【シリーズ:書きと読み 2】キリストの水上歩行と識字

熱烈な信者でもないかぎり、歴史的人物としてのイエス・キリストについては、海の上を歩いたという話はいわゆる「眉唾」で、読み書きができたという話はおそらく本当なのだろうと考えるのが、たいていの現代人だろうと思う(たぶんね)。ところが、ここで「なぜイエスは海上を歩けたのに、読み書きはできなかったか」という挑発的(?)なタイトルを掲げてこれに挑むかのような論文が目に付いた。南アフリカ大学のP. F. クラファート&J. J. ボサによる論文だ(P. F. Craffert and P. J. J. Botha, Why Jesus could walk on the sea but he could not read and write, Neotestamenica, vol. 39, 2005)。彼らの主張は要するに、イエスが実際に海の上を歩いたかどうかは、これまで様々な説が出されているものの、事実関係に限定して考える限り証拠となるものがなく確定的なことは言えないが、それを文化的事象として捉えるならば、まったく違った議論ができる、ということに尽きる(かな)。その事象を<目撃>した弟子たちの理解(すなわち彼らの意識変容状態の記述)や、その理解を支えていた文化的背景(海は基本的に霊的な力を秘めた存在で、神や英雄がそれを制御するという伝統的な物語が共有されていた云々)から捉えることで、海の上を歩くという現代的常識からすれば超常的な事象が、当時の文化においては至極もっともらしい事象だったとして扱われうる、というわけだ。でもこれって歴史記述としてはどうなの、という疑問が当然湧く(笑)。

ここで論文著者たちは、ある種の心性の歴史を取り出す方法論へと話を進める。それは、多様な文化的構築物がもつリアリティを認識し、文化交差的な解釈をほどこした上で、過去の事象の史実性を検証しようとするやり方だ。主体、つまり現象に遭遇したであろう当人・同時代人たちが、どのようにその現象を受け入れたかを、当時の社会の絶対的前提(今現在のものとは相当異なる)、暗黙に共有されていた社会的前提から再構築し、ともすれば証拠一辺倒で硬直的になりがちな(?)歴史解釈に、複数性・多様性を持ち込もう−−客観的な「リアリティ」の領域には入らないものの、当事者には現実的に受け止められた現象をも、歴史記述として認めよう−−というわけだ。

というわけで、上の「海の上を歩く」イエスの話は文化的事象として十分に「ありえた」話だったとされるのだが、逆にイエスが読み書きできたかという問いに対しては、同じ方法論から逆の結論が得られると同論文は主張する。当時のガリラヤでは識字は人々の関心を呼ぶものではなく、識字教育が公共の場で行われていたことを示す証拠もほぼ皆無だといい、そもそも識字の意味も現代的な意味とは異なっていた。当時の典型的な「識字」とは、何かの暗唱が出来ることと、自身の名前を綴ることがせいぜいだったという。そうした文化的現実からすれば、イエスの識字(ルカ伝に記述があったりするわけだけど)についても、現代的な意味での読み書きとはまるで次元の異なる話だったろうという。文化的にもっともらしい事象ということで言うなら、イエスは現代人が考えるような「読み書き」とは無縁だったに違いない、と。文献や史料が欠如している場合の歴史の再構成は当然ながら難しい問題だ。様々な側面から最適解を類推しようとするのが基本となるのだろうけれど、もちろんその最適解が史実の代わりになるわけではなく、史実からずれる可能性も当然あるわけで、そうした点について批判・検証するメタクリティークのようなものも、やはり必要になってくるはず。そのあたり、現在の研究の最前線ではどうなっているのかが気にかかったり……。

