イアンブリコス『神秘について』から 1


イアンブリコス『神秘について』こと『ポルフュリオスへの返信』が、昨年Les Belles Lettresから希仏対訳本で出た(Réponse à Porphyre (De mysteriis) : Edition bilingue français-grec ancien, trad. H.D.Saffrey et A.-P.Segonds, Les Belles Lettres, 2013)。イアンブリコスの神秘哲学(というか儀式神学かな)はなかなか興味深いものがある。これはポルフュリオスの反論への再反論という形を取っていて、全体は三部構成になっている。各部ではそれぞれ(1)上位の存在の分類、(2)予言、(3)降神術を扱っている。というわけで、ざっと見でもここにはイアンブリコスの神秘思想が体系的にまとめられているという印象だ。ならば少し切り出して訳出してくというのも面白いのではないか、と思う。これまた暇を見つけて取り組んでみることにしよう(例によって誤訳御免)。ちなみに西欧でのイアンブリコスの再発見は、なんといってもマルシリオ・フィチーノ(15世紀)によるパラフレーズによるところが大きいとされる。そのうち、そちらとも合わせて見ていくようなことができたらさらに面白そうだ。とりあえずは、気になる箇所をピックアップして見ていくことにする。まずは第一部の第三章から、「魂」(神々の種族では最下位とされる)について触れている部分。

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3.3
上位の種族たちの、世界への分与については以上で十分であろう。この後、あなたは再び、別様の区別を取り上げている。(影響を)被るか被らないかの違いにより、上位の種族の本質を分けるという区別である。私はそうした区別をも認めない。というのも、被るものは上位の種族には決して属さないし、被るものに対して別の範疇に属するとされる、被らないものも属さないからだ。あるいは自然に被るとされるものも属さない。そうしたものはおのれの徳、もしくはほかのなんらかの優れた性質により解放されるのである。だが、(上位の種族は)影響を被る・被らないという対立から免れており、もとより被る謂われなどまったくなく、本質において不変的な堅牢さを備えているがゆえに、私は影響を被らないもの・不変的なものを、そうした(上位の種族の)全体に属するものと見なすのである。

さらに、もしあなたがそうしたければ、神々のうち最下位のもの、つまり肉体から離れた魂について考えてみればよい。なにゆえにそれは、欲望にもとづく生成に、あるいは欲望にもとづく自然への回帰に属さなければならないのだろうか。それが自然を超越した存在であり、生成によるものではない生を生きているというのに?なにゆえにそれは、消滅に導く苦痛、あるいは肉体の調和を解消する苦痛に与るというのか。それがあらゆる肉体的な存在や、肉体の一部をなす自然の外部にあり、魂のもとにある調和から肉体へと下るものとは完全に分離しているというのに?だがそれは、感覚を導く情動をも必要とはしていない。なぜなら肉体のもとにすっかりとどまっているわけではないし、閉じ込められているがゆえに外部にあるなんらかの異質な肉体を肉体的器官を通じて得るという必要もないのだから。要するにそれは、部分に分割できず、一つの同じ形相のもとにとどまり、それ自身もとより非肉体的なものであり、生成し情動を被る肉体と交感することはないのである。区別においても変化においても、いかなる情動も被らないし、どのような変化ないし情動を被るものにも与らない。
(続く)

スアレス『形而上学討論集』から 3

第二討論第一部の続き。ずいぶん間が空いてしまっているが、暇をみて訳出していくことにしたい(苦笑)。本文はここから諸説の検討に入っていくようだ。まずはカエタヌス(1469〜1534)の説。ドミニコ会士でバリバリのトマス派ということで、基本的には存在の類比説を取っているらしい。同じく言及されているフォンセカ(1528〜99)はスアレス同様イエズス会士。

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2. 最初の見解は、存在者に形相的概念−−それ自体一つであるとされ、特定の存在者を表す他の概念から区別された概念−−が与えられることを絶対的に否定するというものだ。これは、小著『名前の類比について』第四章と第六章でカエタヌスが示した見解である。それは不明瞭な形で述べられており、完全な概念と不完全な概念を区別してはいるが、一方でその区別は、次に取り上げるフォンセカの区別と一致する。注意深く読むならば、まさにそれが(フォンセカの)見解であるように思われる。フォンセカは、『形而上学註解』第四巻第二章第二問第二部において、それは真理に達しているか、あるいは真理に限りなく近いところにあると述べている。もしそうでないなら、存在者は一義的であって類比的ではないことになってしまうから、というのが(この見解の)根拠だが、われわれが後に検討するようにそれは偽である。その結論部分は、名前が共通する事物はどれも一義的だという理由で論証されている。アリストテレスが『範疇論』の冒頭で述べているように、名前に実体が割り当てられる根拠(ラチオ)は同一である。だが、存在者という名前はすべての存在者に共通する。したがって、名前の根拠には同じ一つのものがあるのみで存在者は一義的であるか、あるいはまた、根拠は一つではなく存在者の形相的概念も一つではありえないかのいずれかとなる。なぜなら形相的概念は、しかるべきものとしてそれが指示する一つの事物、もしくは一つの概念的思惟から、その一体性を得ているからだ。それゆえ、かかる概念がしかるべき存在者を表す言葉もしくは名前であるならば、その名前で意味される存在者以上に一体であることはありえない。

