土食(症)の略史

「土食」についての小論を読んでみた。ヴォイヴォット&キス「ゲオファギア:土食症の歴史」(A. Woywodt & A.Kiss, Geophagia: the history of earth-eating, JRSM, vol.95(3), 2002)というもの。読んで字のごとく土を食べるということなのだけれど、これは習慣としては現代世界でも南アフリカなどに見られるといい、人類学的にはかなり広範に世界各地で見られる現象なのだそうだ。アジアでも飢饉のときに土粥が食べられていたなんて話もあるし。ただ、この食文化的なものは別に(?)病理的な場合の土食症なるものがあり、妊婦が土を食くような事例(鉄分の不足を補うため、などと説明される)があるのだそうだ(うーむ、でもこの論考ではそれら両者を分けずに扱っているのだけれど、それでいいのかしら?)。

当然ながら西欧でも古来から文献に記載があるといい、この小論によるとヒポクラテスが妊婦の土食症に言及し、ローマのアウルス・コルネリウス・ケルススも『医学論』で、顔色の悪い一部の人々が土食者である可能性を指摘しているという。プリニウスも赤粘土を含む粥が、薬として食されていたことを記している。6世紀のアミダのアエティウスも、ビザンツでの妊婦の土食症について書いているという。中世になるとこうした記述はあまりないというが、イブン・シーナー(アヴィセンナ)などは若い男性の土食症の治療には、監禁しておくのがよいとしているらしい(おいおい)。西欧では、数少ない文献の一つとして、サレルノのトロトゥラ(11世紀に活躍した女医)のものが残っているという。出産前のケアの一環として、土食症への対応方法(土を欲しがったら砂糖で煮た豆を与えよ)を記しているらしい。

16世紀から17世紀にかけては、土食症は別の病気、萎黄病(chlorosis)なる良性貧血症の症状として観察されるようになるのだという。そういった方向は19世紀まで続き、一方で南アフリカでの土食の習慣など(フンボルトによるオトマコ族の話など)、民族学的・人類学的な報告も増えていく。症状か慣習かはともかく、それらの原因も複合的とされ、この論考では一種の「退行現象」的なものではないかとの指摘も。

wikipedia(en)より、サレルノのトロトゥラ。12〜13世紀ごろの写本から。

ジャレド・ダイアモンドのモデル

少し前だけれど、文庫化されたジャレド・ダイアモンド『文庫 銃・病原菌・鉄』(倉骨彰訳、草思社文庫(上・下))を読んでみた。で、以下少々乱暴な感想。同書の肝はなんといっても、技術的な事象(文字とか牧畜とかも含む)というものは同時多発的に複数の起源から出現するのではなく、ある特異点で登場し、そこから別の地域に伝播していくのだというモデルにある気がする。このモデルを採択すると、歴史上の西欧の圧倒的な物質的優位とかが比較的明快に整理できるというわけなのだけれど、個人的にはびみょ〜な違和感を感じたりもする。同モデルが、どこか偏った主体を前提にしているような気がするからだ。まったく未知だった文字や技術対象物が他所から伝えられると、受け入れる側の民族はごくわずかな時間でそれらを使いこなせるようになる。だから基本的能力は等しくもっているものの、ただ文字や技術対象物を生み出すほかの条件は整っていなかったせいで、当初は水を空けられているのだが、すぐにそれらを取り込んで追いつくことができる、というのが同書の基本線。なにやらこれ、だからグローバル化などは行き着くべき必然的な到達点なのだ、と言っているような気さえしてしまう(笑)。

同書では一貫して文字や技術対象物は「道具」として扱われているのだけれど、まがりなりにも仏系の現代思想とかを経てきた私たちは、別モデルの可能性を語れるんじゃなかったかなあ、と。たとえば文字は単なる道具じゃなく、もっと根源的なレベルをも構成している(しうる)可能性だってある、みたいな。言語が喚起する聴覚イメージと称されるものの分節は、もとよりきわめて文字的な何か(昔は痕跡とか言っていたが)だったのでは?技術対象物も同様で、そこにはどこか同化・異化の力学のようなものがあるんじゃなかったっけ?そういう議論から組み上げられるモデルがあるとすれば、西欧から持ち込まれた技術の類は、もとの民族がもっていたはずの豊かな創造性のようなものを駆逐し、均一化を押しつけてしまったという負の面のほうが強くなってしまうのだったはず。その意味での西欧文明は罪深いし、そのあたりを顧みず、同様の物質文化が他の地域で発生しなかったのは環境的条件のせいで、能力的な要因ではないとするのは、一見公正・平等な人間観のようでいて、実は西欧的な暴力行為を不問に付すという偽善的なスタンスなのではないか……なんて問うこともできる。道具立てでのみ見ないで、別様の可能性をさぐること。そこからすると基本的な問題は、なぜ西欧以外の地域は技術革新に至らなかったのかではなく、なぜ西欧はそういう暴力的な拡張性をあえてふりかざしたのか(あるいは、ふりかざすしかなかったのか)ではないかと……。