wikipedia (en)より、19世紀の画家イヴァン・アイヴァゾフスキーによる「イエスの水上歩行」

8世紀の算術

修道院文化における科学的知見の発展に言及するような場合、一般に12世紀以降が大きく取り上げられ、それ以前は今なおときにダークエイジ的な扱いになってしまうことが散見されるけれど、8世紀くらいにすでに優れた科学的知見の拡がりがあったという話を、尊者ベーダが行っていた算術計算を例として、リアム・ベニソン「中世初期の科学:ベーダの事例」(Liam Benison, Early medieval science: the evidence of Bede, Endeavour, vol.24, 2000)がまとめている。ベーダの著作はこれまた多岐に及ぶというが、ここで取り上げられているのは725年頃に書かれた『時間の計算について(De temporum ratione)』という書。当時の最も重要な計算問題は移動祝日であるイースターの日にちの確定だった。で、ベーダがいた北イングランドのノーサンブリアでは、84年周期のケルト方式、19年周期のヴィクトリウス方式とディオニュシオス方式の三つが乱立していて、ベーダはディオニュシウス方式を擁護していたという。ベーダはアウグスティヌスが唱える文献比較を方法論として、キリスト教関連以外の学術をも精力的に研究していたらしい。けれどもこの論考の中で最も興味深いトピックは、ベーダの上の書が、潮汐と月の関係について初めて言及していたという点だ。月の出と入りが毎日48分づつずれていることを指摘し(同書でベーダは閏年の説明も行っている)、潮汐もほぼ同じずれをもっていることを明かしているという(さらに、場所によって満潮・干潮時間が少しずつずれていることも指摘している)。ベーダがこれをどのようにして見出したかは定かではないというが、実測した可能性もあるとしつつ、その背景には英国に渡ったゲルマン民族が有していた広範な伝統的知識があったのではないかと同論考は考えている。異教的な知に対して開かれたスタンスが垣間見られる、ということか……。

同論考も指摘しているけれど、それにしても驚異的なのは、まだゼロを含むアラビア数字が流入していない時分において、ベーダが複雑な計算をこなしていること。ローマ数字は計算には向かず、ギリシアの数詞も実用的とは言いがたい。むしろベーダが用いていたのは指を用いた計算方法ではないかという。ベーダのその著書には実に多くの計算例が記載されているといい、しかも同書は広く流布して盛んに読まれたといわれ、人々が新しい記数法を求めるきっかけになったのかもしれないと論考は指摘している。

wikipedia (en)より、ベーダにもとづく指による記数法。

11世紀の出版事情

久々に文献学的な論考を読んだのだけれど、これが滅法面白かった(笑)。リチャード・シャープ「著者としてのアンセルムス:11世紀後半における出版」(Richard Sharpe, Anselm as Author: Publishing in the Late Eleventh Century, Journal of Medieval Latin, vol.19, 2009)というもの。中世の神学者らが著書をどのように作り、どのように流通させていたのかは、具体像とか細かい点になると案外わかっていなかったりするらしいのだけれど、アンセルムスは例外的に書簡の形で著作についての言及が多々あり、本人がどのように出版(publishing)を目論んでいたのかが比較的よく追える数少ない例の一つなのだという。著作の成立年代なども含めてそうした動きを再構成しようというのがこの論考。当時は一般にまず薄い小冊子的な文献(20葉とかそのぐらいの)が出回りやすかったようで、アンセルムスも初期はそういう短い説教集などを匿名で出していた。最初に名前入りで出したのは『モノロギオン』で、これはタイトルを付す前に先達のランフランクスに出版許可を請うた上で、序文を付して名前を明かした。「出版」の手順はというと、現代の研究者が抜刷りを送るのとあまり変わらない。著作が完成するといくつかの写本を作り、それを知己などに送付する。やがて評判が立つと写本を請われるようにもなり、そちらにも送付する。こうしてかなりの量が流通に投入されていたらしい。徐々に著者として名が知られるようになると、そこから先は出版というよりも著者の手を離れた流布(dissemination)の段階になり、写本の受け取り手が独自に二次・三次的に写本を作り流通させていく。当然ながら筆写の誤りも混入してくるし、体裁その他が大きく変わってしまったりもする。