イブン・ハルドゥーン

イブン=ハルドゥーン (講談社学術文庫)森本公誠『イブン=ハルドゥーン 』(講談社学術文庫、2011)を部分的にながら読んでいるところ。いや〜これも面白い(笑)。もとは1980年刊行の書だというが、イブン・ハルドゥーンについて多面的なアプローチでその全体像を描き出そうとしている好著。メインは主著の一つ『歴史序説』の抄訳だけれど、その周りにはイブン・ハルドゥーンの生涯ばかりか、イスラム社会思想の流れ、後世への影響についてなど、いずれも詳しい記述が配されて、それらの有機的な関連が像を結んでいくという趣向。ある意味模範的というか理想的な論考でもある。イブン・ハルドゥーンはチュニス出身の14世紀イスラム世界の歴史家・思想家。社会集団の成立論のほか、国家の一般理論(王朝の三世代論など)、また学問論でも(魔術や占星術、錬金術などに対して科学的実証性からの批判を展開したなど)興味深い着眼点を示している。後世への影響という点では、とりわけ西欧との絡みが気になるけれど、15世紀のスペインでは知られていたものの、17世紀に再発見されるまでいったんは忘れられていた存在だったという。同書全体のテーマからはちょっとずれるけれど、個人的には、イスラムの哲学者たちの伝統的立ち位置についてのコメントがとりわけ興味深い。イスラム社会では基本的にシャリーア(イスラム法)を司る法学者が力をもっていたわけだけれど、それに対して、アッバース朝初期のギリシア哲学流入以来となる哲学者の側も、その思想がときに法学者たちに取り入れられるほどの影響力をもっていたという(うん、その影響力の広がりというか、擁立のプロセスというか、そのあたりをもっとちゃんと知りたい気がする)。彼らは哲学的原理や理想的都市国家論などを説いていたが、とはいえシャリーア(そちらが優位にある)との調和を図るというのがその中心課題だったともいう。なるほど、やはりイスラム世界での哲学の立ち位置はどこか微妙だ。このほか帝王学の系譜というのもあり、イブン・ハルドゥーンにおいてはそうした三つの流れが総合されているのだという。

実在論の復権

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ久々に青土社の『現代思想』(現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ)を読んでいる。先の千葉雅也氏のドゥルーズ論がらみだと思うけれど、クアンタン・メイヤスーとグレアム・ハーマンのそれぞれの論考が一つずつ掲載されていて、とりわけ面白い。どちらも「実在論」的なスタンスに立って、懐疑論的な問題を突き詰めていこうとしている感じ。メイヤスー「潜勢力と潜在性」(黒木満代訳)は、合理的な懐疑を突き進めていくと、法則が未来においても同一性を保持することを保証するものはない、というヒューム的議論(これって、クリプキなども同じような議論をしていたっけ)をもとに、そうした法則の必然性がまったくないということをあえて肯定するところから議論を進めようとする。するとそこから何が見えるか。合理を突き詰めた末に現れるのはカオス的世界なのだけれど、一方でそれは、確率論的な推論をことごとく失効させて、定数の可能的変化が定数の「必然的」変化を帰納することすらなくなり(すべてが偶然なのなら、法則も一定せずに常に可変な「はずだ」という思い込みすら失効する、ということ)、カオス的世界は必然的法則に従属している世界と見分けがつかなくなるという、ある意味逆転した世界に行き着く、という。極限的には無根拠ながら、見かけ上は法則の一定性が保持されるという世界観。うーん、と思わず唸ってしまうが、これは様々な認識論的枠組みに変更を強いることになるのかしら?

