普遍論争というシロモノはとかく過去のものと思われがちだけれど、実は中世だけにとどまるものではなく、その形而上学的な議論は分析哲学に舞台を移して(議論の中身も変えて)今だに続いており、決着には至っていない……そのことを改めて教えてくれる好著、それがアームストロング『現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)』(秋葉剛史訳、春秋社)だ。この翻訳書が貴重なのは、邦語でのトロープ理論のまとまった解説が読めるのはおそらくこれが初めてではないかと思われるから。同書によると、トロープ(つまり実在として認めたられた属性のことだ)の考え方も一枚岩ではないようで、個人的にたまに目にするトロープの束説(実体といわれるものが、様々なトロープの束からできているという説)などはトロープ論全体の一部でしかないらしい。同書では、現代的な議論のスタンスとして6つの立場を分け、順にそれらを一つずつめぐり、それぞれが抱える利点や問題点を指摘し、どれがコスト・ベネフィット的に効率が良いかを探っていく。この、効率性で判断しようというあたりはいかにもプラグマティックだ。いずれの論も長短があるため、そうでもしないと百家争鳴的な状況に決着をつける筋道(それはまだまだ先のことだとされる)を見いだせない、というわけなのだろう。ここでの6つの立場というのは、(1)自然なクラス説、(2)類似性説、(3)普遍者説、(4)トロープ版自然クラス説、(5)トロープ版類似性説、(6)トロープ版普遍者説。それぞれの中身はここでは割愛するとして、最初の(1)と(2)が純粋な唯名論、残りは少なくとも個物とは別に性質の実在を認めているという点で実在論に括られている。また(1)の自然クラス説では事物は比較上構造を欠いたものとして扱うという意味で「塊」になぞらえ、なんらかの形で性質や関係の存在を認めるものを「多層ケーキ」になぞらえているのも興味深い。で、説明原理の効率性という意味では後者の多層ケーキ説に軍配が上がりそうだ(と著者は言う)。
久々に政治史方面のweb論考を読む。ルシアン・アッシュワース「アリストテレスを忘れよ:アレクサンドロス大王と近代政治組織の軍事的起源」(Lucian M. Ashworth, Forget Aristotle: Alexander the Great and the military origins of modern political organisation, University of Limerick, 2003)(PDFはこちら)というもの。ここで議論されているのは、はるか後世の西欧的な政治機構にまで受け継がれる組織的祖型というのが、アレクサンドロスによるマケドニア軍の改革にあったのではないかという仮説。マケドニア軍の改革というのは、まずは機動性を高めるための各種の施策で、傭兵を活用したり功績主義・能力主義を採用したり、ユニット(部隊)を細分化・専門化したりと、今風にいうなら実に自由主義的なものだったという。そうした自由主義的倫理や軍の機構が、後には帝国的な倫理や制度の発達を促すことになった、というのが著者の主張だ。さらにそれは民族混淆的な性質を高めることにもなり、後のコスモポリタニズムが導かれた、と。この著者の見解に従うなら、対するアリストテレスの考える政治学などは、それまでのポリスを温存しようとするだけの保守的で改革に乏しい、しかも他の民族や女性を蔑視する矮小なものでしかなかったと手厳しい。対するアレクサンドロスの政治思想は、既存の制度を否定するという意味でリベラルなものだったというわけだ。うーん、こうした議論に直接評価を下せるだけの知識はあいにく持ち合わせていないのだけれど(苦笑)、マケドニア軍改革それ自体の記述や、それが政治機構の母体にもなったというあたりはなかなか説得的。ただ、それが後々の政治機構・思想の伝統にまで繋がっていく(近現代のアナーキズムなどまで引き合いに出されている)というあたりの議論は少し性急にすぎる気も。マケドニアの制度はペルシアの制度に多くを負っているほか、伝統的なものとアレクサンドロスの独自の改良を組み合わせた複合的なものだったといった話を著者自身が述べているのに、後の時代の記述に関してはそうした複眼的な目配せがなかったりと、読んでいて微妙な居心地の悪さを覚える。ま、とはいえ、政治的なコミュニティがまずもって関心を寄せるのはいつだってセキュリティの問題であって、繁栄の問題などではなかったという指摘などは、なにやらとても興味深いところを突いている感じも。
先の『「誤読」の哲学』に触発されたこともあって、改めてスアレスの『形而上学討論集』から第二書第一部をしばらく眺めていくことにしようかと考えている。同書でもその冒頭の第一節がそのまま訳出されているのだけれど、ここではもっと長めのスパンで見ていくのも面白いかな、と。底本とするのはボンピアーニ刊行の羅伊対訳シリーズの一冊(Francisco Suárez, Disputazioni metafisiche. Testo latino a fronte, a cura di Costantino Esposito, Bompiani, testi a fronte, 2007)。例によって拙い粗訳なので、誤り御免ということで(苦笑)。ちなみに不定期の連載の予定(笑)。今回は上の山内本の訳出部分と重なってしまうけれど、まずは第一節の冒頭からその途中まで。