ガレノスが中級向け読本に

Galen, Three Treatises: An Intermediate Greek Reader: Greek Text with Running Vocabulary and Commentary8月17日付けのBryn Mawr Classical Reviewに出ていた、エヴァン・ヘイズ&スティーブン・ニミスによるガレノスの三論文の中級向けギリシア語読本(Evan Hayes and Stephen Nimis, Galen, Three Treatises: An Intermediate Greek Reader: Greek Text with Running Vocabulary and Commentary, Faenum Publishing, 2014)。安かったのですぐに取り寄せてみた。語彙や文法解説がページごとに本文に添えられていて、ほとんど辞書いらずで読めるため、なかなか便利。自家版のオンデマンド印刷本とのことで、価格もとても低く抑えられていて実に手頃だ。「自著について」「自著の順番について」「優れた医者は哲学者でもあるということ」の三作品が収録されている。それらの本文は、今やパブリックドメイン入りしているミュラー版のガレノス小著作集の第二巻(1891年刊)がベース。それをより近年の版に沿って若干手直しし可読性を高めた、と冒頭の序文に記されている。ガレノスのこれら小品の最新の校注版は、フランスのLes Belles Lettresから出ているブードン=ミロー編のガレノス著作集のもの(Galien: Introduction Generale, Sur L’ordre De Ses Propres Livres, Sur Ses Propres Livres, Que L’excellent Medecin Est Aussi Philosophe (Collection Des Universites De France Serie Grecque))だという。テッサロニキで発見されたというより完全なテキストも反映しているのだとか。そちらでの新規追加箇所などは、著作権的な問題で収録はできないため、簡単な要約という形で紹介している。このあたりの配慮もとても嬉しい。

プロクロスのパルメニデス注解から

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque)ほぼ一ヶ月前の記事で取り上げたように、一説によるとパルメニデスの「一」はまったくの別格のもの(非存在)であり、そこから「多」が生じてなどいないといわれる。また、後世の解釈がそのことを掌握できず、ひたすら「一」と「多」を同じ地平に位置づけようとする試みとして形而上学が展開してきた、という話もあった。そうした前提を踏まえつつ、プロクロスの『パルメニデス注解』を見てみようということで、希仏対訳本の一巻目(Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque), Les Belles Lettres, 2007(この第一巻は二分冊になっており、片方が総合的序論、もう片方が本文を所収している)を眺めているところ(まだ一巻の本文篇の三分の一程度)。プロクロスは冒頭の箇所でゼノンとパルメニデスのスタンスの違いについて触れている。ゼノンが存在は「一」であるとともに「多」でもあるとして、「一」は同位的に「多」を包含しているとする(I, 620)のに対し、パルメニデスの「一」は隔絶的で、「多」から切り離されているとされる。なるほど、ここまでは前に挙げた解釈にも沿う。けれども、そこから先は新プラトン主義的な解釈となってしまう。つまり「一」は、それをとりまくものによって多へと接合されなくてはならない、というのだ。

この一巻では最初にプラトンの『パルメニデス』の構成が紹介され、語りの重層性についても触れられている。その上で、そうした層をなす登場人物の語りのレベルが、すでにして「一」と「多」の関係になぞらえうると指摘される。まず、パルメニデスは何にも参与されない神的な知性としての「一」に相当するという。ゼノンはその神的な魂が参与する第二の知性であり、それでも十全な知性ではあるわけだけれど、ソクラテスにいたるとそれはいまだ不完全で、部分的知性に位置づけられる(I, 628)。この三層構造は、その次の語りのレベルでも反復されるのだという。まず、パルメニデスたちのホスト役で、対話の聴き手として満ち足りた体験をするピュトドロスが「神的な魂」に位置づけられる。そしてその対話を語るアンティフォンが、自然に働きかける「ダイモン的な魂」に相当するとされ、次いで本編の語り手となるケファロスほかが「個的な魂」に位置する、と(I, 629)。このあたり、まさに流出論的な構造でもって全体的構成がなされているとの解釈だ。

続いてプロクロスは、そうした構造を踏まえて、読み手側は逆に対話篇からその究極の目的である論理そのものへと遡及しなけばならないと説く。そしてまずは先達とされる昔の人々がどう読んでいたかを振り返ってみせる。そこでの中心的テーゼとなるのが、同対話篇が論理学的な訓練を描いているにすぎないという解釈だ(I, 634)。一方でプロクロスは、その対話篇が現実について論じているという対論を突きつけてみせる。ここで、パルメニデスによる「一」の議論が現実の無限の「多」とどう結びつくのかというアポリアもまた、鮮明に浮かび上がってくる(I, 639)。結局プロクロスは、そこに現実についての議論と論理学的な訓練との一種のハイブリッドを見る立場(プロクロスの師匠であるシリアノスの立場)にもとづいて話を進めていくことになる(I, 641)。その全体が神学(神をめぐる形而上的議論)として性格づけられていることも、そこで引き合いに出されている。で、その後は対話のスタイル、弁証法、方法論の話へと話題がシフトしていく(いまここ)。……というわけで、まだ全体からすると序のほんのさわり部分にすぎないけれど、プロクロスの注釈は、やはり「一」と「多」を切り離す議論には批判的で、全体をそれなりの整合性あるものとしてまとめる方向へとひたすら向かっていく。この後は各パッセージを踏まえた各論的な注解になっていくようだけれど、どう展開していくのか……しばらくは散発的にコメントしていきたい。

