アヴェロエスの時間論……

昨年12月刊の『西洋中世研究』(第三号、西洋中世学会編、2011)を遅ればせながら眺めているところ。「イメージを読む中世」という特集で、図像学系の論文を多数収録している。それらも面白いのだけれど、個人的に最も注目されるのは、辻内宣博「14世紀における時間と魂との関係」(pp.151-166)という論考。アリストテレスのテーゼ「時間とは運動の数である」が、アヴェロエスを経て、オッカムとビュリダンでどう解釈されているかをまとめている。アヴェロエスは、数が成立するには数えられるものがなくてはならず、数えられるものは、数えられる前は可能態としてあり、知性によって数えられることで初めて現実態になると考えているという。精神の外部にはただ運動が存在するのみで、それを精神が前後に区別することで数が数えられるというわけだ。連続的な運動を質料とし、数を形相として時間が成立する、と。オッカムはこの議論のうち「魂の活動」という面を強調し、運動を数える際の測定基準となる時間(内的な一種の単位時間のようなもの?)が精神のうちにあると考える。一方のビュリダンは、精神の働き自体は重んじるものの、外的事象としての時間のほうに力点を置き、測定基準となる運動量を考えている……。

オッカムとビュリダンの比較というのもすこぶる刺激的だが、ここでは両者の前提となっているアヴェロエスの論がとりわけ注目される。外的世界にある事物が数という観点からは可能態として扱われ、精神世界にある事物のほうが現実態だというのがとても興味深い。普通の事物であれば、現実態は個的な存在様態にこそ結びつけられるのが一般的だと思うけれど(少なくとも13世紀あたりの議論においては)、アヴェロエスにおいては、普遍概念に関してはまったく逆転してしまうということなのだろうか。でもそうなると、個と普遍の関係性、現実態・可能態の切り出し方、質料形相論が、なにやら曖昧かつ微妙にもつれ合ってしまう気がするのだが……。アヴェロエスがそのあたりをどう整理・処理しているのかとても気になる。これはちゃんと読んでみなくてはね(笑)。同論文でのアヴェロエスの引用は、16世紀のラテン語訳(ジュンタ版)アリストテレス全集注解付きからのものだけれど、アラビア語版とかはどうなっているのかもいっそう気になる。確認していこう(笑)。

↓wikipedia(en)より、アンドレア・ディ・ボナイウート(14世紀フィレンツェ)画「トマスの勝利」に描かれたアヴェロエス(おなじみの絵だが……)

『世界の永続性について』9章

フィロポノス『世界の永続性について』は分冊の4巻目(Johannes Philoponos, De aeternitate mundi, vierter teilband ubs von Clemens Scholten, Brepols, 20011)の前半まで来ている。章立てでいうと9章まで。この章はなんとなく、注解としての文章がしなやかに、闊達に伸びていくという印象があって、なにやら妙な勢いを感じさせる……。いずれにしてもまとめのメモを。注解のもとになっているプロクロスの一節は、まとめると「事物が滅するのは悪があるからであって、世界(コスモス)は善なる神の一部なのだから滅することはない。また滅するなら秩序は無秩序へと移行するのだが、世界は滅しないので、もとより秩序vs無秩序のせめぎ合いはなく、したがって無秩序から秩序への生成もない。したがって悪のないところには消滅もなければ生成もない」という感じになる。フィロポノスはこれに対し逐一反論を加えていく。まず、世界(動物とか)は可変であることからそもそも神と等しいということはないとする。次に、滅する理由とされる悪を「自然(本性)からの逸脱」と規定し、限定的存在はすべからく時間とともに自然本性から逸脱すると断じる。こうして世界の秩序と無秩序とが対置され、世界は秩序から無秩序に移行しうるし、無秩序からの秩序への以降もありうるとする。この無から有への移行は自然状態ではありえないが、存在(有)を導く神がいれば話は別だ。たとえば元素は有から有へと変化するのみだが、それが織りなす全体は無から有へと、創造神の下支えによって生成する……。このあたり、キリスト教的な無からの創造という考え方が擁護されている感じでもある。