バーレスクな静物画?

15世紀から16世紀というと、世俗化が進んで、ラブレーではないけれど下ネタを含む様々なバーレスク、あるいはサティリカルなテーマがあふれ出すというイメージがあるけれども、そうした動きは詩人にとどまらず、画家にも影響をおよぼし、バーレスク、サティリカルな視線は彼らを通じて自然界の事物や日常生活の事物にまで注がれていた……といった話を扱ったアーティクルを読んでみた。ジョン・ヴァリアーノ「後期ルネサンスのローマにおける、性的メタファーとしての果実や野菜」というもの(John Variano, Fruits and Vegetables as Sexual Metaphor in Late Renaissance Rome, in Gastronomica – The Journal of Food and Culture, Vol. 5, No. 4, 2005, University of California Press)(PDFはこちら)。

静物で人物画を構成してみせた作例としてアルチンボルドーがいるけれども、同論考によると、そこまで極端ではなくとも、果物や野菜を性的な暗示を込めて描いた絵画というのが何点かあるのだという。一部の果物や野菜が人間の身体と似ているという話は、もともとは植物誌の伝統に息づいていたわけだけれど、1588年にジャンバティスタ・デッラ・ポルタの挿絵入り『フィトグノミカ(Phytognomica)』の刊行で、一般に流布することになり、そこから17世紀にいたるまで、食物と性とのメタファーはウィットや疑似科学に支えられて存続していくのだという。で、同論考では、エロスの意味を込めて静物を描いた最初期のものとして、ラファエロの「プシュケーの回廊」の、ジョヴァンニ・ダ・ウディネの手による外枠部分と、ニッコロ・フランジパーネの「秋の寓意」が挙げられている。うーむ、これらに関してはなかなかあけすけな表現ではあるなあ(笑)。同論考は続いて当時の詩作品に見られるバーレスクなものについていくつか紹介した後、エロティックな静物画の最高潮としてカラヴァッジョの「石棚の上の果物がある静物」(1605、ローマ、ボルゲーゼ美術館)を取り上げている。先の二枚はエロティックな表現が本筋の主題ではないわけだけれど、著者によるとこれが初の、単独でのエロス表現の静物画ではないかという。うーむ、そうなのか?これは解読のキーがないとわからないような気がするが……(苦笑)。いずれにせよ、詩と絵画表現の通底というのはなかなか奥深い世界のよう。これに音楽も加わると、ますます興味深いものになっていきそうな気が(?)。

これがその問題の、カラヴァッジョ作とされる「石棚の上の果物がある静物」。ひょっとして、張り出すのはマズイ……とか?(笑)

マキャヴェッリの教育観?

