スアレス『形而上学討論集』から 2

第二討論第一部。その第一節の残り部分。前回の冒頭の箇所をざっと眺めてみると、形相的概念と対象的概念という対は、視点を変えただけで同じ一連のプロセスが表されているかのような印象を受けもする。というわけで、まずは先を見てから考えることにしよう。

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(承前)そこから、形相的概念と対象的概念との差異が得られる。つまり、形相的概念はつねに真かつ肯定的な事象[res]であり、被造物においては精神に内在する性質だが、一方の対象的概念は、必ずしも真かつ肯定的な事象ではない。というのも、私たちはときに欠如や、知性のうちにのみ対象的な存在をもっているがゆえに私たちが「考えられた存在」と呼ぶものを、概念として抱くからである。さらに、形相的概念はつねに単一で個別的な事象である。その事象は知性によって生み出され、知性のうちに内在するからだ。一方の対象的概念は、ときには単一で個別的な事象でもありうる。精神において対象に据えられうる限り、また形相の作用によって概念として抱かれる限りにおいてだ。だがそれは多くの場合、たとえば「人間」や「実体」、その他類似のもののように、普遍の事象、あるいは混淆した共通の事象なのである。ゆえにこの討論では、私たちはとりわけかような存在の対象的概念について、その全体的な抽象、すなわちそれゆえに私たちが形而上学的な対象であると述べた理由にもとづき、説明づけたいと考えている。だが、これはきわめて難しく、私たちの概念形成に多く依存していることから、私たちはまず形相的概念について考えることにする。そちらのほうが馴染みやすい、と私たちには思えるのだ。

普遍論争は今なお

現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)普遍論争というシロモノはとかく過去のものと思われがちだけれど、実は中世だけにとどまるものではなく、その形而上学的な議論は分析哲学に舞台を移して(議論の中身も変えて)今だに続いており、決着には至っていない……そのことを改めて教えてくれる好著、それがアームストロング『現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)』(秋葉剛史訳、春秋社)だ。この翻訳書が貴重なのは、邦語でのトロープ理論のまとまった解説が読めるのはおそらくこれが初めてではないかと思われるから。同書によると、トロープ(つまり実在として認めたられた属性のことだ)の考え方も一枚岩ではないようで、個人的にたまに目にするトロープの束説(実体といわれるものが、様々なトロープの束からできているという説)などはトロープ論全体の一部でしかないらしい。同書では、現代的な議論のスタンスとして6つの立場を分け、順にそれらを一つずつめぐり、それぞれが抱える利点や問題点を指摘し、どれがコスト・ベネフィット的に効率が良いかを探っていく。この、効率性で判断しようというあたりはいかにもプラグマティックだ。いずれの論も長短があるため、そうでもしないと百家争鳴的な状況に決着をつける筋道(それはまだまだ先のことだとされる)を見いだせない、というわけなのだろう。ここでの6つの立場というのは、(1)自然なクラス説、(2)類似性説、(3)普遍者説、(4)トロープ版自然クラス説、(5)トロープ版類似性説、(6)トロープ版普遍者説。それぞれの中身はここでは割愛するとして、最初の(1)と(2)が純粋な唯名論、残りは少なくとも個物とは別に性質の実在を認めているという点で実在論に括られている。また(1)の自然クラス説では事物は比較上構造を欠いたものとして扱うという意味で「塊」になぞらえ、なんらかの形で性質や関係の存在を認めるものを「多層ケーキ」になぞらえているのも興味深い。で、説明原理の効率性という意味では後者の多層ケーキ説に軍配が上がりそうだ(と著者は言う)。

で、著者が最も効率がよいと考えるのは、一連の各種トロープ理論ではなく、性質や関係などの属性を普遍者と考え、実体と属性という成る昔ながらのペアを基本に据える(3)の一バージョンだ。これに、普遍から個別への例化を考える手がかりとして事態(いわゆる複合命題の存在者を認めるというもの)の概念を組み込むと、トロープ以上にコストが少なくなるということらしい。各議論で言われる「コスト」は、それぞれにいろいろあるようで、この実体-属性説でのその最たるものは例化の無限後退のリスクだとされる。例化が事態によって行われるとするなら、その例化の事態もまた普遍者なのだから例化されなくてはならなず、再び例化の関係が事態によって例化されることになり、かくして無限後退が起きるように見える、というわけだ。けれども著者は、最初の例化が事態として分析されたら、それ以上の分析は必要ないのではないかという。最初の例化が真であれば、次々に新たな事態を対応させてもどれも真になるのは明らかなので、そうした新たな事態を対応させるのは無意味ではないか、というわけだ。さもないと(と著者は言う)、どの議論においても似たような状況になってしまい(自然クラスの成員関係を成員関係で、類似性論ならその類似性関係を類似性関係で分析するようなことになる、と)、あらゆる説が責め苦を負うというのだ。ここから翻って、それぞれの説には、それ以上分析として踏み込めない最初の原初的な部分があることも改めてわかる。さらには、この実体-属性での普遍者説の行く手にもまだまだ問題が横たわっているのだそうで(普遍者の間の厳密でない類似性を分析しきれるかどうかとか、自然法則の本性の問題など)、まだこのゲームは中盤戦が始まったばかりだと著者は述べている。うーむ、改めて思う……普遍論争おそるべし!いずれにせよ個人的には、アラン・ド・リベラがリミニのグレゴリウスなどについてトロープ論がらみで論じていた著書などを再読したくなった。今度はもう少し、理解が進むかしら?

