錬金術をめぐる攻防

中世の錬金術をめぐる基本的な論考の一つ(らしい)、ウィリアム・ニューマンの「中世後期における技術と錬金術の議論」(William Newman, Technology and alchemical debate in the late Middle Ages, Isis vol 80(3), 1989, pp.423-445)をざっと読んでみた。西欧の技術を暗に支えている「人間による自然の支配」という信念については、ときにアリストテレスに内包されているという言い方がなされたりもするけれど、そのいわば「鬼っ子」をなしているのはやはり錬金術。この論考では、13世紀を中心として錬金術の是非をめぐる学術的な議論のアウトラインを示してみせているのだけれど、割と重要だと思えるのは、なぜそれが正規の大学のカリキュラムに組み入れられなかったかという問題。医学などとは違い、そこには独特な文脈があったという趣旨で話は進む。12世紀ごろの主流をなす神学世界では、古代ギリシアの哲学の確信を引き継いで、手仕事の諸芸(メカニカル・アーツ)は自然を模倣することによって習得され、結果的にその所作が自然を越えることはないとされていた。ところがこれに錬金術師たちが異を唱える。彼らはアリストテレスの質料形相論をベースにした合理的な学知として錬金術を擁護し(カバラとかいろんな要素が入ったルネサンス期の新プラトン主義的な錬金術とは違うのだという)、極端なものとしては人の技が被造物の種を塗り替えることができるといった議論まで示すようになる。これが13世紀末までの間に、教会の側からの反動を生むことになっていく。

アヴィセンナは「種は変えられない、人の技は自然を乗り越えられない」と考えているのに対し、たとえばすでにしてアルベルトゥス・マグヌスは、この「種」を種的形相と読み替え、一つの形相が滅してそれに代わる形相が導かれる可能性を示してみせるという。その後のロジャー・ベーコンにいたると、錬金術は医術や自然についての人間知の源泉にまで称揚される。興味深いのは、13世紀のフランシスコ会士、トラントのパウルスという人物。プロティノスの知性の位格を人間知性と同一視して、自然は知性に(つまり人間知に)従属するのだから、人間は自然を操作し支配しなければならないと主張するのだという。おお、これは要チェック。錬金術を批判する側には、トマスとそれを継ぐエギディウス・ロマヌスに次いで、14世紀前半のオルドラド・ダ・ポンテという人物が挙げられている(これも個人的に要チェックかな)。13世紀末には、ドミニコ会を中心に錬金術の糾弾がたびたび提議されているといい、著者はその背景として、錬金術問題が「神学化」した(神学問題と結びつけられて解釈された)ことを挙げている。

↓wikipedia(en)より、ジャービル・イブン・ハイヤーン(ラテン表記:ゲーベル)の肖像。西欧の15世紀のもの。上の論考では、ハイヤーンの著とされた『完徳大全』は、実はトラントのパウルスによるものではないかという話が出てくる。うーん、さすがはニューマン、おそるべし。そちらの議論もぜひ読みたい。

知的スペキエス:クザーヌスとか

都合により個人的に長らくおあずけ状態だったリーン・スプルイトの『知的スペキエス:知覚から知識へ』の第二巻(Leen Spruit, Species Intelligibilis: From Perception to Knowledge : II., Brill, 1995)をやっと読み始める。章立ては一巻に続いてなので6章からで、まずこの章が「フィレンツェからパドヴァへ」になっている。さしずめ15世紀後半の論者めぐりということで、クザーヌス、ピコ・デラ・ミランドラ、フィチーノ、ジャック・ルフェーヴル・デタープル、シャルル・ド・ボヴェル、フラカストロと続き、さらにパドヴァからはニコレット・ヴェルニア、アレッサンドロ・アキリーニ、ティベリオ・バチリエリ、クリストフォロ・マルチェッロ、そしてアゴスティノ・ニフォへと、総覧のごとくページが展開していく。なんと華麗な……とため息がでる感じ(笑)。こうしてスペキエス(可知的形象)がいかに意味を縮減され、むしろ力能としての知性の働きに「呑み込まれて」いくかが示される。

