イスタンブーリ「イブン・アビ・ウサイベア(1203 – 70)に基づくアラビア医学史」という学位論文(M.N. Istanbouli, The history of Arabic medicine based on the work of Ibn Abi Usabe’ah 1203-1270, PhD Dissertation, Loughborough University, 1981)を眺める。これ、タイトル通り7世紀から13世紀までのアラビア医学の通史を、イブン・アビ・ウサイベア・アーマドという13世紀のダマスクス出身の医者・伝記作家の著書をもとにたどるというもので、タイプ原稿そのままのPDFだけれど、実に面白く読める。ある意味入門にはもってこいかもしれない(笑)。なにしろ、このイブン・アビ・ウサイベアの記述が「物語ベース」で構成されているらしく、アラビア・イスラム世界での著名な医学者(当然ながら、哲学者ともダブる)それぞれについて、多彩なエピソードで紹介されていくからだ。たとえば医学文献の翻訳で知られるフナイン。カリフに呼ばれて金を渡され、敵を殺すための毒を内密に処方するよう依頼される。これを断ったフナインは監獄に入れられるのだけれど、そこで読書と翻訳に精を出す。一年後、再びカリフに面会したフナインはまたも毒の処方を拒むが、カリフと和解し、なぜ拒んだのかと聞かれて「宗教の教えと医者の職業倫理による」と答え、カリフに気に入られたという。なにやらノリが千夜一夜とか、説話っぽくていい(笑)。
久々にスアレス研ということで、アミィ・カロフスキ「デカルトの永劫の真理論に対するスアレスの影響」(Amy Karofsky, Suárez’s Influence on Descartes’s Theory of Eternal Truths, Medieval Philosophy and Theology 10 2001)という論考を読む。「人間は動物である」とか「三角形のそれぞれの角度の和は直角二つ分に等しい」といった基本命題(永遠の真理)について、それが何によって担保されるかという問題をめぐるスアレスとデカルトの論を対照してみせるという主旨。面白いのは、これに主知主義と主意主義の対立が重なってくる点だ。スアレスは『形而上学論考』の31章でこの問題を取り上げているという。スアレスは現勢化していない本質は無にすぎない(存在を与える神があってはじめてそれは有となる)と断じるわけだけれど、すると基本命題が本質をめぐるものだとするなら、それはつまるところ無に立脚していることになってしまう。スアレスはこの問題を検討し、基本命題の真理はその命題に含まれる基本属性同士の結びつきによって担保されていると考える(「人間である」という属性は、「動物である」という属性をもとより含んでいる、etc)。そしてその場合、属性やそれが形成する本質は神の存在そのものを表すのだとして、基本命題が神から独立して成立するかのような議論は斥けているのだという。こうして、基本命題においては、存在を与えられていない本質は無でしかないにせよ、それでもなお神の本質(=存在)と同一であるとされ、現実的なものだと見なされるのだ、というわけだ。スアレスは、存在をもたらすという意味での「作用因」は基本命題には必要ない、と考えてもいる……。
トロント大学のピーター・キングのWebサイトは公開論文が充実。これは片っ端から読んでいきたいところ(実際にやるのは大変だけど)。まずはメルマガのほうで見ているオッカムがらみで一本。「経験の二つの概念」(Peter King, Two Conceptions of Experience, Medieval Philosophy and Theology 11, 2003, 203-226)(PDFはこちら)というもの。アリストテレスの「経験」概念を中世盛期の論者たちがどう引き継いだか、というのが扱われている問題。アリストテレスには、経験が感覚的与件として現れそれを知性が普遍として理解するモデルがあり、それがトマスなどのいわゆるスペキエスの議論などを導くわけだけれども、もう一つ、アリストテレスは深めてはいないものの、経験がそのまま知となるようなモデルにも言及していて(たとえば経験を積んだ医者のほうが若手のインターンよりも的確な対応ができるという場合の、その経験知)、こちらもまた、中世の論者たちにある意味引き継がれている、という話。この後者がどう議論されているかが気になるところ。で、著者はまず、サン=ヴィクトルのフーゴーとロバート・キルワードビー、アルベルトゥス・マグヌスとジャン・ド・ジャンダンなどを取り上げる。特にこの、アルベルトゥスとジャンダンのラインが重要なようで、ジャンダンなどは、理性的判断を欠くとされる動物においても、物質世界での経験はそれだけで馴化・習慣化(consuetudo)をもたらすとしている。動物もまた形相的な経験の原理に近いものをもっている、とジャンダンは考えていたのだ、と。
以前読んだオリヴィ論がなかなか面白かったシルヴァン・ピロンの「天上の位階を脱プラトン化する:オリヴィによる偽ディオニュシオス解釈」(Sylvain Piron, Deplatonising the Celestial Hierarchy.- Peter John Olivi’s interpretation of the Pseudo-Dionysius, in Angels in Medieval Philosophy Inquiry. Their Function and Significance, Isabel Iribarren, Martin Lenz (Ed.) (2008) 29-44)という論文が、ほんの数日前に紹介されていたのでさっそく目を通してみる。一般に西欧中世での天使像というのは、ギリシア=アラビア系の哲学的伝統とユダヤ=キリスト教の啓示とが混じり合って形成されているといわれる。つまり、前者は天使を知的な実体として描き出すのに対し、後者は霊的な被造物とし、地上世界の出来事に干渉すると考えている。で、両者は安寧に融合しているわけではなく、一種独特の緊張状態を保っているとされる。そもそもそうした異質なもの同士が同じ「天使」の名に収まっていること自体が奇妙な感じもするが(笑)、いずれにせよその対立関係は、中世盛期においても何人かの論者たちの議論の中で強調されていたのだという。で、その一人がペトルス・ヨハネス・オリヴィだというわけだ。