起源としてのマケドニア軍改革?

おなじみ、イッソスの戦いのモザイク画からブケパロスに乗るアレクサンドロス
おなじみ、イッソスの戦いのモザイク画からブケパロスに乗るアレクサンドロス
久々に政治史方面のweb論考を読む。ルシアン・アッシュワース「アリストテレスを忘れよ:アレクサンドロス大王と近代政治組織の軍事的起源」(Lucian M. Ashworth, Forget Aristotle: Alexander the Great and the military origins of modern political organisation, University of Limerick, 2003)(PDFはこちら)というもの。ここで議論されているのは、はるか後世の西欧的な政治機構にまで受け継がれる組織的祖型というのが、アレクサンドロスによるマケドニア軍の改革にあったのではないかという仮説。マケドニア軍の改革というのは、まずは機動性を高めるための各種の施策で、傭兵を活用したり功績主義・能力主義を採用したり、ユニット(部隊)を細分化・専門化したりと、今風にいうなら実に自由主義的なものだったという。そうした自由主義的倫理や軍の機構が、後には帝国的な倫理や制度の発達を促すことになった、というのが著者の主張だ。さらにそれは民族混淆的な性質を高めることにもなり、後のコスモポリタニズムが導かれた、と。この著者の見解に従うなら、対するアリストテレスの考える政治学などは、それまでのポリスを温存しようとするだけの保守的で改革に乏しい、しかも他の民族や女性を蔑視する矮小なものでしかなかったと手厳しい。対するアレクサンドロスの政治思想は、既存の制度を否定するという意味でリベラルなものだったというわけだ。うーん、こうした議論に直接評価を下せるだけの知識はあいにく持ち合わせていないのだけれど(苦笑)、マケドニア軍改革それ自体の記述や、それが政治機構の母体にもなったというあたりはなかなか説得的。ただ、それが後々の政治機構・思想の伝統にまで繋がっていく(近現代のアナーキズムなどまで引き合いに出されている)というあたりの議論は少し性急にすぎる気も。マケドニアの制度はペルシアの制度に多くを負っているほか、伝統的なものとアレクサンドロスの独自の改良を組み合わせた複合的なものだったといった話を著者自身が述べているのに、後の時代の記述に関してはそうした複眼的な目配せがなかったりと、読んでいて微妙な居心地の悪さを覚える。ま、とはいえ、政治的なコミュニティがまずもって関心を寄せるのはいつだってセキュリティの問題であって、繁栄の問題などではなかったという指摘などは、なにやらとても興味深いところを突いている感じも。

スアレス『形而上学討論集』から 1

先の『「誤読」の哲学』に触発されたこともあって、改めてスアレスの『形而上学討論集』から第二書第一部をしばらく眺めていくことにしようかと考えている。同書でもその冒頭の第一節がそのまま訳出されているのだけれど、ここではもっと長めのスパンで見ていくのも面白いかな、と。底本とするのはボンピアーニ刊行の羅伊対訳シリーズの一冊(Francisco Suárez, Disputazioni metafisiche. Testo latino a fronte, a cura di Costantino Esposito, Bompiani, testi a fronte, 2007)。例によって拙い粗訳なので、誤り御免ということで(苦笑)。ちなみに不定期の連載の予定(笑)。今回は上の山内本の訳出部分と重なってしまうけれど、まずは第一節の冒頭からその途中まで。

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第二討論第一部
存在者としての存在者は、私たちの精神のうちに、あらゆる共通存在の形式的概念をもつのかどうか