最近の個人的な関心でもある「受動の中の能動性」みたいな話からすると、どの論者も興味深いのだけれど、とりわけクザーヌスが意外に重要そうな気がする。その流れの嚆矢のような扱いのクザーヌスは、基本的に感覚の励起が知識の生成の基本部分をなすと考えている一方で、心がまったく受動的にのみ感覚の刺激を受け取るのではなく、知識の獲得には判断能力が不可欠だとも考えている。で、感覚の刺激という意味でのスペキエスは認めているのだという(知的スペキエスについての言及はないのだとか)。「形相的スペキエス」(species formales)が心の中にある、という言い方も出てくるようだけれど、ただその場合でもプラトン主義的な実体的像があるというのではなく、力点は心がそうした像を形成できる心の力能に置かれていることをスプルイトは強調したりしている。ちょっとこのあたりは深く潜ってみたい話だ。また、今オッカムとかをかじっているせいもあって、オッカム主義者として知られるアレッサンドロ・アキリーニあたりもとても気になるところだ。

オッカムを継ぐ者(大物)たち

うーむと思わず唸ってしまう論考を読んだ。刊行が続いている講談社選書メチエの『西洋哲学史』Ⅳ巻(2012)所収の乗立雄輝「オッカムからヒュームへ」がそれ。従来のイギリス経験論vs大陸合理論とは違う、ブリティッシュ・ノミナリズムvsアメリカン・リアリズムという対立構図を提示して、オッカム、ロック、バークリ、ヒュームの流れを唯名論をキーとして整理し直すという、とても刺激的な試みを展開する(対立するアメリカ勢はパース、ジェイムズ、ホワイトヘッドなど……)。見取り図としてとても面白いっすね、これ。中身からちょっとメモしておこう。ヒュームの「習慣」(ハビトゥス)を遡ってとりあえず行き着くのはオッカムのハビトゥス論。オッカムは可知的形象を認めない代わりに、それが担うとされていた心理的な機能(想起など)を説明するため「習慣」(ハビトゥス)を導き入れる。これはヒュームが、因果関係の必然的結合を否定するために「習慣」を持ち込むのとパラレルだというわけだ。著者は稲垣良典『習慣の哲学』を引いて、オッカムが人間活動の全体を習慣概念でもって説明しようとしていたとし、それが、パースが評価するトマスの習慣概念(自然本性に関わる、なにか超越的なものとしての習慣)とはまったく別物であったことに触れている。

話はさらに「関係」概念に及ぶ。それを実在論的に捉えるか、それとも唯名論的に精神活動の所作と見なすかという対立点があるわけだけれど、後者の代表格としてロックが挙げられ、これまたオッカムの議論へと遡及していく。これに関連して、オッカムによるカテゴリー縮減(アリストテレスの10の範疇を、<実体>と<性質>のみへと切り詰める)の話に進んでいく。削除された範疇はみな言語の表象能力ゆえに導かれた仮象的なものでしかないというわけだが、そもそもオッカムの場合には、概念というのは心が現実に行っている思考活動そのものだとされる。で、そのあたりもまたヒュームやバークリなどに継承されているのだという。

興味深いのは最後のほうで出てくるビュリダンの話。ロックはオッカムの唯名論を様々な形で継承しているというのだが、「観念」に至っては可知的形象を復活させていると見ることもできるといい(実際にトマス・リードがそう批判しているのだとか)、なぜそんなことになるのかという話において、ミッシングリンクとしてのビュリダンが登場する。オッカム以上の唯名論者とも言われるビュリダンは、カテゴリーを<実体>のみに縮減しようとし(これは神学的に問題になることから、失敗しているということだが)、<性質>までも<実体>に含めようとして新たな実体概念を打ち立てようとし、その途上で可知的形象(および能動知性)を復活させてしまうのだという。どうやらロックにも同じような動きが見られるらしいのだが、このあたり、もうちょっと詳しいところに鼻を突っ込んでみたくなる(笑)。

そういえば、前にマクダウェル関連で出てきた「受動の中の最低限の能動」に関係して、ちょっと面白い記述があった。ロックは感覚の受動性においてさえ観念の選り分けをするためには何らかの作用が必要だとしているというものの、その働きを能動的な精神の能力にではなく、身体レベルの感覚の働きに求めているのだという(と、種本のスプルイトが述べているらしい)。で、トマス・リード、ひいてはパースなどが、知覚にすでに判断が含まれていると主張しているのだそうな。これは後で確認しよう(笑)。

