キリスト生誕論の数々

今年も25日前後には、クリスマスに関連する論考が各種紹介されていた。やはりというか、日付設定に関するものが多い印象なのだけれど、旧来の異教の祭りとの関連(「無敵の太陽(sol invictus)」崇拝、ミトラ教信仰、サトゥルナリア祭など)の指摘に加えて、創造と救済の重要な出来事は日時が一致するという「同一日付説」(ユダヤ起源だという)を指摘するものが目につく。たとえばアンドリュー・マクゴアン「クリスマスの日付決定」(Andrew McGowan, Dating Christmas, Originally published as “How December 25th Became Christmas,” Bible Review Vol.18:6, 2002)では、もともと1月6日とされていた生誕の日を12月25日に移したとする12世紀の写本の記述が紹介されているほか、1月6日を生誕の日とする伝統に言及している著者としてアレクサンドリアのクレメンスが挙げられている。で、同著者は、この移動の背景にキリストの死亡日をめぐる問題があるとしている。テルトゥリアヌス(160〜225ごろ)はキリストが死んだ年の過越の祭り(Nisanの月の14日)を3月25日と計算し、それがキリストの亡くなった日だろうと推測した。一方で東方教会は、Nisanの月の14日ではなく、アルテミシオス(ギリシア暦の最初の春の月)の14日、すなわち太陽暦での4月6日を採用した。これに、受胎と死が同日にあったとする2世紀ごろのキリスト教徒の考え方(上の同一日時説)が加わり、キリストの出生はそれぞれの9ヵ月後とされ、東方教会では1月6日、西方教会では12月25日という形になった……。またジョゼフ・ケリーのアーティクル「クリスマスの誕生」(Joseph F. Kelly, The Birth of Christmas, Center for Chrsitian Ethics, Baylor University, 2011)では、やはり同時代のセクストゥス・ユリウス・アフリカヌス(160〜240ごろ)が、キリストの受胎は3月25日だったとする説を唱えたことが示されている。とはいえユリウスは影響力のある書き手ではなかったといい、そこに異教の太陽神崇拝への対応という政治的配慮が介在した可能性が示唆されている。いずれにしても4世紀には、12月25日を生誕日とすることがローマ教会では定着しているという。

……とまあ、これらもなかなか面白いのだけれど、そんな中、ちょっと毛色の変わった論考が、スティーブン・シューメイカー「クルアーンの中のクリスマス」(Stephen J. Shoemaker, Christmas in the Qura ̄n: The Qura ̄nic Account of Jesus’ Nativity and PalestinianLocal Tradition, Jerusalem Studies in Arabic and Islam, Jan 1, 2003)。クルアーン(コーラン)に描かれたキリスト生誕場面(19マルヤム、22〜27)では、ナツメヤシの木に寄りかかり陣痛に苦しむマリアに、腹の中の子(イエス)が慰め、ナツメヤシの実を食するよう諭すというものなのだけれど、これが実は聖書の外典の、正典とは別のキリスト生誕譚の伝承にもとづいていることを、この論考は示そうとしている。ここで言う外典とは『偽マタイ伝』と『ヤコブ伝』で、とくに後者の2世紀ごろの版では、キリストの誕生はベツレヘムに到着する前、砂漠の中でだったとされているのだとか。ナツメヤシを食する話は『偽マタイ伝』においてエジプト逃避のエピソードとして描かれているという。論文著者によると、これら二つの伝承が混じり合って、クルアーンの記述に影響していたのではないかという。エジプト逃避から生誕へと、伝承のどこかの時点でエピソードが移しかえられた可能性があるというものの、文献学的な証拠はまだ見つかっていないのだとか。

で、興味深いのは、ベツレヘムとエルサレムの中間地点で1997年の冬に発掘されたというカティスマの聖母教会が、もとは生誕教会として建造されていたのではないかという話だ。6世紀ごろのテオドシウスの巡礼の手引き書が、この教会が聖母マリアの座であったことを示唆しているといい、また420年から440年ごろの礼拝を伝えるアルメニアの聖句集に、8月の15日にベツレヘムとエルサレムの中間地点で祝う聖母の祝日についての言及があるのだそうだ。そうした聖句集などの最近の研究から、8月15日の祝日がもとは生誕の祝いであったことが示されているのだそうで、ではなぜ8月なのかといった問題はあるものの(そのあたりは推測の域を出ない複雑な議論になっているみたいだが)、いずれにしても6世紀ごろには8月15日は聖母マリアの被昇天の祝日として定着したという。(これまた推測の域を出ないけれど)そうした動きとパラレルに、出産のためにナツメヤシの木のもとで休む聖母という伝承が、エジプト逃避の最中の伝承へとすげ替えられた可能性も示唆されている。うーむ、このあたり、今後何かまた新たな資料や証拠が出てくるかもしれないし、大いに興味を沸かせてくれるところではある。