再考せよ、とこのメディア論は煽る?

メディア、使者、伝達作用―メディア性の「形而上学」の試み個人的にはしばらくメディオロジー系からは離れているものの、邦語での関連書が出たりすれば一応目を通したいとは思っている。というわけで、最近出たジュビレ・クレーマー『メディア、使者、伝達作用―メディア性の「形而上学」の試み』(宇和川雄ほか訳、晃洋書房)をちらちら見ているところ。まだ途中まで。とはいえ、同書はなにやらあまり落ち着いて読んでいられない(笑)。なんというか様々に「煽られている」かのように感じてしまうからだ。個人的に、メディア論のようなものはどこか詩的な、良い意味での「いかがわしさ」があったほうが好ましい気がしてはいるのだが、このドイツ圏のメディア論にあっては、やや方向性の異なる「いかがわしさ」を漂わせてくる、というか(笑)。文章そのものはかなり正攻法でせめてくる感じだ。ひたすら教科書的・図式的な記述たろうとしているかのようで、少し面白味を欠いてしまっているようにも見える。取り扱うテーマも多岐にわたり(それもまた教科書的だ)どこか雑多な印象を与えるし、個別のテーマもただそこに投げ出されてしまっているかのようにも見える。ただ、そうした放言の全体が、こちら読み手側に、なにやら挑みかかってくるかのようなのだ。

個人的に最も注目していたのが、伝達論でのモデルとして使われてきた「天使」の、そのモデル性についての問題。著者のクレーマーは天使の特性として、(1)具体化(2)ハイブリッド性(3)悪霊への反転(4)ヒエラルキーなどを挙げているのだけれど、たとえば中世あたりの天使論からすると、同書の記述とはずいぶん大きな隔たりを感じずにはいない。とりわけ(1)と(2)などは、天使の話なのにいきなりキリスト論をもってきて、非物質性(天使は本来、非物質的なものとされてきたわけだが)の打ち消しと、媒介する両項の特性を併せ持つという特徴付け(それもちょっと乱暴な話ではある)とをそのキリスト論の話に担わせているのだけれど、これは本来の天使論とは一線を画しているし、(3)についても、堕天使はそのようなものとして構造化されているのであって、天使そのものがいついかなるときも反転するような両義性をもっているわけではない。そういう議論が出るのはずいぶんと「後代」になってからという印象だ。(4)のヒエラルキーについても、これは、伝達論として見た場合に示されるような、単なる両項の間のグラデーションの多様性という話に還元できるものではない……。とまあ、こんな感じで、それぞれにツッコミを入れる余地があり、メディア論で語られる天使の形象が意外に偏っていること、あるいは時代的に比較的新しい部類であることには、十分留意する必要があるように思われる。というか、そのように図式化された天使論をベースにして伝達論を語ることには、やはり無理があるのではという気さえしてくる。で、こうした批判的な見方で臨むなら、伝達作用の諸相として同書で挙げられている他のテーマ、すなわちウィルス、貨幣、翻訳などについても、同じように再考していかなければならないのではないか、という思いを強くする。たとえばウィルスのテーマについて言うなら、感染ははたして伝達作用に括られうるのかとか、それを象徴的な暴力とかにまで敷衍することは許されるのか(転写はミメーシスと言えるのか)とか、同書が端的に言い放ってしまうところを、改めて検討し直さなくてはいけないのではないか、と。そのような再検討を促すという意味で、同書は逆説的に「買い」だったりする……のか?