ハーマン「代替因果について」(岡本源太訳)も、やはりヒューム(とマルブランシュ)の問題圏にある論考だ。フッサールとハイデガーの相補性から、対象(オブジェクト指向哲学というITっぽい言い方をしている)について再考しているのだけれど、ここでも問題になっているのは対象(実在的対象)同士の関係(代替因果と呼ばれる、形相因に近いとされる区別と融合との共有空間)だ。そこでとりわけ大きくクローズアップされるのは、志向が向けられつつも直接的にアクセスできるわけではない「実在的対象」と、そこにアクセスの緩衝材として差し挟まれている「感覚的対象」が取り結ぶ関係性。両者のとりなしを担うものとして「真率(sincerity)」という関係性が挙げられている。これこそが志向を担い、実在的対象との関係性を打ち立てる要となる概念らしいのだけれど、この分析はまだ道半ばのようだ。実在的対象同士の関係(代替因果)が明らかになるには、まず感覚的対象が取り結ぶ真率の関係の内容が明らかにならなくてはならない。そのためには、感覚的対象の本質的性質(まさに実在論的だが)が切り出されなくてはならないetc。そうしたプロセスはどんなものなのか。この論考はまだ序という段階のようだ。でもこれ、表現は結構複雑ながら、全体像としていわんとすることは結構「わかりやすい」議論なのではないかという印象。ライプニッツのモナドロジー的な議論に重なっているようでもあり、その意味でもとても興味深いスタンスだ。

denominatio extrinseca


スアレスにも出てくる「denominatio extrinseca」。先の山内志朗『「誤読」の哲学』では「外的名称規定」と訳され、対象(オブジェクト)をめぐる探求の途上で重要な位置を占めていた。けれども、これは主体(サブジェクト)の問題においても要の一つとなっているらしい……。前半の途中で投げ出してしまっていたアラン・ド・リベラ『主体の考古学II – 同一化の探求』(Alain de Libera, La quête de l’identité (Archéologie du Sujet II), Vrin, 2008)の後半部分に、そのあたりを追った議論があることを最近改めて知り、そんなわけでとりあえずざっと読んでみた。この『主体の考古学』第二巻は、一巻目とは趣を異にし、近世や近代と中世を自在に行きつ戻りつしながらリベラお得意の図式化などが多用されるため、なかなか読むのがしんどい。ちゃんとした理解になっていない感じはするが、とりあえず大枠だけメモしておこう。denominatioとは呼称のことだが、ある対象物を述語づけるときに、その述語が本質・内在に立脚している場合と、外部的事象に立脚している場合に分け、前者をdenominatio formali(形相にもとづく名づけ)、後者をdenominatio extrinseca(外的事象にもとづく名づけ)と称している(extrinsecaは、その対象物に本質的に属していないという意味で、付帯的なもの、偶有的なものを意味したりもする)。当然ながらこの概念にも変遷の歴史がある。が、リベラはそれを直線的でない形で示そうとしている。それほどまでに複雑に錯綜しているということ……なのかしら。

たとえば、「ある物体が熱い」と言う場合、それはその物体を形相的に名づけたことになり、一方で「ある物体は熱くなった」と言う場合、それは外的事象にもとづいて名づけたことになる、とされる。こうした「形相にもとづく」と「外的事象にもとづく」の違いの議論は、たとえばヘルヴァエウス・ナタリス(14世紀のドミニコ会士)の「全論理学大全(Summa Totius Logicae)に見られるといい、リベラによると、そこでの区分では、作用を及ぼす側か、作用を受ける側かの区分に重ねられているといい、さらには作用が内発的・自律的か、作用が推移的・他動的かの違い、あるいは形相因・作用因の違いにも重ねられているという。『「誤読」の哲学』でも指摘されていたが、「外的事象にもとづく」とされる場合の「主体」(上の例なら「ある物体」)は、作用を被る対象としての位置関係にあるという意味で、現行の主体概念との逆転が見られるのが特徴的だ。で、少し後世のカエタヌス(16世紀初頭のドミニコ会士)になると、思考の対象が現実的・潜在的に「外的事象にもとづいて」知解可能であると「名づけられる」ための条件が規定される。ここから、対象が思考となる契機がそのまま「外的事象にもとづく名づけ」とイコールになっていくらしいのだが、それはたとえばデカルトの『省察』への反論で知られる(寡聞にして知らなかったが)ヨハネス・カテルスなどの議論などに見られるらしい。そこでは、「観念になる」とは、知解に対象として入ること、対象という形で知解の作用を終わらせることとされる。これなどは、スアレスの「概念」の区別にも重なるスタンスだ。「外的事象にもとづく名づけ」は、その後も意味の場を拡げるようで、18世紀のサミュエル・クラークやトマス・リードにまで受け継がれ、属性の理解や知覚対象にまで拡大されていくのだという……。

主体の考古学という同書あるいは同シリーズの全体からすると、この概念の変遷を追うだけではまだ道半ばということで、ここからいかにして思考の主体・思考する主体が現れてくるのかが問題となっていくらしいのだけれど、それは続くあと二巻(と宣言されている)に委ねられる。うーん、なかなか壮大な計画ではあるけれど、時代を縦横に行き来するこの記述スタイルも、やはりこのまま維持されていくのかしら?(苦笑)