「オピキヌスの身体=世界論」その2:アレゴリー

opicinus2ウィッティントンの学位論文『オピキヌス・デ・カニストリスのボディ=ワールド』から第二章を見てみた。いよいよここからオピキヌスの絵の解釈になる。まずここでの中心テーマは一四世紀当時のアレゴリー。一四世紀初頭ごろから、アレゴリーは、言葉では表現できない隠された意味を表すための重要なツールとして、ビジュアル・アートの世界に登場してきたという(p.46)。アレゴリーには世俗的アレゴリーと神学的アレゴリーがあるとされ(ダンテによるアレゴリーの定義だ)(p.49)、とくに後者では見かけと神的なリアリティの共存が問題となる。オピキヌスの場合にはまさにこれが重要で、1334年の神秘体験においておそらくは目にしたであろう地形と人体の重ね合わせというビジョンを、なんとか解釈しようという苦闘の賜物が例の絵の数々なのだろうという。アレゴリーはまさにそのための絶好のツールをなしていた。つまりオピキヌスは、地上世界のかたちの意味を神学者のように解読しようとしていた、というわけだ。地上世界はいわば神の遺物でもあったのだ、と(p.50)。

論文著者は、オピキヌスの描く図をそのベースとなるポルトラーノ図の構成か次のら四つに分類している。(1)単一のポルトラーノ図、(2)ローカルな地図との重ね合わせ、(3)複数のポルトラーノ図の重ね合わせ、(4)ポルトラーノ図を鏡像のように連結したもの。基本となるのは最初の単一のもの。そこではほとんどの場合、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸とが男女の対の関係になっている。地形と人体の重ね合わせはときにうまくいっていないが、著者は「見るほどにそれらが人物像に見えてくる」と言っている(p.47)。写真で見ても確かにそういう感じは伝わってくる。オピキヌスが描きたいのは地形というよりは人物像なのかもしれない。いずれにせよ、その男女の対はキリスト教と異教(バビロン、あるいはイスラム)の対でもある。

けれども、オピキヌスの絵の意外さはなんといってもその重ね合わせの図にありそうだ。縮尺も違う図を重ね合わせてみたり、歪んだ鏡像がはめ込まれていたり。著者によれば、まるでオピキヌスは様々な重なり方を試しているようだという。とりわけその鏡像のような組み合わせについて、著者はそれを「目に見える世界と、恩寵に与る別様の可能な世界」との対比を示しているのかもしれないとしている(p.55)。また、入り組んだ重ね合わせの図は、もう一つの現実のゆがみを示しているのだろうとも言う。対が描き出す二項対立的な世界観を示しながら、同時にその対立関係が揺さぶられ、損なわれていくような、力動的な表象だというのだ。興味深いのは、そうした図の背景をなす理論的なビジョンとして、サン=ヴィクトル修道院の一派(サン=ヴィクトルのフーゴーなど)の哲学的立場が挙げられていること。見える世界と見えない世界という、居住世界の二重性といったあたりの話らしいのだけれど、このあたりは個人的にはちょっと不分明。調べてみないと。オピキヌスはサン=ヴィクトル修道院の一派の哲学に、ボナヴェントゥラの著作を通じて親しんでいたのではないかという(p.66)。