話はここから質料形相論に行く。自然状態では質料は基体の役割をなし、生成の原理は形相がもたらす。個として成立したものが滅するとは、基体と分離し、基体へと解消することを意味し、生成はその逆で、基体から個を生じさせる。それはちょうど元素が有から有へと移り変わるのとパラレルだ。現実態と可能態との往還も同じようなもので、基体をベースとした流転の考え方に合致する。さらにはそれは時間と非時間との往還といってもよい。けれどもこれを複合体の観点から見ると、まさしく無(複合体が存在しない状態)から有(複合体が存在する状態)が生じると言うこともできる……。この9章では質料を第一の基体として捉え、その観点からすればそれ自体は生成も消滅もしないとしている。根本的な質料論が扱われるのはこの先の11章ということになる。

「トビアの帰還」

ハイドンのオラトリオ『トビアの帰還』を、naxosミュージック・ライブラリの盤(http://ml.naxos.jp/album/8.570300-02)で聴く。指揮はアンドレアス・シュペリンク、インヴェルニッツィ(ソプラノ)ほか&ケルン声楽アンサンブル、カペラ・アウグスティーナ。2006年の録音。あまり演奏されないオラトリオだそうだが、なぜそうなのかがまったく意味不明だと思えるほどに素晴らしい。HMVあたりで検索しても出てくるのはこの盤がやっと。naxosのライブラリにはほかにシャンドール盤(http://ml.naxos.jp/album/hcd11660-62)というのがある。

トビアは旧約聖書に登場するトビトの息子(外典『トビト書』)。トビトは善人・義人なのだけれど、捕囚時代に仲間を埋葬したとしてすべてを取り上げられ、さらにスズメの糞で目をやられて盲いてしまう。さらにまた、その兄弟の娘が悪魔に取り憑かれ、結婚相手が次々に殺されていた。で、神はラファエルを送ってトビトの息子トビアと旅をさせ、トビアは途中で遭遇する巨大魚を倒して、その内蔵を使って娘に取り憑いていた悪魔を追い払う。最後にトビトのもとに帰り、やはりその魚の内臓で目を治癒させる……。このエピソードは絵画では様々に描かれているものの、音楽作品としてはあまりないようで、ライナーによるとルイジ・ボッケリーニの兄弟であるジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニが逸話の再構成を行い、トビアの帰還部分に焦点を合わせ、回想の形で逸話を語っていく手法になっているという。ウィーンでの初演はウケたものの、再演はままならず(聴衆の好みの変化や長さのせいとか)、その後に短縮の形でスコアが改編されたという。というわけで、この録音でも使われているのは1784年の改訂版。うーん、ドラマチックな要素がないわけでもないし、曲は様々に盛り上がるし、ライナーからもなぜ演奏機会がこれまで少ないのかという話は見えてこない……。謎だ(笑)。

↓wikimedia commonsから、『トビトとアンナ(山羊の子を盗んだとアンナを叱責するトビト)』、レンブラント画、1626年、アムステルダム国立美術館蔵。

12世紀の医学の位置づけ

前回のバーネットの論考で指摘されていることだけれど、『パンテグニ』でも『キターブ・カーミル』でも、動物的精気が魂かという問題に触れた箇所の末尾は、「そうした議論はここでの意図にはそぐわず、哲学に属することなので、ここでは立ち入らないことにしよう」と結んでいる。もとになった『キターブ・カーミル』が医学をそれ自体で確固たる学知として規定しようとしている、という話が先の別の論考にあったけれど、そのあたりの物言いにはもしかすると、哲学に対して医学を別個のものとして確立しようというような意図があるのかもしれない……(?)。実際のところ12世紀ごろの医学の位置づけというのは確かに曖昧な印象を受けたりもする。というわけで復習。

サン=ヴィクトルのフーゴー(12世紀前半)の『ディダスカリコン』(テキスト:http://freespace.virgin.net/angus.graham/Hugh.htm)では、2巻に哲学区分の話があり、神学や数学に続いて算術、音楽、幾何学、天文学が取り上げられているけれど、医学はというとそれらとは別扱いになっている。医学は手工芸の一つに位置づけられ、織物、武装、航海術、農業、狩り、演劇などに混じって挙げられている。一方、グンディサリヌス(12世紀半ば過ぎ)『哲学区分論』(前にも取り上げた:http://www.medieviste.org/?p=3365)では、自然学・数学・神学を理論の学としていて、医学は自然学の下位区分として位置づけられている。数学の下位区分には算術、音楽、幾何学、光学、占星術、天文学、重量論、性格論などが来るので、医学はそれらと同列に並ぶ存在とされている感じだ。これってつまり、フーゴーは医学をいくぶん低く見ているのに対して、グンディサリヌスはそれを自然学に組み込んでいるということなのかしら。もしそうだとすると、その価値観の変化はアラビア医学の本格流入と関係がありそうな気もする……なにしろグンディサリヌスはそちら方面の翻訳者でもあったわけだし。いずれにせよ『パンテグニ』は11世紀末までには成立していたはずで、そこでの医学の地位向上の意識が西欧に時間をかけて伝わり、両者の差になった、なんて考えるとちょっと面白い。もちろんこれはこれで要検証(笑)。

