三世紀のローマ危機

個人的にはローマ史そのものについてはさっぱり詳しくないのだけれど(苦笑)、最近では史実とされたいろいろなことが改めて見直されているらしい。もっとも、それこそが歴史学を眺める醍醐味なのだけれどね……。たとえば3世紀のローマ危機についてもそうで、ルーカス・デ・ブロイス「ローマ帝国の三世紀の危機:近代の神話?」(Lukas de Blois, The crisis of the Third Century A. D. in the Roman Empire: A Modern Myth? The Transformation of Economic Life under the Roman Empire, ed. L. de Blois and J. Rich, Brill, 2002)という論考を最近目にしたのだけれど、これまでの議論の流れを手際よく整理してくれている。ローマ帝政における3世紀の第2、第3四半期が暗い時代だったという話は、主として帝国内の内的な要因に起因するところが大きいとされてきた(軍人の専制へのシフト、軍の勢力拡大、経済問題、宗教・文化的な後退などなど)。一方で、そうした沈鬱な描き方を疑問視する立場もより最近になって現れているらしい。戦禍に見舞われたライン地方やドナウ川中流域では都市や農業の維持が困難になったものの、バルカン半島はそうはなっておらず、3世紀末になってもまだ多くの都市が繁栄を維持できていたといい、要するにローマ帝国全体として見れば多くの地域で従来からの継続性が際立っているという見立てだ。そちらでは考古学的な裏付けなどが証拠として多用されたりもしているらしいが、論文著者はやや懐疑的だ。考古学的史料は物質文化の水準については教えてくれるが、たとえば人口動態などの問題には光を与えない。論文著者はむしろ、そうした伝統的な繁栄の維持の一方に、租税の重圧など社会情勢の緊張の増大があったことを指摘している。その上で、どうやらそうした「危機」の最も大きな要因として、東部・北部の国境での戦禍が関係していることを同論考は示している。

戦争が起きた地域は軍が多大な物資を必要とし、地域の執政官はそれを拒むことができない(さもないと軍そのものが暴徒と化す)。そうして膨大な財が戦争のために費やされていた。執政官らは軍部の言いなりに成り下がる。長引く戦争に追い打ちをかけた要因には疫病もあり、かくして人口減で地域の生産力も低迷し、納税の額も減っていく。さらには碑銘など建造物を作るという習慣も、そうした地域ではままならなくなる。また、税収が減ってくると硬貨の鋳造などに影響が出てくる。硬貨の鋳造は3世紀半ばから地方への分散化が進んでいた。で、結果的に悪貨が出回るようになり、物価も上がっていく……。こうして、内的な要因によるものと考えられていた各種の危機の痕跡は、外的要因、とりわけ戦禍によってもたらされているという解釈も成り立つ。というわけで、同論考はそうした危機が戦禍に曝された地域、戦禍の後背地においてとりわけ顕著だった点を改めて強調している。社会の緊張状態は地域ごとに異なっており、旧来の体制が比較的温存されていた地域もある一方で、全体的には地域の有力者の地位が低下し、軍の略奪者や支配的な官僚が勢力を伸ばすことになった……と。うーむ、ちょっと性急な敷衍だけれど、戦争景気なんてものもまやかしで、長い目で見るなら戦禍は経済や文化をじわじわと腐食していくという、ある意味当然とも言えるテーゼ、という感じでもある。

同論考所収の論集:
The Transformation of Economic Life Under the Roman Empire: Proceedings of the Second Workshop of the International Network Impact of Empire (Roman Empire c. 200 B.C. - A.D. 476) Nottingham, July 4-7, 2001

カタリ派に終末論はなかった?

