ビュリダンの霊魂論

最近新装版で出た根占献一ほか著『イタリア・ルネサンスの霊魂論』(三元社、1995-2013)は、フィチーノ、ピコ、ポンポナッツィ、ジョルダーノの霊魂論が端的にまとめられていてなかなかの良書だが、改めて眺めてみると、ポンポナッツィの章(伊藤和行)で霊魂可滅論の系譜が見取り図的に示されている(以前はこのあたりはスルーしていた……なかなか本というのはちゃんと読めていないものだなあ)。古くはアフロディシアスのアレクサンドロスからだけれど(ルネサンス期に本格的に再発見された)、アヴェロエス思想を経て14世に飛び、ジャン・ビュリダン、パルマのブラシウス、さらにその後のガエターノ・ダ・ダティエネ、その後継者でポンポナッツィの教師だというニコレット・ヴェルニアの名前が挙げられている。個人的にはこのところブラシウスがかなり気になって、テキストを眺めたりもしているのだけれど、ここへきてビュリダンへの関心も俄然再浮上してきた(笑)。同書によるとビュリダンは、魂の可滅性(と世界の永続性)はあくまで哲学的な学説であって、感覚的経験にもとづく以上その結果は蓋然的なものでしかないと述べているとされる。

というわけで、ブノワ・パタール編『ジャン・ビュリダンの霊魂論』(Benoît Patar(éd), Le traité de l’âme de Jean Buridan, Éditions de I.S.P, 1991)を入手してみた。まだ巻頭の解説(それだけで200ページもある)をちらちらと見てみただけだけれど、それによると、人間の魂が、天空を動かしているような不変・不滅の霊魂の一部をなしているのかどうかという当時盛んに議論されていた問題について、ビュリダンは微妙な立ち位置を示しつつ不滅論を肯定しているようだ。「知的魂(人間の)が質料に由来していないからといって、それが過去において永劫的に存在したことにはならない」と述べて、魂を永劫的な存在ではなく神の創造に結びついているとする一方で、生成によって形作られる存在と、神の創造によって存在するようになったもの(すなわち魂)との区別を設け、前者における消滅とは質料に帰することだが、後者の場合、つまり魂においてそれを成立させる条件がなくなる場合(神がそう意志した場合)には、それは消失(無に帰すること)を意味するとし、「あるものが存在しなくなりうる事実をもって、それが自然本性的に不滅ではないということにはならない」と、自然本性的な魂の不滅を肯定する立場を述べている(らしい)。

上の蓋然性云々の話は、魂が過去において永劫から存在したのではない(つまりどこかの時点で創造された)こと、そうした真理は理性(的議論)には到達不可能であることを認めるという意味で言われている。うーむ、ビュリダンのテキストの具体的な部分を見ないと確定的なことは言えないが、ブラシウスの蓋然性の議論に繋がっていくようにはちょっと見えないのだが……(?)。とりあえず、引用されている箇所を訳出しておこう。「かかる結論は人間の理性によってよりも信仰によって保持されなければならない。それは論証できるものではなく、カトリック信仰によって定義されるものだと私は考える。そう述べるのは、私たちの知性は過去から永続するものの一部かもしくは否かだからだ。否と言われるならば、それは創造されたか、もしくは質料の潜勢から引き出されたかのいずれかである」。

ペトルス・ダミアニの実像は?

つい最近文庫として復刊した堀米庸三『正統と異端−−ヨーロッパ精神の底流』(中公文庫)を読んで、久々にグレゴリウス改革がらみの話、とりわけペトルス・ダミアニの秘蹟論争周りについての話を堪能した。初版は1964年刊(の新書)だというが、今なお実に読ませる一冊。個人的に、ペトルスについては瀬戸一夫『時間の政治史』(岩波書店、2001)などでその重要性を聞き知っていただけという程度でしかないのだが、改めてその人物像も興味深く思えてくる。ペトルスは幼少期の孤児としての体験などから、世俗世界に対するある種の憎しみを抱いている、などとも言われ、修道院改革に邁進するその姿を、いわばある種の厳格主義・理想主義者のようなイメージで描かれたりもするようなのだけれど、『正統と異端』でも、フンベルトゥス枢機卿との叙任論争において、伝統遵守をつらぬく「最右翼」として描かれている。

ペトルスとフンベルトゥスとの見解が分かれるのは、聖職売買(シモニア)によって聖職者になった者(シモニスト)から無償で(シモニアなしで)聖職を受けたとき(叙品されたとき)、それはどうなるのかという問題をめぐってだったという。ペトルスは、「不法だが有効」とする正統教義を継承する形で、「異端者によって洗礼されたものが再洗礼されるべきないことと同様に、シモニストによって叙任された者が位を追われたり再叙品されたりする必要もない」といった論を展開する。一方のフンベルトゥスは、シモニストはシモニストであるがゆえに教会の外にある者であり、ゆえにシモニストの秘蹟は無効であるとし、さらに正統教義との整合性を図るためにかなり「特殊な論法」を用い、教会外叙品などというものはそもそもないとして、再叙品の禁止という教義を迂回してみせる。これはちょうど、棄教・背教した者の秘蹟は無効で、再洗礼が必要と主張し異端とされたドナトゥス派(ドナティスト)の教義に重なり合う立場(ゆえにフンベルトゥスは最左翼とされている)で、対するペトルスは、ドナトゥス派に反駁を加えたアウグスティヌスの立場に重なり合う。ペトルスはシモニストを教会外の者とは考えておらず、異端とも見なしていないという(当時の基準からすれば、異端とはマニ教などを指していた)。「教会内執行」であれば、秘蹟の執行は有効だと考えているというのだ。とはいえ、その場合の「教会」というのは抽象的な意味で、カトリック信仰ほどの意味でしかないと同書は記している。それはどこか、厳格主義・理想主義的なペトルスのイメージに通底する読みだとも言えそうではある(かな?)