↓wikipedia(fr)から、『De arca morali(方舟の道徳について)』の写本(13世紀)の細密画に描かれたサン=ヴィクトルのフーゴー

動物的精気と魂

再び『コンスタンティヌス・アフリカヌスとアリー・イブン・アラッバース・アルマグージー』からメモ。もう一人の編者チャールズ・バーネットは、医学的な精気(スピリット)に関する記述をめぐって、パンテグニの異本を比較検討している(「コンスタンティヌス・アフリカヌス『パンテグニ』における精気についての章」:Charles Burnett, The Chapter on the spirits in the Pantegni of Constantine the African, pp.99-120)。サレルノと関係していたとされるバースのアデラードの著作を寄せ集めた写本というのがあるのだそうで、これの末尾に『パンテグニ』の精気についての章が含まれているという。で、これをほかの『パンテグニ』写本(バーゼル写本、リヨン写本)と比較するというところから話は始まる。このリヨン写本はほかの二つと違い、偽ガレノス『精子について(De spermate)』の一部が挿入されているという。『パンテグニ』のもとになったアルマグージーの『キターブ・カーミル』にはそのような挿入部分はなく、代わりに脳外科手術の生々しい説明があるという(魂と動物的精気が同じものだという議論のため)。その外科的記述の入った版は確実に西欧に入ってきているといい、おそらくはその生体解剖が忌避された可能性はありそうだとされている。で、この外科的記述を『種子について』で置き換えたのは果たしてコンスタンティヌス自身なのか、というのが大きな問題になる。

『キターブ・カーミル』でも『パンテグニ』でも、精気は三週類に分類されていて、動物的精気は脳で生じ、神経系をまわって動物的な諸機能を統制するとされる。心臓で生じる生命的精気は動脈をまわって活力などの生命機能を統制し、肝臓で生じる自然的精気は静脈をまわって力などの自然的機能を統制する。とはいえ、たとえば「生命的」という場合の訳語がアラビア語もラテン語もやや曖昧さが残っているのだという。ちなみにこの精気の三区分の話は、コンスタンティヌスが訳したイサク・イスラエリの『熱について』の最初の章にもあるという。『キターブ・カーミル』でも『パンテグニ』でも、続いて生命的精気がいかに動物的精気に変化するかという問題が扱われる。両者の中身がそれぞれに違ってくるのは、昔の賢者には、脳に生じる精気こそが魂だという論者と、精気は魂の道具にすぎないという論者がいたというくだりからだという。リヨン写本の『種子について』の一節では、この後にポルピュリオス、アリストテレス、プラトンなどの引用があって、どの陣営の論者も精気は魂ではないという点で一致する、という内容が続くという。この引用箇所あたりが、『精気について』からのものとなる。

コンスタンティヌスの関与問題に戻ると、ラテン語版『種子について』の二つの写本に、コンスタンティヌスが訳者だという記載があるといい、そこからして、『パンテグニ』にその一節を挿入した張本人はコンスタンティヌスという可能性は高そうだ。さらにコンスタンティヌスが複数の言語から翻訳を行った(アラビア語のほかギリシア語からも、ということ)という証言(モンテ・カッシーノ年代記を記したペトルス助祭)もあり、いずれにしても同時のモンテ・カッシーノが複数言語・文化が混淆する地であったことは確かだとバーネットはまとめている。ちなみにこの論考、補遺として『種子について』の異本テキストが収録されていて(!)大変興味深い。

*余談ながら、『パンテグニ』のヘルシンキ写本を転写したものが公開されているのを知った。→こちら(http://www.doria.fi/handle/10024/69829