これまた実に面白い論考。レイモンド・パウエル「カタリ派終末論の問題」(Raymond A. Powell, The Problem of Cathar Apocalypticism, Koinonia, Vol.14 2004)というもの。カタリ派は10世紀後半から12世紀にかけて南フランスと北イタリアを中心に広がった異端思想で、異端審問の専門化やドミニコ会の成立などを促す契機になった思想潮流だったとされるが、実際のところその教義内容にはかなりの幅があるといい、時代や地域で相当に中身は相当異なっているようで、穏健派から強硬論までいろいろな分派があったとされる。たとえば二元論の考え方自体についても諸派で立場は異なっているという。善悪二つの同等の原理(神)の拮抗は永遠に続き、結果的に悪の原理によって創られた物質世界(現世)も、善の原理による精神世界と同様に永劫的に維持されるとする立場(強硬論)がある一方で、現世は悪しき原理の所産だけれども、それは過渡的なものにすぎないとする立場(穏健派)もあったりする。けれどもここで、前者の強硬論の立場を取ると、逆に終末思想はありえないことになってしまう。また後者の立場においても、物質的な世界の過渡性が引き合いに出されるのはあくまで善の原理によって創られた精神的な世界の永劫性を強調するためだったりするともいう。こうして、一般に終末思想的に彩られているとされてきたカタリ派が、実は終末論を内包していないのではないかという新しい(?)仮説が浮上する。

また、そこから興味深いカタリ派のビジョンが見えてくると論文著者は言う。カタリ派諸派にとって地上世界はそれ自体で地獄もしくは煉獄のようなものとされ、そこに送り込まれた罪人(堕天使)らはそこで弁済を果たして天上世界に戻る(誰が戻れるかとか、いつ戻れるかとかは派によって異なるという)。ということは、「最後の審判」に相当する審判は堕天使が地上世界に送られる前にすでに済まされていることになる。未来ではなく、それはすでにして過去になされてしまっているというわけだ。時間のベクトルが反転する。いきおい、聖書に記された終末論的な預言もまた、カタリ派においては未来のことではなく過去にすでに起きたこと、古代にすでに済んでしまったこととして解釈されるという。そんなわけで、これらコスモロジー的なビジョンや聖書解釈のスタンスなどからも、カタリ派においては終末論は発展しえないと論文著者は論じている。うーむ、なるほどこれは面白い着眼点ではある。とはいえ、現世を地獄・煉獄と捉えるスタンスそのものは、終末論的な心性に裏打ちされたビジョンにほかならず、そうした絶望感を背景とした独特な救済論と見ることもできる。未来の預言を過去へと投射しようとする上のビジョンは、まさにそういうもの、終末論的恐怖を放逐しようとするためのものなのではないかしら、と。ならば、その教義が終末論を含んでいないのはある意味当然ということにも……。でもまあ、全体像がわからないので、このあたりをどう判断してよいかは難しいところ。そもそも論文著者も指摘するように、カタリ派の研究は文献的な制約が大きいといい、その全体像もなかなか掴めないものらしい。カタリ派の史料としてよく引き合いに出されるらしい『秘密の晩餐』も、ボゴミール派に由来するものだったりし(ボゴミール派では教義上、終末論はありえるという)、カタリ派そのものの中身をどれだけ反映しているのかはわからないという。

1209年のカルカソンヌでのカタリ派(アルビジョワ派)追放の図。フランス大年代記からの細密画
1209年のカルカソンヌでのカタリ派(アルビジョワ派)追放の図。フランス大年代記からの細密画