ところが、より最近ものだけれど、そうしたイメージと少し違った描き方をするものも出ているようだ。たとえばエンマ・ナイト「叙任論争とは何をめぐる論争だったのか」という論文(Emma Knight, What was the Investiture Controversy a controversy about ?, Durham University, Department o f Politics, 2005)では、ペトルスはより実利的・現実的な対応をしたのだという解釈を示している。当時のシモニアはあまりに多く、一方でそれまでシモニアを封じる対策がほとんど取られてこなかったという事情もあり、ペトルスは、再叙品の選択は非現実的で、また教会にとって害の方が大きいと判断したというのだ。さもないと司教が行う叙品そのものに支障をきたすようになってしまうし、叙品された聖職者も足りなくなってしまうからだ。さらに同論文は、ペトルスの著作は世俗の権力の役割や重要性を思慮深く省察しているとも述べている。うーん、理想を求める厳格主義者か、リアルポリティクスを重んじる実利派か。ペトルスの評価はここへきてなにやら両義的なものになってしまう……(?)。

デカルト医学?

デカルトあたりになると、やはり研究者の層が厚いこともあって、いろいろと面白い論考が転がっていそうな気がする。そういったものの一つ、PDFで公開されている山田弘明「デカルトと医学」(名古屋大学文学部研究論集、vol.50, 2004)を読んでみる。デカルトと医学の関わりを、その生涯にわたる様々な著作・書簡・ノートなどから拾い上げ、再構築してみせるという主旨の興味深い論考。そもそもデカルトはポワチエ大学で法律と同時に医学の基礎を学んでいた可能性があるのだとか。最初期の著作『精神指導の規則』でも、伝統的な医学についての言及があるという(体液の話や、黄疸と憂鬱質についての話など。後者はモンテーニュ経由かもしくは古代の医学書から直接取得した知識だろうというが、どちらであるかの特定はなされていないようだ)。またアムステルダム時代には解剖学にも関心を示しているという。とはいえ、デカルトは1630年ごろまでには既存のものではない医学思想を追求しようとしており、アリストテレス以来の人間=ミクロコスモスというモデルを斥けているのだという。

その流れで興味深いのは生命原理としての「火」(光なき火)というテーマだ。心臓を炉ととらえ、その中に生命の炎は灯されると言い、さらにその火は微粒子の運動を意味するとされる。デカルトの「機械論」はまさにそうした粒子の物質的運動から全体を見るというものであるわけだけれど、このあたりは確かにどこか、普通は断絶した当のものとして挙げられるアリストテレスの、ある種の解釈の発展形から導かれているような印象も受ける。一方で精神に関しては、デカルトはそれを別次元の実体として捉え、「身体とともに滅するわけではない」みたいなことを述べているし、アリストテレスの影は想像以上に大きい印象なのだが……もちろん、そのあたりの整理もどこかに転がっていそうな気はするけれど……。

またそれとは別に、この論考では、1640年代においてもデカルトが医学研究の同時代的成果に注意を払っていることや、デカルト形而上学と解剖学の間にある種の「相互浸透」が見出されることなども指摘している。この後者は興味深い指摘だ。医学的知見は形而上学の支えになっているといい、一方で形而上学は一つの世界観として医学思想を基礎づけてもいるという。デカルトの伝記にある、肺炎をリューマチと誤診して亡くなったというエピソードをもって、デカルトは医学に関してはまるで素人だという話もそれなりに聞いたりするけれど、実はその学術的な歩みにおいて医学はかなり重要な部分を担っていたという議論こそが、同論文のまさに肝の部分をなしている。で、それが文献的・実証的なアプローチで展開される様子は、なんとも重厚な読み応えだ。