オピキヌスの「身体=世界論」その1:ポルトラーノ図

初夏のころに記事として取り上げたオピキヌス・デ・カニストリス。ヨーロッパの地図を人体の造形と重ね合わせるという独創的な絵というかダイアグラムというか、そういう挿絵の数々を残している14世紀の人物だけれど、今年の初頭ぐらいに、カール・ピーター・ウィッティントンという研究者による包括的な研究書(かな?)が刊行されている。『ボディ=ワールド:オピキヌス・デ・カニステリスと中世の地図作成法のイマジネーション』(Karl Whittington, Body-Worlds: Opicinus de Canistris and the Medieval Cartographic Imagination (Text, Image, Context: Studies in Medieval Manuscrift Illumination), Pontifical Inst of Medieval, 2014)という一冊。まだ未入手なのだけれど、おそらくはこれの元になっていると思われる学位論文も公開されているので、まずはとりあえずそちらに目を通しておくことにした。『オピキヌス・デ・カニステリスのボディ=ワールド、芸術家と神秘家』(The Body-Worlds of Opicinus de Canistris, Artist and Visionary (1296-ca.1354), University of California, Berkeley, 2010)がそれ。なかなか面白そうな中身なので、ここにも少しまとまった記しておくことにしよう。まず今回取り上げるのは第一章。そこでは、オピキヌスが参照していたらしい同時代のポルトラーノ図(航海用の海図)についての研究動向をまとめてくれている。

ポルトラーノ図の実例
ポルトラーノ図の実例
ポルトラーノ図としてここでは、イタリアの初期海図と目されるピサ海図と、14世紀にマジョルカ島でアンジェリーノ・ドゥルセルトが作ったとされるドゥルセルト海図の二つが主に参照されている。ポルトラーノ図の特徴は、航程線という放射状の線が書き込まれていること。海図全体をカバーする二つの円周(東西に並んで配置される)上に、それぞれ方位を一六分割した点をプロットし、それらの点同士を結んでできる線をいう。りわけドゥルセント図で顕著だというこの航程線は、この線に沿うことで進む方向が決定でき、また線同士が形作るグリッドの数などで大まかな距離も計測できるのだという(p.32)。そうした図の用い方について、なんとオピキヌス自身が述べている文章があるのだという(!)(p.33)。この、距離もわかるというのが重要で、ポルトラーノ図で分かるのは方向だけではないということが強調されている。

ポルトラーノ図の起源には諸説があるようで、決着はついていないというが、論文著者が有力視しているのは、小さな多数の海図が長い時間をかけて寄せ集められ、結合されてできたというモデル(今でいうならオープンソースのコントリビュートみたいに)(p.27)。11世紀以降の航海案内書(ポルトラーニ)に記されたデータが、初期のポルトラーノ図の編纂に用いられているといった話もある。それらの行路や距離がグリッド(格子)にプロットされているというのだ。元となったデータは羅針盤から読み取られたものだろうという(p.29)。うーん、このあたりの成立史はとても興味をそそる部分だ。論文著者は、13世紀から14世紀にイタリアを中心に用いられるそうしたグリッド方式が、12世紀から13世紀にかけて流入し盛んに議論された中世の光学(ロジャー・ベーコン、ロバート・グロステスト、アル・キンディ、アル・ハーゼンなど)による、新しい空間概念に根ざすものではないかと論じている。その上で、その新しい認識を「神の視線による世界認識」(今ならば鳥瞰図というところだけれど)と位置づけ(p.37)、それと下界の世界との関連をグリッド方式が一種のダイアグラムとして示しているのだと論じてみせる。このあたりの思考の漸進的な飛翔もまた、同論文の第一章の読みどころかもしれない。で、本論となるオピキヌスのビジョンについては以後の章ということになる。

ブラーエ、ケプラー、ガッサンディ

科学革命 (サイエンス・パレット)飛び石連休ということもあって、初期近代の科学史についての入門書、ローレンス・プリンチペ『科学革命 (サイエンス・パレット)』(菅谷暁、山田俊弘訳、丸善出版)をざっと眺めてみた。一六、一七世紀のいわゆる科学革命を総合的に、かつコンパクトにまとめていて、内容の凝縮された濃密な一冊になっている。これはある意味離れ業のような印象。しかも取り上げるエピソードのさじ加減などが従来の教科書的記述とは違い、着眼点も鋭い。たとえば天文学の発展。ティコ・ブラーエは従来型の紹介・概説などでは、新星の発見というよりは彗星の観測が詳しく記されるように思うのだけれど(偏見ですかね?)、同書ではむしろ新星の発見(しかもそれが恒星天にあるという発見)がもたらしたインパクトが重視されている印象。つづくケプラーにしても、教科書的にはケプラーの法則とかを強調したりすると思うのだけれど、ここではむしろ、惑星が六個であることをケプラーが正多角形を用いたモデルで説明してみせたことが比較的大きく取り上げられ、そうした推論を支えた神学的な動機が指摘されているという寸法だ。あるいは原子論。ガッサンディによるその復権もまた、神学的な裏打ちが伴っていて、原子が永遠でなく自発的に動くものでもないとされたことなどが指摘されている。