聖人伝と政治性

年末だけれど、相変わらず雑多な論文読み(苦笑)。今回はスーザン・J・ヒューバート「聖人伝の神学的・論争的利用:ボナヴェントゥラの聖フランチェスコ大伝」(Susan J. Hubert, Theological and Polemical Uses of Hagiography: A Consideration of Bonaventure’s Legenda Major of St. Francis, Comitatus, Vol. 29, 1998)という論考を読む。ボナヴェントゥラが著した『聖フランチェスコ大伝』(PDFがこちらに)を、フランシスコ会派内部の政治的・神学思想な文脈に置き直そうという一編で、結構面白い。よく知られているように、当時のフランシスコ会派は聖霊派とコンヴェンツァル派(修道制派)とに分かれて、ある種の内部抗争を繰り広げていた。いわば元の清貧思想を取り戻そうとする一派と、組織化を重視する一派との対立だったわけだけれど、そんな中で、会派のいわば宗主だったアッシジの聖フランチェスコの伝記は、いきおい政治的な色合いを帯びたものとなっていたという。ボナヴェントゥラの著より以前には、チェラーノのトマスによる三種類の伝記と、スペイエルのユリアヌスによるその短縮版があった。前者のうち『第一伝記』(英雄伝の一般的なスタイルに合致していた)などは一時会派の公式な宗主伝とされていた。より独自性を強めたという『第二伝記』は聖霊派の議論を支持していて、実際に聖霊派によるコンヴェンツァル派の批判に使われたりもしていたらしいのだけれど、結局チェラーノのトマスの伝記は年代記的な不備があったり、礼拝に使うには不向きだったりしたことから、ユリアヌスの短縮版が作られることになった。けれども省略部分が多く、結果的にまた別の聖フランチェスコ像が導かれることになってしまう(政治的には両派に対して中立的)。

それらを受ける形で、ボナヴェントゥラの『大伝』が登場する。そちらは先行する伝記を参考に書かれてはいるものの、政治的にはコンヴェンツァル派寄りで、またフランチェスコの生涯を神秘神学的に構造化して示している点でそれまでの伝記とは一線を画しているのだという。神秘神学的構造化というのは要するに、ボナヴェントゥラが別の著書『三つの道』で示した、神秘主義的な上昇の三段階(浄化、天啓、合一)を、聖人の生涯に当てはめているということだという。『大伝』は従来、ボナヴェントゥラが会派の一体性を回復するために記したものとされてきたというのだけれど、実はそこにはボナヴェントゥラ自身のアレンジを経て、神秘神学的な思想が反映されている、というのが論文著者の議論。なるほど。でも、ならば神秘神学的構造化そのものの政治性といった議論にまで、もう一歩突き進んでもらいたい気もしないでもないのだが(無いものねだりか……笑)。

モナドが見る夢

これは結構面白いものを見せてもらった。東大駒場で昨日まで開催されていたパネル展示「ムネモシュネ・アトラス展」。アビ・ヴァールブルクが晩年に取り組んだ図像のクリップによる一大パノラマ(未完)を、現存する写真を引き延ばす形で再現しようという試みだ。春ごろにヴァールブルク著作集の別巻で出た解説本に関連してのイベントらしい。白黒写真での展示なのだけれど、黒の背景に浮かび上がる無数の画像のクリップは、これだけデカイと、すでにしてある種の没入感を促してくる気がする……ま、会場全体が明るいせいか、「没入」とまではいかず、あくまで兆し程度にとどまりはするのだけれど(笑)。いずれにしてもそれは、記憶の内部に浮かび上がる一種の内面的クンストカマー/ヴンダーカマー、という感じだ。

ちょうどホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』(原研二訳、産業図書)を読んでいたのだけれど(同じ訳者で『芸術家ガリレオ・ガリレイ−−月・太陽・手』が刊行されたばかり。そちらも楽しみだ)、これの冒頭すぐのところに(p.15)、ライプニッツにおける精神的実体としてのモナド(あらゆる<私>)は肉体と魂の現象的な一体性からすると「窓を持っている」、というフッサールの発言(遺稿)と、それを追認するかのように、モナドは「時代の選択的欲望との接触を果たす」とするヴァールブルクの発言が紹介されている。なるほど、そこからするとヴァールブルクのアトラスは、モナドが見る夢のようなものなのかもしれない……。同書はライプニッツが夢想した「自然と人工の劇場」を、クンストカマーやそこで扱われる展示物、劇場空間など、同時代的な様々な着想源から描き出そうとしているのだけれど、そのような「自然と人工の劇場」の上位概念として、ライプニッツが「普遍アトラス」を考えていたことも示されている。で、これが図版のアーカイブ化初の普遍システムだったといい(p.185)、そこでのリストアップを貫く考え方は「図像は見えないものを見えるようにすることができるという定式」(p.189)なのだという。お〜、これぞまさしくムネモシュネ・アトラスと通底・照応する考え方。ライプニッツのアトラスが近代的な諸々の「遊び」を経てたどりついた末の、ある種の内面化ないしは純化としてヴァールブルクのアトラス、というふうに見立てることもできるかもしれない。ついでながらこういうアトラスは、見たり解釈するだけでなく、自前で作ってみたらまた面白そうでもある(実際、展示でもその後のシンポジウムの発表でも、そうした実作があった)。