アンセルムスは著者として認められてからというもの、テキストが正確に再現されて読者に伝わることにかなり神経を使っていたらしく、勝手な流布に対してはひどく警戒感を抱いていたようだ。筆写するなら序文を落とすなとか、章の始まり部分も再現しろとか、筆写の誤りを直せとか、書簡の中でいろいろ述べている。どういう人を読者として想定するのかについても、かなり明確なビジョンをもっていたようだ。それぞれの著書の正式なタイトルについてもいろいろ気をつかっていたようで、タイトルの決定は著作の中身が完成した一番最後に行われていたという。一度完成したものの手直しはあまりしていないようだが、誤りを含む写本が流通していることには気を揉んでいる。論文では、そうした誤りは、写字生を多数動員して一度に複数の写本を作るという一種の量産体制から生じたものだろうと論じている。こうして見ると、アンセルムスは出版に関する限り、なにやらひどく「近代的」だということがわかる(笑)。

wikipedia (en) より12世紀の挿絵。聖アンセルムスの瞑想

魔術師のジェンダー化問題

近代初期を中心に盛んになった魔女裁判。ちょうどこちらのブログ「オシテオサレテ」でも取り上げられていたのだけれど、魔術・魔術師の糾弾として始まったはずの教会の動きがいかにして「魔女」裁判になったのかはとても興味あるところ。というわけで、先に別方面で紹介されていた論考を読んでみた。マチュー・アレクサンダー・メビウス「魔術についての聖職者の理解と魔女のステレオタイプ」というもの(Mathew Alexander Moebius, Clerical Conceptions of Magic and the Stereotype of the Female Witch, Oshkosh Scholar, vol.6, 2011)で、魔術師のジェンダー化問題について様々な文献をプロットし、それがどう導かれたか描こうとする野心的な(?)一編。さっそく内容をまとめよう。もともと広義の魔術・妖術は古代から民衆の間に伝えられていたわけだけれど(良き霊が介在するとされていた)、当然ながらキリスト教はこれを全面的に批判した。その代表格がアウグスティヌスで、そうした魔術の一切はもとより悪魔的だと一蹴してみせた。これが長い伝統として受け継がれていき、たとえば10世紀初めごろに書かれた重要文献とされる『司教法令集(Canon Episicopi)』でもその路線が踏襲され、基本的に異教への信仰(女神ディアナの夜の行軍とか)全体が誤りとして糾弾されていく。

で、12世紀頃からのヘブライ・アラビア方面の文献の流入で状況は大きく動いていく。つまり、学僧たちがそうした異教の術、すなわち狭義の魔術を積極的に学び始める。これを受けて、教会当局の側は警戒感を強め、やがて魔術全体を糾弾するようになる。学僧たちの狭義の魔術にとどまらず、『司教法令集』の頃から見過ごされるようになっていた広義の魔術(民衆レベルでの術)にまで、再度批判の矛先が向けられるようになる。するとここで大きな問題が持ち上がる。民衆レベルの術をも糾弾するには、学僧たちが難しい書を読んで会得する術と同等の悪魔的な力が、無学の民衆のレベルでも会得されるような、なんらかの合理的説明がなされなければマズいのではないか、というわけだ。そうして練り上げられたのが、夜の集会ことサバトだ、と同論文は指摘する。