世界の見方の転換 3 ―― 世界の一元化と天文学の改革さてこのブラーエとケプラーのライン、もっと詳しく知りたい場合にちょうど手頃なのが、春ごろの刊行だった山本義隆氏の最新刊『世界の見方の転換 3 ―― 世界の一元化と天文学の改革』(みすず書房、2014)。この第三巻はまさにその両者が主役。上のティコの新星発見の場面や、ケプラーの正多面体でのモデルの話なども当然触れられている。これまでの著作でもそうだったけれど、氏の著作では取り上げる人物たちの生涯やその時代背景などが幅広く、かつ細かく言及される。そういうディテールでぐいぐい引っ張っていく感じは今回も健在。そんなわけだから、ブラーエとケプラーが主役ながら、ガッサンディもちょっとだけ登場したりする(笑)。なるほどガッサンディはコペルニクスの理論を評価していたものの、宗教上の立場からティコの体系を支持せざるを得なかった、と。この話、以前ほかにもどこかで読んだ気がするが、ちょっと思い出せない(苦笑)。ちなみに上の『科学革命』では、ガッサンディは1631年に、ケプラーが予測していた水星の太陽面通過を始めて目撃した人物だとされている。なるほど。

イブン・シーナーの因果論

つい先頃、カルターリ『西欧古代神話図像大鑑 続篇―東洋・新世界篇』(八坂書房)の邦訳を刊行された大橋喜之氏のブログ「ヘルモゲネスを探して」で、アヴィセンナの霊魂論・能動知性論についての記事があったのに触発されて、久々にイブン・シーナー関連の論考を読んでみた。シャムスッディン・アリフ「イスラム哲学における因果関係:イブン・シーナーの諸議論」(Syamsuddin Arif, Causality in Islamic Philosophy: The Arguments of Ibn Sina, Islam & Science, vol.7, 2009)というもの。基本的なところを押さえようとしていて、個人的にはとても有用な一篇だ。「事物を知るとはその原因を知ること」がアリストテレスにおける知の在り方だとするなら、原因に関する考察は知そのものをめぐる議論にも関係していくはずだ。で、論考の中身だけれど、イブン・シーナーの原因・結果論でまず特徴的なのは、アリストテレスの四原因論を踏まえつつも、そこに独自見解を加えている点なのだという。とくに作用因についての解釈が独特で、作用因は単に変化や運動をもたらすのみならず、事物の「存在の原因」、「存在をもたらすもの」をもなしていると考えているのだという。さらにまた、そのものとしては可能なものである偶有的な存在であろうとも、それが存在にいたるには必然的にそうなるのではなくてはならないとし、作用因(に限らず原因全体)が存在するのであれば、ほかの条件がすべて満たされるなら、結果もまた必然的に存在するのでなければならないと考えているのだという。つまり作用因は、存在化の原因であるとともに、必然化の原因でもあるということだ。作用因と結果との繋がりは、単に「外延を共有する」というだけでなく、「存在をも共有する」ということになる。このあたりはなかなか面白い議論になっている。また、そこでは「ほかの条件が満たされるなら」という部分がミソで、生成と消滅が繰り返される月下世界では、そうした本性的な条件が揃わないこともあり、結果的にその帰結が偶有的な存在であることも認められるということになる、と。