マキャヴェッリあたりともなると、基本知識不足ながら関心だけはあって(苦笑)、そんな勢いでイリヤ・ウィンハム「マキャヴェッリのキリスト教教育論」という論考を見てみた(Ilya Winham, Machiavelli on Christian Education, Education: Forming and Deforming in Premodern Mind(PDF), Newberry Library, 2009)。巷に膾炙する解釈として、マキャベッリが『ディスコルシ』の中で同時代のキリスト教の教育と古代ローマの異教的教育とを対比し、前者を問題視し後者を賞揚していた、あるいは後者を参考にして前者を抜本から改革しなくてはならないと考えていた、というものがあるという。論文著者はこれを「市民宗教アプローチ」と称し、著名な研究者などの間でも広く出回っている解釈だとしている。ポーコックの『マキァヴェリアン・モーメント』(邦訳は田中秀夫ほか訳、名古屋大学出版会)などもそうなのだとか(うーん、個人的には同書は全体を読んではいないのでナンだけれども、部分的に目を通した範囲ではそんなふうな解釈にはあまり思えなかったりもするのだけれど……。まあ、夏読書ということでじっくり読んでみるのもよいかもしれないなあ……)。で、同論文はこれを問い直そうというのが趣旨になる。その市民宗教アプローチの肝となるのが、古代の宗教が現世的な「善」を重く見るのに対して、当時のキリスト教の教えはあくまで彼岸の生が重要視された、という議論。けれども論文著者からすると、そもそもこれ自体が後世の宗教観を反映した偏った見方なのではないかという。で、同著者は『ディスコルシ』を読み直してみるわけなのだけれど、マキャヴェッリがキリスト教に替えて異教的教育を求めたとか、異教のモデルでもってキリスト教教育の改革を求めたといった推測は、実のところほとんど根拠がないという結論にいたる。『ディスコルシ』に描かれるマキャヴェッリの教育論では、異教からの教訓を学ぶことがキリスト教を拒否することに直結はせず、キリスト教の教育はそうした異教的な教訓と両立しうる、あるいは相互に補完しうるとされているのだという。マキャヴェッリが持ち込む対立軸も、キリスト教と異教ではなく、弱い教育と強い教育の間にあるのだという。ちょっとこのあたりも含め、『ディスコルシ』(永井三明訳、ちくま学芸文庫)そのもの(なんとまあ、これも積ん読になっている……)で確認を取りたいところ。

wikipedia(jp)より、ご存じマキャヴェッリの肖像画

キルウォードビーとペッカムの誤算

前にちらっと言及した論考だけれど、坂口昂吉「オクスフォードにおけるアリストテレス禁令について」(史学 34(1)、慶応義塾大学、1961)を読み直してみた。うーむ、今なお実に読ませる論考だ。というわけで、内容をメモ的にまとめておこう。オクスフォードのこの禁令というのは、パリでタンピエの禁令が出た1277年3月7日からわずか11日後に、アリストテレスの教説を禁止しようとカンタベリー大司教のロバート・キルウォードビーが、オクスフォード大学の教授の会議で発布した30箇条から成る禁令。キルウォードビーに続いてカンタベリー大司教になったジョン・ペッカムもこれを1284年に再発布するのだけれど、パリの禁令と違い、こちらは後に大いに批判されて総スカンを食らってしまう。同論考によれば、両禁令が大きく違うのは、オクスフォードの方には禁令事項にトマスなどが主張する形相単一説が含まれていたという点。で、これがどうやら両禁令のその後を分かつことになるらしい。

キルウォードビーはトマスと同じくドミニコ会士なのだけれど、思想的にはアウグスティヌス主義を標榜し、そのため形相多数説(複数形相論)を擁護する立場にあった。続くペッカムはフランシスコ会士で、こちらはもとより形相多数説を取っていた。形相単一説を採用すると、無からの創造や死後の肉体の在り方といった教義との整合性に支障をきたす。そのために彼らは形相単一説を糾弾するのだけれど、キルウォードビーの発布後すぐに、コリント司教のコンフレトのペトルスからその点についての批判が寄せられ、またペッカムのほうは、ドミニコ会の英国管区長ホットハムのウィリアムから、トマスとドミニコ会への侮辱だとの非難を受ける。当時アウグスティヌス主義は高位聖職者の間に広く浸透していて(ドミニコ会、フランシスコ会の別なく)、その意味でアリストテレス主義に対する危惧は高まりを見せ、パリの禁令とほぼ連動する形でオクスフォードの禁令は出されるのだけれど、キルウォードビーとペッカムは見誤った点は、一方でトマス主義もまたじわじわと勢力を拡大していたという点。同論文によると、キルウォードビーが禁令を出した翌年の1278年にミラノで開かれたドミニコ会の総会は、彼と英国管区長を非難しているといい、翌1279年のパリでのドミニコ会総会では、トマスの教説がドミニコ会の公の学説として認められた。一方、ペッカムが属するフランシスコ会もその後に態度を硬化させていて、1282年のストラスブールのフランシスコ会総会では、トマスの書が禁書扱いになっているという。ペッカムは形相単一説がそうした両修道会の争いの要になっていることを見誤っていたらしい。

wikipedia(en)より、ロバート・キルウォードビーの肖像画(詳細不明)