音楽家ルソー

7月2日の命日で没後300年だというジャン=ジャック・ルソー。で、その記念イベント「音楽家ルソーふたたび−−異色作『ピグマリオン』を中心に」を見に、武蔵野市民文化会館に行ってきた。海老澤敏氏のミニ解説つき。前半はルソー作品を中心とするコンサート。ルソー作曲の声楽曲から始まったのだけれど、とくに個人的にウケたのは、ルソーがフルート・ソロ用に編曲したヴィヴァルディの『春』。これ、オケでやるときに聞こえてくる通りの音を、丹念に拾って楽譜化したという感じなのだ。旋律主義みたいな部分をある意味愚直なほどに守り通している、ということなのかもしれないが……。クラリネット二重奏もわかりやすい旋律の愛らしい小品。前半の最後は、ルソーの『村の占い師』で使われた「むすんでひらいて」の原曲にもとづく、ヨハン・バプティスト・クラーマー(1771-1858)の変奏曲をピアノ演奏で。後半はほぼ日本初演だという『ピグマリオン』。音楽と台詞・演技が交互に繰り返されるという独特の舞台劇(メロドラム)。テキストはルソーのものだというが、作曲はオラス・コワニェ (1735-1821)。なかなか優美な曲が並んでいる印象なのだけれど、台詞は日本語訳で、原語ならまた違う味わいだったろうなあと思う。それに、予想よりも少し本格的な演出すぎて(笑)、正直なところ個人的には、音楽と舞台とがどうかみ合っているのかよくわからんかったような……(苦笑)。でも、いつか原語版を見てみたい気がする。

同時に会館の一階では海老澤氏のコレクションによるルソー展をやっていた(7月10日まで)。初版本などが主だけれど、ルソーの手紙もいくつか展示されていて、その模範的な、実に読みやすい筆記体がとても印象的。そういえば生誕300年ということで、Galicaでも『告白録』の草稿を紹介している。国民議会図書館所収とか。

↓Wikipedia (en)より、『人間不平等起源論』(1755)の扉絵。

医者としてのマイモニデス

『迷える者への道案内』など、神学的・哲学的議論がともすれば目につくマイモニデスだが、実は医者としても活躍している。で、そのマイモニデスの医学書について取り上げた小論というか小アーティクル(一種の紹介文かな)を読む。フレッド・ロスナー「中世の卓越した医師、モーゼス・マイモニデスの生涯」(Fred Rosner, The Life of Moses Maimonides, a Prominent Medieval Physician, Einstein Quarterly Journal of Biology and Medicine, Vol.19, 2002)というもの。マイモニデスも相当波乱に満ちた生涯を送っている。迫害を逃れてフォスタット(カイロ)に渡ったところで父親や兄弟を失い、そこで生計を立てるために医者を稼業して始める。その後サラディンが十字軍との戦争で留守にしていたヴィジエ・アル・ファディルの宮廷医として指名され、やがてその名はエジプト内外に広く知られるようになり、サラディン亡き後もその息子に仕えた。医学教育をどこで受けたかなどはほとんどわかっていないというものの、著作にはヒポクラテス、ガレノス、アリストテレス、ラーゼス、アル・ファラービー、イブン・ズフル(12世紀のセビリャの医者)などが頻繁に引用されているという。

で、マイモニデスが記した医学書もいろいろあるようで、同紹介文では10冊ほど概要がまとめられている。『ガレノス抜粋(治療の方法)』『ヒポクラテス格言注解』『モーセ(ピルケイ・モシェ)医学格言』(これが一番の大著とか)、『痔疾論』『同棲論』『喘息論』『毒・解毒論』『養生論』『調和の説明』『薬名辞典』。うーむ、なかなか面白そうだ。校注本も各種出ているらしいし、機会があればぜひ見てみよう。