一四世紀の情念論

先に見た清水真木『感情とは何か』によると、デカルトまでの情念論は情念の分類に始終していたという話だった。しかしながら、多少とも実際のテキストから受ける印象は、「分類に始終」というのとは微妙にズレるような気がする。おそらくは「分類」の様態なり動機なりが独特なものだったからではないかと思うのだけれど、そのあたり、きちんと言語化するのは難しい。かつてのそれをどういう分類と位置づければいいのか……なんてことを念頭に置きつつ、さしあたり一四世紀の情念論を扱った論考を眺めておくことにした。ドミニク・ペルラー「感情と認識−−魂の情念に関する一四世紀の論説」(Dominik Perler, Emotions and Cognitions – Fourteenth-Century Discussions on the Passions of the Soul, Vivarium, vol. 43, No.2, 2005)というもの。必ずしも全体像が明確なわけではないオッカムとその後のヴォデハムによる情念論を、体系的に再構築しようという試みだ。

まずオッカムは、情念はあくまで感覚的な知覚によって生じるものと位置づけ、知性はそこにいっさい関与しないという立場を取る。直観的認識(知覚の場合)でも抽象的認識(記憶などの場合)でもいいが、対象を感覚が捉えることによってなにがしかの感情が直接的にせり上がる以上、知性(つまりは概念化)はそこに関係していない、と見るわけだ。つまりは対象が情念をもたらすのではなく、世界についての人間の感覚的認識が情念をもたらすのだということだ。情念は感覚に帰結するのであり、オッカムはそこに認識内容がなくともよいとすら考えているという。その一方でオッカムは、そうした感覚的認識に際して意志が介在することで、情念をある程度制御することもできると考えている。そしてまた、意志は人間の高次の行為をもたらすものであることから、意志がもたらす情念というものもある、と想定しているという。例として挙げられているのが(いかにも中世的なものだが)「享楽(fruitio)」についての議論。その最たるものは死後の離在的な魂が神を観想する際の至福とされるわけだが、その場合、感覚器官のない魂がどうやって享楽を得るのかが問われることになる。そこから、非感覚的な情念の構造や原因が議論されることにもなる。で、その場合でもオッカムは、享楽を「知性によって概念化された情念」と見なす当時の他の論者たちとは異なり、意志のみから生じる働きだとしているという。なかなか徹底している。けれどもその場合、それは厳密な知的作用とはどう違うのかといった問題が生じてくる。

オッカムが明確な回答を寄せていないそうした問題に、徹底的に拘ることになるのがヴォデハムだ。ヴォデハムは「意志的な情念」にまつわる構造を細かく検討してみせる。まず、享楽対象の最初の認識は、その対象による享楽とは異なるとし、その情念の生成に知的作用が必要であることを認める。知性は部分的な原因をなしているというのだ。けれども情念は認識とイコールではない。ヴォデハムは一種の折衷案を提示する。情念は、知性による認識と、意志そのものとの両方を原因とする、認識対象を伴った意志の状態だとされる。情念とはいわば事物のある種の概念化の方途であるというのだ。ただしそれは必ずしも判断を伴うものではない。一方でそれは必ずや理解を伴っている。こうして最終的に、ヴォデハムは認識を再分割し、感覚的認識、知的認識、さらに単に理解のみを伴う意志的認識、判断をも伴う意志的認識などを分けて考えることになる。オッカムの議論を補足するものとしてもともとは構想された、この高次の認識の分類ではあるけれど、その煩雑さにはリミニのグレゴリウスやアイイーのペトルスなどによって、オッカム的な批判が浴びせられたのだそうだ。主知主義か主意主義かという文脈において、ヴォデハムは知性寄りの譲歩を行うも、主意主義を保つために苦労して認識の分類を練り上げていることがわかる。でもそれならば、最初から知性が認識を一手に引き受けるとすればよいではないか、意志はただ情動的なものを付け加えるだけだとすればよいではないか(リミニのグレゴリウス)という話が出てくるのも頷ける。なるほど、オッカムがいくぶん単純に分割してみせるところに、ウォデハムはもっと曖昧で混沌としたものを見てとっているように見える。それをあえて明確化しようとして、細かい分割に行き着くしかなくなっているように……。