東西交流とモンゴル帝国

ポール・D・ブエル「ペルシアその他西欧の医学的知識はいかに東へ、また中国の医学的知識はいかに西へ移動したか−−ラシッド・アルディーンその他の役割についての概観」(Paul D. Buell, How did Persian and Other Western Medical Knowledge Move East, and Chinese West? A Look at the Role of Rashīd al-Dīn and Others, Asian Medicine, vol.3, 2007)(PDFはこちら)。モンゴルを中心とした14世紀の知の移動についての論考。グローバルな視点で描きだそうとする記述のどこかしら壮大な感じがなんとも圧巻。寡聞にして知らなかったのだけれど、13世紀末から14世紀初頭にかけて、東方の知を西側に伝えた仲介役として、ペルシアの医師だったラシッド・アルディーン・ハマダニ(1247〜1317)という人物がいたのだそうだ。でもこの論考は、そのラシッド・アルディーンについてというよりも、逆に西洋の知は東にどう伝わっていったのかという、いまだあまり潤沢に検証されているとは言いがたいらしい問題にスポットを当てて、モンゴルが果たした役割について概要を示してみせるという主旨の一本。モンゴル帝国は多文化・多言語に開かれていて、イランやアラブ世界の様々な知や文化的事象(軍事・行政から技術、医学などの諸学、料理にいたるまで)を東の中国へと橋渡しすることになったといい(とくに1260〜94のフビライ・ハーンの時代)、宗教も景教ことネストリウス教、中国古来の信仰、さらには王朝の宗教となるチベット仏教などが尊重された。

医学に関して、モンゴル帝国で主流だったのは伝統的な中国系以外の医学(チベット系、そしてなによりもアラブ・イスラム系の医学)だったという。すでにイスラム世界の医学は唐の時代から入っていて、中国系の医学と一体化していたといい、また制度化も進んでいたようで、元の時代にはウイグル系の医師のほか、ペルシアやシリア系の医師なども少数派ながら帝国内で活動していたとされている。論考は「ムスリム医学処方」を意味する『回回藥方』(Huibui yaofang)という書を紹介している。断片的に残るその写本は、ガレノス(者里奴西)やイブン・シーナーの『医学典範』からの引用や言い換えが盛り込まれているのだそうだ。中国においてそうした文献は大変珍しいものなのだとか。もとになっている文献的ソースはペルシアのものが主だろうという(当時はペルシア語が一種の公用語になっていた)。いずれにしても、そうした書の成立についてはさらに多大な検証が必要だとされている。上のラシッド・アルディーンやその周囲の活動が、中国におけるイスラム系医療の制度化に貢献した可能性もあるかもしれないといい、またその『回回藥方』に準じたというか、パラレルな関係にある標準テキストは中東でも西洋にも見られるといい(どれも扱う素材や分野が類似しているらしい)、同時代のグローバルな文化の伝播・交流という壮大な研究領域が開かれていることを末尾で窺わせてもいる。うーむ、このあたりはまったく知らない分野でもあり、おぼろげながら二重・三重の意味で広大な大陸が眼前に拡がっていく思いだ(笑)。

ネパールの14世紀の画家アラニコ(アニジェ)によるフビライ・ハーンの肖像画。台北の国立故宮博物院所蔵
ネパールの13世紀の画家アニコ(またはアニジェ)によるフビライ・ハーンの肖像画。台北の国立故宮博物院所蔵

ペスト禍後の絵画表現

仏語訳でミラード・メイス『ペスト後のフィレンツェ/シエナの絵画』(Millard Meiss, La peinture à Florence et à Sienne après la peste noire: Les arts, la religion, la société au milieu du XIVe siècle, trad. Dominique le Bourg, Hazan, 1994-2013)を読んでいるところ。なぜ仏訳かというと、単純にタイトルだけ見て(翻訳ものだと知らずに)ポチってしまったから(苦笑)。原書は英語で、結構古い(Millard Meiss, Painting in Florence and Siena After the Black Death, Princeton Univ Press, 1951-1979)。でも、内容的には結構面白く、1994年になって改めて仏訳が出たというのも頷ける気がする。社会史と絡めた美術史というスタンスが強く出るのは、ペストの話が前面に出てくる二章以降。まず、ペスト禍後のフレンツェとシエナの社会情勢が概観される。生き延びた人々は直後の短い期間、快楽を追い求めるなどの反動に出、それ自体はすぐに止むものの、そこで培われた反俗的態度は後々まで定着する。一方ではペストを神の罰と見なすような罪悪感、こちらも後々まで敬神・神秘主義として存続する。社会全体では、モノ不足で物価が倍増するなど経済が混乱し、周辺地域から都市部への人口流入も加速する。新しい富裕層が出現し、と同時に貧富の差は拡大する。そんな中、文化的営為・絵画表現にもそれなりの影響が現れないわけにはいかない……。

まず災禍そのものとの関連で、それまであまり絵画では取り上げられていなかったヨブ記のエピソードが描かれるようになるという。また、人口の移動を受けてか、出エジプト記も取り上げられるようになる。主題的な新しさはそれなりに見られ、たとえば死の勝利といった形象や、キリストが怒りの告発者のごとくに描かれたりするようにもなる。一方、罪悪感とその裏返しという形での神秘主義は、清貧兄弟会のような運動をもたらすものの、絵画などは旧来の教会の庇護下にあるため、直接的な影響を及ぼしてはいないという。また都市部の新しい富裕層の間では保守的な嗜好が優勢で、新しいスタイル(主題の選択なども含む)はあまり好意的に受け入れられなかったともいう。なるほど、そのあたり、(著者はそいういうふうには言っていないものの)災禍とその一時的混乱が静まっていく際に、いきおい保守色が強まるという反動のようにも読み取れそうだ。