アーバノのピエトロと霊魂付与説

15世紀のヘントのユストゥス(ヨース・ファン・ワッセンホフ)とペドロ・ベルゲーテによる、アーバノのピエトロの肖像。著名人を描く連作の一つとか。
15世紀のヘントのユストゥス(ヨース・ファン・ワッセンホフ)とペドロ・ベルゲーテによる、アーバノのピエトロの肖像。著名人を描く連作の一つとか。
前回見た論集『霊魂論と他の諸学科−−学際的相互作用の一事例』からもう一つ、今度は14世紀の霊魂論と医学の関わりを、当時としても特異な例をなしていたとされるアーバノのピエトロ(1257頃〜1315頃)を例に詳述している論考を取り上げておこう。マテュー・クレム「肉体の実体的形相としての魂に関する医学的見地−−アリストテレスとガレノスの調停にまつわるアーバノのピエトロの論」というもの(Mathew Klemm, A Medical Perspective on the Soul as Substantial Form of the Body: Peter of Abano on the Reconciliation of Aristotle and Galen, pp.275-295)。ピエトロの特異性は、哲学者・神学者らの間で魂を物質から独立したものとする考え方が趨勢を極めていた当時、それらとは一線を画し、医学的見地と哲学との「調停」を果たそうとした点にある。ドミニコ会系の一部の論者たち(パリのサン=ジャック修道院の)からは、ピエトロの議論は唯物論扱いされ、知的霊魂が質料の潜在性から生じると論じているとして糾弾されたりもしているというが、論文著者による主著『調停の書(Conciliator)』での胚胎と魂の出来の議論のまとめで見る限り、それらは以前個人的にもメルマガなどで見たエギディウス・ロマヌスのものとそんなに違ってはいない印象を受ける。論文著者が言うように、要は「自然のものは自然のものとして」(de naturalibus naturaliter)扱うという(アルベルトゥス・マグヌスに由来する)スタンスを堅持しているということ。ロマヌスの議論もベースはガレノスとアリストテレスにあり、簡単に言えば、父親側からの精気に由来する形成力と母親側に由来する質料との結合から諸器官が作られ、体が出来上がってしかるべき準備が整うと、神的な介入によって知的霊魂が吹き込まれるという説だった。ピエトロもほぼ同じプロセスを描き出しているようだけれど、特徴的な部分があるとすれば、それは精気が特質としてもつ熱の論理の強調というあたりかもしれない。それは天空世界を司る熱と一続きのものだとされる。ロマヌスのほうはそこまではっきりとは言っていなかったように思う(要確認)。論文著者はブルーノ・ナルディの見解だとして、ピエトロの霊魂観がトマス・アクィナスのものと一致するとの話を紹介している。上のロマヌスはトマスの弟子筋なので、さもありなんという気もしないでもないが、そのすぐ後で論文著者は、トマスへの実際の言及は実に少ない点を指摘したりもしている。またその上で、サン=ジャック修道院のドミニコ会士らの批判も、ある種の政治的な文脈でなされていることを示唆している。彼らがトマスの教説のある種特殊な解釈をしていたか、あるいはまた単一形相説の擁護のために、ガレノスの霊魂論擁護者を唯物論者として排除しようとしていたかだ、というわけだ。

