉強になる。
オリヴィ関連の論文として、メルマガのほうで何回か取り上げる予定のトロイヴァネン「動物の意識:感覚的魂の認識機能についてのオリヴィ」(Juhana Troivanen, “Animal consciousness: Peter Olivi on cognitive functions of the sensitive soul”, Jyväskylä University, 2009 →PDF)。これの序文によると(メルマガの繰り返しになるけれど)、オリヴィの知覚・認識論でひときわ特徴的なのが、感覚器官にありながら魂にも局在する諸感覚を統合する司令塔のような部分があると考えていることだという。で、著者はこれが一つにはストア派の「ヘゲモニコン」に類似するものだということを指摘している。「ヘゲモニコン」は指導理性みたいに訳されたりしているけれど、要は魂の指導的部分・主要部分のことで、SVF(初期ストア派断片集)IIの836に詳細な説明が載っている。「ストア派は、ヘゲモニコンが魂の最高の部分で、像や賛意、感覚、運動などを生み出すものだと述べ、それを理性と称している。ヘゲモニコンからは魂の七つの部分が生まれ、タコの触手のように肉体へと伸びている」。オリヴィのその司令塔部分が果たして本当にこれに重なるようなものなのかどうかはテキストを調べてみないとわからないけれど、論文の著者はこれを受けて、フランシスコ会へのストア派の影響という文脈を示唆している。中世にはセネカがとりわけ幅広く読まれ注解書が書かれたりもしていたといい、フランシスコ会ではとくにそうで、ロジャー・ベーコンなどはセネカを下敷きにした倫理学の教科書まで記しているという。またキケロもそう。ただ、ストア派の思想はキリスト教世界に大きな影響を及ぼしたものの、中世の思想家たちには明確にストア派的な思想として取り上げられているわけではないため、全体としてその影響関係は見えにくくなっているとも述べている。そのため中世思想の中にストア派をトレースするのは困難だとも……。一方で著者は、G.ヴェルベケの「引用だけでなく教義的な影響関係もさぐって、間接的なストア派の遺産の浸透を明らかにしなくてはならない」との言葉を引いて、明確なリファレンスの不在は乗り越えられない問題ではないとも宣言してはいるが……。
占星術系の話になるけれども、アルベルトゥス・マグヌスについての論考から、ニコラ・ヴェイユ=パロ「星辰の因果性と中世の<形象の学>」(Nicolas Weill-Parot “Causalité astrale et « science des images » au Moyen Age : Éléments de réflexion”, Revue d’histoire des sciences, Numéro 52-2, pp.207-240, 1999)というのに目を通しているところ。天空の星が地上世界に影響するという考え方はもちろん古くからあるわけだけれど、中世盛期においてはそれまでの「星を読む」という象徴論的な考え方から、アリストテレス思想(と『原因論』)の浸透で、上位の存在から下位の存在へと影響の連鎖が続くという因果論的な考え方にシフトしたとされる。そこでは(たとえ稚拙なものでも)多少とも「科学的な説明」がなされるようになり、たとえばアルベルトゥス・マグヌスは、一部の宝石など(護符として用いられる)に宿るとされる力の源泉を天空の力によるものと説明したりしている。同様に、異形の人間の誕生とか、人間の顔をした豚、さらには人間や動物の姿が自然の岩(宝石)に刻まれる場合があることなども同じ系列の作用で説明づけられる。で、これまた同様に、占星術的な作法にもとづいて人為的に像を刻む場合(それがすなわち<形象の学>)にその石が同じような効力をもつ、という場合についても、アルベルトゥスは考察をめぐらしているのだという。