↓ Wikipedia(en)より、コルドバにあるというマイモニデスの像。なかなか渋い(笑)。

教会、迷路、踊り

「迷路のような巡礼路」(Tessa Morrison, The Labyrinthine Path of Pilgrimage, Peregrinations: International Society for the Study of Pilgrimage Art, Vol.1:3, 2003)という短い論考を読む。シャルトルの大聖堂の床に巨大な迷路が描かれているというのは結構有名な話だけれど、ほかにもサン・ミケーレ・マッジョーレ、サン・ヴィターレ、ラヴェンナなどのゴシック聖堂にもあるのだそうだ。同論考はそうした迷路についての考察しているのだけれど、なにやら意外性に満ちていて、個人的には楽しく読めた(笑)。一般に巡礼の道を象徴するとされてきたそれらの迷路だけれど、そうした迷路の幾何学的な模様(クレタ風ではない)が描かれた最古の事例は、10世紀の計算手引き書なのだそうで、復活祭の日にちの計算を解説する箇所に挿入されていたりするのだとか。その200年くらいに後になって、教会の床に描かれることになる。ただ、それが僧侶の歩きながらの瞑想に用いられたという事例は18、19世紀のもので、それ以前にそうした修行が行われていた確証はないのだという。

一方で、聖堂内の迷路を使って歌や踊り、ボール遊び(というと語弊があるかな)などが行われていた記録があるのだという。聖職者たちが迷路の上で踊っていた……ってなかなか想像しにくいものがあるが(笑)、復活祭の月曜の晩課などで行われていたらしい。「オーセール・ペロータ」の記録というのが最も詳細なものだという。歌い踊りながら球技をするという一種の儀礼なのだそうだが、この球技ダンスのルールや記述が1396年の教令に残っているそうだ(どこかに復元映像とかないかしら?)。そうした踊りはシャルトルでも行われていた可能性が高いという。

この論考はここから、いきなり思想系へと言及する(!)。聖職者の踊りは回転、休止、逆回転の3つの要素から成るものだとされるのだけれど、これがプラトンの『ティマイオス』に見られる「天空の踊り」(つまり、恒星の右から左の動きと、七惑星の左から右の動き、そして静止しているとされる地球)を象徴的になぞっているのだ、と。また、その象徴体系に組み込まれているものとして、『国家』で語られるエル神による諸天の旅の物語も触れられている。さらには、偽ディオヌシオス(アレオパギテース)による天使の位階論も言及される。9つの位階に分かれる天使は、神の照明を下界の人間の位階に拡散するために、やはり3つの部分から成る踊りを踊っているのだ、と……。オーセールの復活祭の踊りが行われた迷路は、12の円から成っており、それは4元素から成る中心部、7つの惑星、恒星の計12の球を、つまりは中世の宇宙観そのものを表しているという。かくして教会の床の迷路は、地上世界での巡礼などを遥かに超えた魂の巡礼路を表し、ひいてはコスモロジー全体へと繋がっていくのではないか……。おお、壮大な話だけに、詳しく論究すればまた面白いはずなのだが、おそらくは誌面の制約のせいで(?)、このあたり、かなり端折った説明の羅列にしかなっていないのが多少残念な気もする。でも、とりあえず気持ちは伝わったぜ(笑)。

wikipedia(en)より、シャルトル大聖堂の床の迷路↓

オブリガティオ?

思うところあって、サラ・L・アッケルマン「中世の対話論理」(Sara L. Uckelman, Interactive Logic in the Middle Ages, published online, 2011)という論文を見てみた。現代の論理学の一つの潮流として、静的・理論的な論理学から、より動的な、現実世界の状況に応用するための体系へのシフトというのがあるそうなのだが、そうしたゲーム的な対話論理学が盛んに取り上げられていたのが実は中世後期、13世紀半ばから14世紀半ばだったという話。この論文は、そうした中世の対話形式の代表例として、「オブリガティオ」(義務づけ、拘束)による議論というものを紹介し、まとめている。オブリガティオでは、対立者と応答者を要し、それらが順番に対話を構成していく。まず対立者がなんらかの命題を出し、それに対して応答者は予め決められたルールにもとづき「同意」「拒絶」「疑義」などを示すのだという。いわばディベート形式の先駆のようなもの(なのかしら)。で、その形式やルールについての研究が中世では広く散見されるのだそうで、たとえばソフィスマタ(謬論)などにも、オブリガティオ型の推論が多々見られるという。