久々にアフロディシアスのアレクサンドロス

唐突ながら改めて思ったこと。アフロディシアスのアレクサンドロスはやっぱり面白い……というか、そのアレクサンドロスの注解テキストを解釈する研究も(が?)また面白い(笑)。アレクサンドロス自身がアリストテレスのギリシア人注釈家なわけだけれど、その読解そのものがさらに現代の研究者の解釈を呼び寄せている風で、なにやら二重三重に重ね塗りされている感じ。注釈が、もとのテキストをなんらかの形でこねくり回してみせる様が、なにやらとても興味深い気がする。以前にも、魂と身体、形相と質料の不可分性のようなことをアレクサンドロスが強調していて、しかもそれが区別されるのはあくまで認識の賜物であるといった、まるで唯名論の先駆けであるかのような議論をアレクサンドロスが展開している、みたいな話があった。で、今度は自然学絡みのアレクサンドロスの立場について、フランスの研究者マルヴァン・ラシッドがいろいろとまとめている。見ているのは『アフロディシアスのアレクサンドロス:アリストテレス『自然学』への失われた注解(四巻から八巻)−−ビザンツの注釈集』(Marwan Rashed, Alexandre d’Aphrodise, Commentaire perdu à la Physique d’Aristote: Livres Iv-viii, De Gruyter, 2011)の巻頭論文のさわり。

『自然学』の四巻というと、場所、真空、時間などが扱われている巻。で、たとえば場所論がらみでは、四巻三章についてのアレクサンドロスの独創的な(?)解釈が紹介されている。アリストテレスの本文でのこの箇所は、素直に読むなら、モノがそのもののうちに「内在」することが不可能であるということを論証し、「内在」はあくまで他のモノのうちで可能であるという話の流れになっているのだけれど(これはまあ常識的だ)、著者によるとアレクサンドロスはどうやら、モノは「偶有的に」そのもののうちに内在することはできないとアリストテレスが付言していることをもとに、当初の対立項は偶有的か本質的かであると見て、「他のモノのうちに」在るという選択肢を第三の道として取り出し、モノは「他のうちにある」なら、そのもののうちに内在できるという結論を導くのだという。わーお。なにやらややこしいが、身体の中の内臓が特定の場所に存在することを著者は例として挙げている。要はこういうことらしい。個々の物体が場所に存在するということを、アリストテレス思想では連続性と隣接性の区別で説明しようとし、モノが場所に在るということは、存在論的な密度の高いモノが、隣接する存在論的な密度の粗い場所においてみずから運動するということだと述べるのだが、そうすると身体の中の内臓のように「内在」するモノの場合、説明に詰まってしまう。アレクサンドロスはなんとかそれを解決し(ちょっと強引に解釈をこねくりまわして?)、ライバル視していたストア派に対するアリストテレス思想の優位性を高めようとしたのだ、と……。

帰郷の旅のお供

田舎での遺品整理のために、またまた帰省してきた。しばらくは月1のペースぐらいでそういう雑務を続けることになりそうだ。うーむ、早いところ片付けてしまいたいものなのだが……。というわけで、今回の旅のお供はLoeb版のガレノス『治療の方法』の第一分冊(1巻から4巻まで収録)(Galen, Method of Medicine, Volume I: Books 1-4 (Loeb Classical Library))。まだ冒頭部分だけだけれど、医学がいわば他の諸学を巻き込んだ総合知であるみたいな信念が貫かれているようで、結構読み応えがある。また、病理の分類について、二項対立的に「差異」にのみ着目せよ、みたいなことを言っているのも興味深い。またこのブログ上でガレノス研みたいにしてまとめていくのもいいかもしれないなあ、なんて思っている。テキストの先は長いので、ゆっくり読んでいきたい。

今回はまた、「スピーキンググリーク」(Speaking Greek CD (Reading Greek) )なる音声教材をiPhoneに入れて新幹線で聴いてみた。アングロサクソンっぽい感じの、ちょっと時に子音とかがきついギリシア語発音のようだけど、移動時とかのちょっと退屈なときには、全体的にこういうリズムはやはりとても心地よい(ような気がする)。もとはReading Greekというテキストの音声教材。アリストパネスの喜劇などが効果音も交えつつ録音されていたりするし、プラトンの対話編からも抜粋されていたりするのだけれど、やはりなんといっても最後のほうのトラックに入っているホメロスが最強(笑)。ヘクサメトロンはいいなあ。願わくば、アシミルの古典ギリシア語教材のCDにあるように、もろに歌ってくれてもよかったのに、なんて思ったり。