ビザンツ期の錬金術

霊魂可滅論は原子論との繋がりが深く、両者が中世盛期に再浮上する背景の一つに、分解と再結合を謳う錬金術の隆盛があったのはほぼ間違いないと思われるのだけれど、可滅論・原子論・錬金術の中世盛期以前の流れがどんなものだったのかはあまりよく見えてこないなあ……と思っているさなか、ビザンツ時代の錬金術について取り上げた論考を目にした。文献学的なアプローチで迫る、ミシェル・メルタン「ビザンツのギリシア・エジプト系錬金術」(Michèle Mertens, Graeco-Egyptian Alchemy in Byzantium, The Occult Sciences in Byzantium, ed. Paul Magdalino & Maria Mavroudi, La Pomme d’or, 2006)というもの。紀元後前後にギリシア・ローマ時代のエジプトで誕生したとされる錬金術が、ビザンツ時代(5世紀以降)にどう伝わっていて、どのように営まれ、どう変遷してきたかといった問題を、文献学的な見地から検討した一編。前半はビザンツ期の三種の写本(錬金術集成)を紹介している。キーとなるのが、錬金術を高めたとされるパノポリスのゾシモス(3世紀)にまつわるテキストの数々。主著『真正なる覚え書き』のほか、短いテキストや断片などが三種の写本に様々におさめられているようだ。

でも同論考が面白いのは後半。そちらではゾシモスの後世への影響について検討している。ゾシモスは当然ながら後世の錬金術師らの参照元として盛んに読まれたらしい。オリュンピオドロス(6世紀)やステファノス(7世紀)ほかが注解書を残している。さらに11世紀ごろまで、一部のゾシモスの著作は入手可能だったことが示唆されるのだという。ゾシモスの著書はまた、厳密な錬金術師らの集団以外でも文化的な影響を与えていたようだ。9世紀の聖職者フォティオス、歴史家ゲルギオス・シュンケロスなどに引用があるといい、錬金術集成は7世紀から11世紀のビザンツ内において、ある程度流通していた可能性が高いという。論文著者によれば、そうした錬金術文献は、ほかの数多くの文献集成を促した、9世紀から10世紀にかけてのより広範な百科全書的な関心の高まりに関係しているという。ほかにも、プロクロスによるプラトンの『国家』注解や、ガザのアエネアスによる『テオフラストス』、ヨアンネス・マララス(6世紀)の『年代記』など、錬金術に言及した錬金術以外の文献もいろいろあるようだ。

同論文を含むおおもとの書籍(残念ながら品切れ中のよう):
The Occult Sciences in Byzantium

The Occult Sciences in Byzantium

錬金術の歴史についての参考文献:
The Secrets of Alchemy (Synthesis)

The Secrets of Alchemy (Synthesis)

中国のイスラム天文学

これは論文ではなくて研究紹介記事なのだけれど、オルトラン・フーバー「中世の中国におけるイスラム系天文学」(Ortrun Huber, Islamic Astronomy in Medieval China, Insight LMU, Issue 2, 2010)という短文を面白く読んだ。これは主にベンノ・ヴァン・ダレンという科学史の研究者が取り組んでいる、中国の元の時代に見られたイスラム天文学の伝播についての研究を紹介したもの。元の時代である1271年に、フビライは北京にイスラム式の天文台(回回司天台)を設置し、イラン出身の天文学者ジャマールッディーンがその初代の長を務めた。中国式の天文台(司天監)も併存していて、ジャマールッディーンは後にその両方を監督する立場になったいう。回回司天台は40人ほどの職員を擁し、イランから持ち込まれたかもしくは国内で復元された観測機器を用いて天体観測を行っていたらしい。アーミラリー天球儀や各種の日時計など、中国でそうした機器が使われていたことはマルコ・ポーロの記述にもあるそうだ。当時の成果はというと、もとの記録こそ失われているものの、ペルシアやアラブの写本、あるいは中国の文献から再構築が可能なのだとか。中国の文献としては、続く明の時代に翻訳されて流入した天文学書があり、最も重要なものは『回回暦法(Huihui lifa)』だとされる。もとはペルシアに由来する天文学のハンドブック(zijes)だそうで、ほぼすべてがプトレマイオスの『アルマゲスト』に準拠しているという。ほかに1366年にモンゴルの総督に仕えたとされるアル・サンジュフィニという天文学者が記した暦法の書もあるようなのだけれど、この二つの中国の文献がいずれも共通の文献を参照している可能性があるといい(数学的な内容などから推測されるらしい)、それはフビライ時代に回回司天台に務めていたムスリム系の天文学者の手によるものなのではないか、と。いや〜、このあたりの話はなかなか興味をそそるなあ(笑)。まとまった研究成果をぜひ見てみたいところだ。