アウグスティヌス:神の「場所」

告白 I (中公文庫)春ごろに文庫化された山田晶訳のアウグスティヌス『告白』(全三巻、中公文庫)を、ようやく通読できた。この秋はメルマガのほうでゲントのヘンリクスのスンマの冒頭を見ていこうと思っていて、ヘンリクスの見識とアウグスティヌスとの連関は顕著であることから、その準備の意味合いもあったのだけれど、そんなことはこのテキストそのものを前にするとどうでもよくなってしまう(苦笑)。それほどまでに見事な翻訳だ。もとは「世界の名著」シリーズのもの(1968年刊)。当然ながら、ずいぶん前に羅仏対訳本で読んだときよりもはるかにヴィヴィッドに、アウグスティヌスの回想にまつわる思いのほどが伝わってくる。また、様々なテーマが散りばめられていて、それらを辿り直す楽しみもある。

告白 II (中公文庫)いまさら言うまでもないことだけれど、『告白』は記憶をテーマに全体が構成されている感が強い。アウグスティヌス自身の若き日の記憶、記憶論そのもの(有名な時間論などもこの「記憶論」の部分の一端をなしている)、そして創世記という「記憶」をめぐる注釈……。野暮を承知で、たとえばその「記憶論」に注目してみるならば、そこにはいくつもの面白い議論が見いだせる。たとえば、記憶したことそのものの記憶(記憶の二重性だ)に着目している点などがそうだ(10巻13章)。そのすぐ後(10巻14章)では、記憶に含まれる感情とそれを想起する自分の感情との齟齬について触れ、面白い比喩を用いている。「記憶は心の胃のようなものであり、よろこびやかなしみはいわば甘い食物と苦い食物のようなもの」だというのだ。想起は食物が胃から反芻によってとりだされるようなものだとも語っている。さらにはまた、記憶は野原だったり洞窟だったり岩窟だったりするとも語られている(10巻17章)。この場所との結びつきは、しかしながら神の想起という問題において超克されなくてはならないものとなる。失われたものが見出されるのは記憶に保持しているからにほかならないと言い、これが「至福」の場合にまで敷衍され、それはすなわち神の座が記憶のうちにあるがゆえに見出されるのだと説く。告白 III (中公文庫)では神は「記憶のいずこに」あるというのか。物体的な事物の心象のうちにではない、自分の心が占めている心そのものの座所でもない、けっして場所にはない(10巻24〜26章)……まるで否定神学であるかのように、それはあらゆるトポスを欠いている、トポスを超越している……。この点について訳者はこう注釈を付している。神と出会う「場所」は記憶の中にはなく、「神に関する根源的な知は記憶をこえた神において得られるものでなければならない。(……)人間の精神はそのもっとも奥深いところにおいて、超越者である神に向かって開かれている」(II、p.259)。

規約主義vs認知主義

規則の力: ウィトゲンシュタインと必然性の発明 (叢書・ウニベルシタス)ジャック・ブーブレス『規則の力: ウィトゲンシュタインと必然性の発明 (叢書・ウニベルシタス)』(中川大、村上友一訳、法政大学出版局、2014)を読んでみた。比較的小著でありながら、結構晦渋で、読み進めるのに時間がかかった一冊(原書は87年刊)。とはいえ、扱われている内容は大変興味深いもの。たとえばクリプキなどは、ある規約が適用されるときに、それがその後も常に適用される保証はどこにあるのかと問い、その規約のもつ必然性に異義を唱えてみせたのだった。これに対してここでのブーブレスの議論は、そのクリプキの議論の下敷きになっているウィトゲンシュタインが、実はそうしたクリプキ的な懐疑論にはいたらず、必然性というものを少なくとも否定はしていないという解釈を中心に展開する。それによるとウィトゲンシュタインは、規約が将来的にも適用されうること、それが予言されうることを認め、その必然性を規約そのものの表現体系において発明されたものと見なしているのだという。記号と規則による取り決めそのものが、必然性を可能にするようなしかたで取り決められているのだということのようで、取り決めは記号が指示する実際の事物の外で行われている、とされる。規約が必然性をもたらすということで、これは「規約主義」と称されている。ある種の概念論、唯名論的なスタンスだ。その最たるものとして数学が例に挙げられているのだとか。

ではそれは完全に事物とは関係なく成立しているのかといえば、ブーブレスによると必ずしもそうとはいえず、ウィトゲンシュタインは、そうした記号と規則が織りなす「記述」が、すでにして外的な事物を取り込む形で記されているのだと説明しているのだという。事物、というか事物の認識を重んじる立場を、同書では「認知主義」と称し、「規約主義」と対比をなすものとして取り上げているけれど、これなどはむしろさながら穏健な実在論という感じだ。とりわけエドワード・クレイグがその観点からウィトゲンシュタインを批判的に解釈しているといい、ブーブレス自身の立場もそちらに重みを置いているように見える。だからこそというべきか、同書での解釈には、規約主義のみに汲々としているわけではない、場合によりずいぶんと広い構えを見せるウィトゲンシュタイン像が浮かび上がってくるような気もする。ま、これは個人的な、素人の印象論でしかないけれど(笑)。「あとがき」によるとブーブレスは1940年生まれのフランスの哲学者。ウィトゲンシュタイン研究の第一人者だという。