このサバトという装置を<考案>することによって、魔術は学識層と切り離されることになり、魔術の使い手も、それまでの男性から女性にまで拡大されることになる。サバト概念が定着するのは15世紀半ばなのだけれど、そこにいたるにはやはり様々な事象の積み重ねがあっただろうとされる。とくに重要なのは、12世紀のワルド派、13世紀のフラティチェッリなどの異教・異端派の糾弾を通じて魔術的な要素のステレオタイプが出来上がり、それが15世紀初めごろまでに魔女の「神話」に埋め込まれていったのではないか、という点。で、15世紀前半になると、そうしたサバトについての詳細が記された書物、たとえばドイツの神学者(ドミニコ会士)ヨハネス・ニデルの著書などがかなり広く流布し、地域差はあるものの、女神ディアナなどに代表される女性のイメジャリー(もちろん教会の女性蔑視的な要素も関係する)とそうした異教的要素との結びつきが形成されていく上で一役買ったらしいという。こうして15世紀後半の有名な『魔女への鉄槌』ともなると、悪しき魔術を用いる者はほぼすべて女性ということになってしまう……。以上が全体の流れだが、論文のキーとなるのはやはり上のサバトの成立のくだり。もちろんこの場合に問題になっているのは、実際にサバトがあったかとか、中身はどういうものだったかとかではなく、あくまで教会が理屈を通すために作り上げた戦略的像としてのサバトなのだけれど、論文の要の部分でありながらそのあたりの議論・説明が薄いのがちょっと残念かも。でもこれは面白そうな部分ではあるし、今後の研究にも期待したいところ。

wikipedia (jp) より、魔女の飛行図。マルタン・ル・フラン(15世紀の詩人)『女性の擁護者』の挿絵

【シリーズ:書きと読み 1】プラトンの文字論再訪

あまりにストレートなタイトルだったので思わず読んでしまった(笑)のが、ジャン=リュック・ソレール「なぜプラトンは書いたのか」(Jean-Luc Solère, Why Did Plato Write?, Orality, Literacy, and Colonialism in Antiquity, ed. Johnathan A. Draper, Society of Biblical Literature, 2004)という論考。『パイドロス』で文字の起源について触れ(エジプトのトート神)、それが人間の記憶を弱めるとしていたのに、なぜプラトンは敢えて著作を残したのか、そもそもアカデメイアの教義の核心部分は口頭でしか伝えられなかったというでないか……というかなり古くからの素朴な疑問に、論文著者はまずマルセル・デティエンヌの論を紹介しながら接近する。それによると、当時のギリシア世界では書の起源は二人の神話上の人物、つまりパラメデスとオルフェウスによって体現されていたという。前者は算術などの技法の考案者ともされ、トート神と同一に考えられていた。で、デティエンヌによると、トート神(=パラメデス)の文字の発明は算術・幾何学・天文学など他の技法に必要とされ、ゆえにそれらと一体のものとして正当化されるべきものであったにもかかわらず、それが生きた記憶に対立するものとして位置づけられたのは、タムス王に提示する際の仕方がまずかったからなのだそうだ。

一方のオルフェウスは、話された言葉のそのままの転写を体現するのだという。このほとんど自動書記のような文字の使用をたとえばパイドロスは受け継いでいて、文字化された他者の言動を批判的に吟味することなく受け入れる。それがソクラテスの批判を受けることになる。というわけでこの議論ではなによりもまず、プラトンが批判するのはパラメデス的な諸技芸に関わる文字の使用ではなく、オルフェウス的な自動書記的・転写的な文字の使用だということになる。論文はその後で、プラトンの書簡集をもとに、書かれた文書が読み手にとっての試験的な意味合いがあることや、プラトンにおける書く際のルールなどの話に入っていくのだけれど、興味深いのは末尾部分ではるか後世のプロクロスによる『神学綱要』を取り上げている点。『神学綱要』はエウクレイデスの『原論』とのアナロジーで綴られているとされ、公理からの数学的な推論をベースに書かれているのだけれど、その意味でこれはプラトン推奨の書き方(つまり対話的な質問と回答による議論)の対極にあるとも言える。これについて論文著者は、少数の読者にのみ分かる(そのこと自体はプラトンの教義の伝統に則している)別様の書き方を、プロクロスは数学的メソッドの中に新たに見出したのだろうと考えている。それを論証しうる事例としてボエティウスが挙げられたりもしているのだけれど、うーん、このあたり、ちょっと確認してみないと。

アントニオ・カノーヴァ(18から19世紀にかけてのイタリアの彫刻家)によるパラメデス像。ヴィラ・カルロッタ(コモ湖畔)所蔵。