ちなみにそのヴァン・ダレン氏、2014年刊行予定の論集も控えているらしい。
Islamic Astronomical Tables: Mathematical Analysis and Historical Investigation (Variorum Collected Studies Series)

From China to Paris: 2000 Years Transmission of Mathematical Ideas (Boethius. Texte Und Abhandlungen Zur Geschichte Der Mathematik Und Der Naturwissenschaften)

あと、参考文献も(やはり価格に泣く……)

History of Oriental Astronomy: Proceedings of the Joint Discussion-17 at the 23rd General Assembly of the International Astronomical Union, organised by the Commission 41 (History of Astronomy), held in Kyoto, August 25–26, 1997 (Astrophysics and Space Science Library)

こちらぐらいなら……

Cosmos: An Illustrated History of Astronomy and Cosmology

中世スペインは寛容?それとも……

これまたほんの数日前に紹介されていた論考だが、マリア・イエスス・フエンテ「現在の眼を通じて過去を構築する:中世スペインの諸国は寛容のモデルだったか?」というペーパー(María Jesús Fuente, Building the past through the eyes of the present. Were the Kingdoms of Medieval Spain a model of tolerance? Paper given at the 3rd Global Conference, 2009)を読む。中世スペインにおいて異なる宗教共同体同士は、果たして相手に対して寛容だったのか、それとも対立的だったのか?この古くからの問題を改めて考察し、2000年代に出た「寛容論」の書籍を批判的に取り上げている。そうした書が出てきた背景には、同時多発テロ以降の宗教的対立の文脈で、対立の緩和のためのより対話志向の議論を目した一部の論者たちが、過去の「寛容」の事例を探し求めたことにあるという。結果として出てきたのが中世スペインというわけなのだけれど、論文著者はこれにもっとニュアンスをもたせるべきだというスタンスを突きつける。実際のところ、そうした議論を考える上で考慮すべき点は多く、一口に中世スペインとして括るのは難しい(そりゃそうだ)。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の関係性は状況によって絶えず流動的で、たとえばアラブ統治期(8世紀から13世紀)とその後のキリスト教統治期で違うばかりか、地域ごとの違いもあるという(これももっともなこと)。文化の上層・下層の差などもあり、詩や文学、音楽、美術といったいわゆる「ハイカルチャー」での交流はあっても、より低次の、たとえば宗教儀式や慣習といった固有の文化は各共同体が死守・温存しようとする。また、そもそも「寛容」という言葉の意味も昔と今とでは異なっているという。中世末期頃の文献からは、当時の「寛容」(tolerance)が「持続、存続」を意味し、同化が不可能であるようなものに対する唯一可能な態度が、その存続を許すという姿勢だったという。なるほどこれは面白い指摘。昨今の寛容という言葉に込められている「大目に見る、異なるものを積極的に受け入れる」という意味合いとはだいぶ異なっているというわけだ。調和(conveniencia)や共生(coexistencia)という言葉を使う研究者もいるとはいえ、文化的な側面以外、つまりは社会的な関係性を広く見る場合にはそうした概念も必ずしも一様には適用できない、と論者は述べている。

実際の歴史研究が描き出すのは、単純に中世スペイン社会を寛容のモデルと見なすようなシンプルな像ではない。「現代的アイデンティティや社会にとっての、中世スペインの妥当性」を強調しようとすることは「複雑な歴史的過去をより現在志向の議題のためにねじ曲げるリスクを冒すことだ」と論者は述べている。末尾の締めの一言がとてもいい。「現代への関心に即して過去を構築しようとする歴史家は、このトピックが迷路であることを肝に銘じるべきだ。つまり入るのは簡単だが、出口を見つけるのは難しいということを」。