元になっているのはやはりアリストテレスの対話理論。それを形式化させたのが中世のそういった対話論理ということらしい。ニコル・ド・パリ、ウォルター・バーリー(1275−1344)などから始まって、リチャード・キルヴィントン(1302-1361)、オッカム、ザクセンのアルベルト、、はてはピエール・ダイイ、ヴェネツィアのパウルスなどなど、様々な論者がそういった対話論理についての書を記しているのだとか。それらの書(とくにニコラ・ド・パリ、バーリーとキルヴィントンが比重が大きいかな)をもとに、論文著者はオブリガティオの分類、それぞれの応答形式(「同意」「拒絶」「疑義」ほか)の定義などについて、歴史的変遷を踏まえつつまとめている。うーむ、このあたりの約束事というか形式というかはよく知らなんだ……。ちょっと具体例に乏しいのでイメージが掴みにくいし、ちゃんと消化できていないのだけれど、実際の各論者のオブリガティオ論を読んでみたいところ。もちろん、ソフィスマタの類にもちゃんと目を通さないと……(と反省する)。

『哲学の慰め』注釈小史

またしても面白い論考だ。「『プラトン主義者はアリストテレス主義者より偉大なり』:12世紀から17世紀までの、『哲学の慰め』におけるボエティウスのプラトン主義解釈」(Lodi Nauta, “Magis sit Platonicus quam Aristotelicus”: Interpretations of Boethius’s Platonism in the Consolatio Philosophiae From the Twelfth to the Seventeenth Century, in The Platonic tradition in the Middle Ages: a doxographic approach, Walter De Gruyter, 2002)(PDFはこちら)は、ボエティウスの同著作についての注釈小史をまとめたもの。ボエティウスはキリスト教の伝統において重要な人物とされるものの、その最後の著作である『哲学の慰め』においては、キリスト教の教義に触れていないことと、身体に入る前の魂の存在がたびたび暗示されることにより、後世の注釈者たちを大いに悩ませることになる。ある人々は、ボエティウスが示すプラトン主義がキリスト教の教義に沿うものであることを、プラトンの言葉の意味解釈を深めることで示そうとし、また別のある人々は、そうしたプラトン主義とキリスト教の摺り合わせを拒絶しようとした。さらにほかにも、ボエティウスのプラトン主義への忠誠を低めようとする論者もいたり、文献学的な注釈だけに留めようとする動きもあったり、また17世紀ごろにはプラトン主義をまるごと真摯に受け止めようという向きもあったという。

で、著者はとりわけ最初の、プラトン主義とキリスト教とを和解させようとする動きに注目し、何人かの論者たちを取り上げ、特に世界創造の問題と魂の先在の議論について比較を試みる。取り上げられるのは、コンシュのギヨーム、ニコラス・トレヴェット、アラゴンのウィリアム(アリストテレス的解釈者)、バディウス・アスケンシウス(16世紀初頭)、ヨハネス・ムルメリウス(16世紀初頭)、レナトゥス・ヴァリヌス(17世紀)ほか。この人文主義者たち以降の解釈も興味をそそるのだけれど、個人的にここで一番惹かれるのは、13世紀末から14世紀にかけて活躍したニコラス・トレヴェット。ボエティウスだけでなく、聖書のほか、セネカ(小)の悲劇、セネカ(大)の『雄弁術』、アウグスティヌス『神の国』、リウィウス『ローマ建国史』などの注釈もあるという。当時はかなり人気の書き手だったとのことだ。ボエティウスの解釈に関しては、コンシュのギヨームと同様に、プラトン主義はその言葉づかいのうちに(キリスト教から見た)健全かつ妥当な哲学が見出されるとの立場に立っているといい、この論考を読む限り、どこか曖昧さを残す箇所があったり、やや強引とも取れる解釈の箇所があったりと、なにやらあの手この手を駆使している印象。そこがまたとても面白そうな気配。