第一節
形相的概念、対象的概念とは何か、またどう異なるのか。

まず、形相的概念、対象的概念という一般的な区別を考えなくてはならない。形相的概念とは、知性がなんらかの事物もしくは共通の思惟[communis ratio]を概念として抱く[concipio]拠り所となる作用そのもの、もしくは(同じことだが)言葉を言う。それが「概念」と言われるのは、精神に宿る実のようだからである。さらに「形相的」と称されるのは、それが精神における最終的な形相であるからか、または認識された事物を精神において形相的に表すからか、あるいはそれが実際に精神における概念形成[conceptio mentis]の内的かつ形相的な終端をなすからであり、こういってよければ、そこにおいて対象的概念とは異なるのである。対象的概念とは、形相的概念によってしかるべく、かつ直接的に、認識もしくは表される事物ないしは思惟を言う。たとえば、私たちが人間を認識する際、概念形成の対象となる人間に向けて私たちが精神に中にもたらす作用が、形相的概念と呼ばれる。一方、その作用により認識され表された人間は、対象的概念と呼ばれる。それが概念なのは、形相的概念に対しての外的な名づけ[denominatio extrinseca]によるからであり、だからこそ、形相的概念を通じて対象の概念が形成されると言われるのである。したがって「対象」的[概念]と言われて申し分ないのは、それが概念形成を決着させる内的な形相としての概念ではなく、形相的概念が向けられる対象もしくは質料としての概念であり、精神の注意[mentis acies]がまっすぐに向かう先だからである。このことゆえに、アヴェロエスによれば、一部の論者たちはそれを「知的志向性」と称し、また別の人々は「対象的思惟」と称している。

(この節、続く)

対象という幽霊

少し前にも触れた山内志朗『「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013)を読了。これまた、とても興味深いものだった。タイトルの「誤読」にも重層的な意味合いが込められていて、単に現代思想のスターたちによる中世や近世の哲学の誤読が問題になっているのではない。

「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へスコトゥスからオッカムへといたる流れでよく話題になることの一つに、可知的形象・可感的形象(知的スペキエス・感覚的スペキエス)の排除と直観的認識の台頭の問題があるのだけれど、考えてみるとそうした認識論的図式において、認識の対象となるものそのものが実際にどういう「もの」なのかは緩やかに曖昧なままだったりする。とくにその対象がどこに位置づけられるのか、つまり外的事物の側なのか知性(精神)の側なのか、それともいずれでもない第三の項として立てられるのか、といったあたりはテキストを漫然と読んでいても、なんだかよくわからないままだったりする。で、凡百の読み手ならば、そのあたりはスルーしてしまうか、曖昧なままにさしあたりの整理をしてやり過ごしてしまいがちだ(うう、個人的にもまさにそう)。ところが同書の著者は、その曖昧さに徹底的にこだわろうとする。かくして、外部でも内部でもなく、また第三項でもない「対象」、どこか幽霊のごとき「対象」こそが、同書を貫くメインテーマに据えられる。(うーむ、あるいはそのこだわりの違いは、哲学史に哲学という側面から追体験し迫ろうとするか、それともあくまで史的事象として引き離して扱うかというスタンスの違いもあるかもしれない。圧倒的に魅力的なのは前者だと思うのだけれど、それは誰もが通れる道にはとうてい見えない。並みの読み手では、すぐさま後者の罠に絡め取られて身動きできなくなってしまうような気がする……)

アプローチの方法も特徴的だ。後世の時点での過去の哲学への言及をもとに、その過去の哲学へと遡及する。ドゥルーズからスコトゥスへ、フーコーからアルノーやマルブランシュの「観念」論へ、ライプニッツから後期スコラへ、というふうに。さらに中盤でも、ジョン・ノリス(17世紀末のケンブリッジ・プラトニスト)からスアレス、フォンセカ(16世紀のポルトガルの神学者、イエズス会士)あるいはカエタヌス(16世紀のトマス主義者)へなどなど。様々な思想家を渉猟しながら問われ続けているのが、デカルトが用いた「観念」の、いわば前身となる用語の内実だ。それが「対象的概念」「形相的概念」で、とくに後者が問題とされる。同書の後半では、その出自から終局までが追い求められていく。「対象的概念」の成立(この用語の使用は、年代的にスコトゥスとオッカムのあいだに位置するペトルス・アウレオリが嚆矢だとされている)から、やがてそれが知解作用そのものと同一視されて(その転換点はスアレスにあるという)、いつしか不要なものとして費えてしまうまで(近世スコラ学、著者が言うところのバロック・スコラだ)が見据えられている。散りばめられた枝葉の数々(馴染みのない名前なども多々)や、行きつ戻りつする晦渋な語りなど、決して普通に読みやすいとはいえない考察だとは思うけれど、その全体像からは、同氏のこれまでの著作がそうだったように、著者のこれまでの歩みが反映されているらしい思考の手触りと、その道を歩む苦渋や痛みが浮かび上がる。でもだからこそ、(これもまた以前の著作もそうだったが)この先の展望をわずかながら先取りした末尾に、この上ない期待感の充溢が感じられて救われた気分にもなる。対象という幽霊の正体についてだけれど、それはこの著作に不在な部分、つまり神学的なものを取り払ったがゆえに生じた影、ということはないのかしら、という思いも個人的には強く残ったり……。そんなこんなで、個人的にはいろいろな反省を突きつけられる一冊でもある。