教皇座のリアルポリティクス

バラクロウ『中世教皇史』(藤崎衛訳、八坂書房)を読む。ローマ時代から教会大シスマまでの教皇座の歩みを、主に抗争や駆け引きなどのリアルポリティクスとして描き出そうとする一冊。全体を見る俯瞰的な視点と、やや細かな記述との微妙なバランス感覚があって、全体としてなかなか読ませる。原書は1968年刊行だけれど、今でもよく目にするような一部の誤解を正していたりもし、今なおとても新鮮に映る。教皇権の確立期にあたるカロリンガ朝との絡みについての比重が高い気がするけれど、個人的にはその後の改革期にいたる時期のほうが面白かったりする(笑)。たとえばこんな話。教皇庁を表す「クリア」を公式の呼称として用いた最初の教皇はウルバヌス二世(在位1088〜1099)。教皇庁は行政と司法の両方を兼ね備えた組織として確立され、また枢機卿団も顧問団として整備され、教会会議の職務を引き継ぐ。面白いのは、そうした制度的な整備に際して、世俗の統治をモデルとしていたこと。教皇礼拝堂ですら、世俗の宮廷の礼拝堂を模倣したものだという。財政の整備もクリュニー修道院の方式に倣っているという。かくして教皇庁は規模の大きな行政組織となっていくのだが(12世紀半ばにグラティアヌス教令集がまとめられ、その下支えになっている)、一方の地方も急速にその権威を当てにするようになる。聖職禄授与では地方の教会人側が主導権を握るなど(ペトルス・ロンバルドゥスなどもそういう利に与った一人なのだという)、もちつもたれるの関係になっていくというわけだ。やがて教皇庁の側もそうした管理の業務に追われ、実務でがんじがらめになっていく。もはや霊的な指導どころじゃなくなってしまう。そんな状況への反動から、疎外された人々の宗教心が向かう先として、異端や托鉢修道会の運動が登場してくる。けれどもこの托鉢修道会などは、教皇座の側がそれを巧みに政策の道具として取り込んでいく……。シスマのあたりも、逆に今度はいろいろなタガが緩んでいく過程となり、とても人間臭くて面白いのだけれど、とりあえずここでは割愛。いずれにしても、個別の論文を読むときなどの参照本としても有益な感じだ。

キケロ雄弁術と聖女伝

キケロは12世紀ごろにおいても、ソールズベリーのジョンとかいろいろな人々に影響を及ぼし続けているとされ、それはときに「キケロ主義」として括れたりもするけれど、思想面ではなかなか具体的な事例としては析出できなかったりもする。ならばもっとレトリカルな面、文章レベルでの影響関係はどうか、といった点が気になるけれど、まさにそれとの関連、キケロの雄弁術(レトリック)との絡みで、俗語で書かれた中世のいくつかの聖人伝を取り上げてみせた論文が紹介されていた。さっそくざっと目を通してみる。キャスリン・ヒル・マッキンレー「キケロ的雄弁術と中世フランスの聖人伝」(Kathryn Hill McKinley, Ciceronian rhetoric and the art of medieval French hagiography, PhD Dissertation, University of Maryland, 2007)というもの。具体的には、12世紀〜13世紀ごろに北部フランス語方言(アングロ・ノルマン語など)で記された、女性の殉教者を描いた聖人伝をいくつか取り上げ(バーキングのクレメンスによる聖カタリナ伝、逸名作者による聖アグネス伝、聖バルバラ伝−−いずれも4世紀の聖女たちだ−−、さらにベギン修道会関連でジャック・ド・ヴィトリによるオワニーのマリー伝、ポルスレのフィリピーヌによる聖ドゥスリーヌ伝)、それらにキケロの雄弁術の伝統がどう息づいているかを論じている。なるほど、聖女たちは殉教に先だって裁判にかけられたりするわけだけれど、そこで彼女らは「雄弁家」として振るまい、まさしくキケロ的な雄弁を見事にふるってみせる。つまりそこには、聖人伝作者が学んだ雄弁術の素養が示されているとともに、登場人物である聖女たちみずからがそうした雄弁術を体現し、二重に伝統に与しているというわけだ。しかもそれらが世俗語で書かれていることも見逃せない。つまりは世俗語が古典的伝統を取り込む契機になっているほか、後にはその伝統が独自の散文形式を生み出す母体となるのだ、と。

ちなみに雄弁術がらみで当時最も影響力があったのは、キケロの『発見について(De inventione)』と、偽キケロの『ヘレンニウスに与える修辞学書(Rhetorica ad Herennium)』だったという。前者に関してはシャルトルのティエリーが著した註解も有名なのだとか。

15世紀のTübinger Hausbuchから、自由七科の図。修辞学(レトリカ)は一番右端
15世紀のtubinger hausbuchから、自由七科の図。修辞学(レトリカ)は一番右端