ヴィエンヌ公会議とフランシスコ会系論者たち

55065『霊魂論と他の諸学、学際的相互作用の一事例』(Psychology and the Other Disciplines: A Case of Cross-disciplinary Interaction (1250-1750) (History of Science and Medicine Library: Medieval and Early Modern Science, 19), J. M. Bakker et al., Brill, 2012 )という論集から、ウィリアム・ドゥーバ「ヴィエンヌ公会議以後の霊魂論:複数形相説と複数霊魂説についてのフランシスコ会系神学者の見解」(William Duba, The Souls after Vienne: Franciscan Theologians’ View on the Plurality of Forms and the Plurality of Souls, CA 1315-1330)というやや長めの論考にざっと目を通してみた。ロバート・パスナウが『形而上学的テーマ』で示したテーゼを受けて、14世紀のフランシスコ会派の論者たちによる、複数形相説をめぐる様々な異同をまとめてみせるという意欲作。ヴィエンヌ公会議(1311年)はテンプル騎士団がらみの裁定が有名だけれど、一方で「知的魂そのものが基本的に肉体の形相をなしている」ということも宣言していて、名指しこそしないまでも、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの見解が事実上糾弾されている。オリヴィの見解は、知的魂は肉体の形相ではありえず(直接結びついてはおらず)、それは感覚的魂を通じて肉体と結びついている、というものだった。パスナウは、この公会議での決定は重大な影響を与え、フランシスコ会派のその後の論者たちを一様の見解へと向かわせ、アリストテレスの形而上学的推論への疑問を発することを妨げたと見ている。けれどもドゥーバは同論考で、公会議とほぼ同時代の14世紀前半の論者たちの見解を再考し、そこに基本は一様ながら多様なニュアンスの差を見出している(しかもその一様な部分も、外部の圧力というよりはパリ大学関係者たちの共通の講義内容を産出しようとする努力だったと見る)。

個別の議論は煩雑になるので割愛するが(少し詳しい紹介がこちらのブログ(「オシテオサレテ」)にある)、結論部のまとめを見ると、論文著者は大きく三つの流れを分けている。一つめはニューキャッスルのヒュー、メロンヌのフランソワ、ガルダのヒンベルトの一団で、基本的に複数の魂が、これまた複数の形相から成る肉体に与えられているという立場を取る。二つめは、ランドルフォ・カラッチオロ、マルキアのフランチェスコ、ゲラルドゥス・オドニスらで、肉体に宿るのは単一の知的魂だが、肉体のほうは別の形相と質料からなる複合体と見る立場。三つめはペトルス・アウレオリの、知的魂を特殊な形相と見る立場とされる(アウレオリは公会議前後で多少とも見解を変えているらしい)。最初の二つはドゥンス・スコトゥスの複数形相説が出発点をなしていて、前者は複数の部分的な形相の議論、後者は実体的形相が連続的に階層をなすという議論に力点を置いているのだとか。個人的に興味深いのは、著者が論考内のいくつかの箇所で取り上げている、スコトゥスによるゲント(ガン)のヘンリクスへの批判。ヘンリクスは知的魂とそれ自体実体をなす(形相と質料から成る)肉体といういわば二形論を取り、スコトゥスのほかその弟子筋のニューキャッスルのヒューなどがそれを批判している。ヘンリクスが二形性を論じるのは、知的魂には空間的な延長(広がり)がなく、一方で肉体は空間的延長を必要とするといった理由によるといい、スコトゥスは知的魂が機能として含む感覚的・植物的魂が空間的延長を担っているとして、肉体固有の(別の)形相は不要だとしているのだという。マルキアのフランチェスコなどもその議論をさらに敷衍し、たとえば感覚的魂も空間的延長をもたないと論じているのだとか。とはいえ、同フランチェスコやゲラルドゥス・オドニスなどはニ形論的な立場を取っていたりもするようで、このあたりはやはり微細な差異がとても興味深い。ぜひ確認を取ってみたいところだ。

分離と差異の共同体……

福島大学で教鞭を執っている知り合いが急逝したという悲報を、今週の半ばに受けた。学部と院時代の同期だけれど、親しいわけではなかった。とくに院では、向こうが留学から帰ってくるタイミングでこちらが留学するという感じですれ違ったので、本当にわずかしか言葉を交わしたことがなかった。でも、一応の学問を目指すという意味での淡い連帯感のようなものは−−もちろんそれはこちらの独りよがりだが−−間違いなく感じていたと思う。そのため、訃報に接した衝撃が去った後は、どこかひりひりとした感触だけが残った。ユルスナールやデュラスの研究者だったが、考えてみると彼が書いたものをこれまでちゃんと読んだことがない。そんなわけで、弔いという意味合いも込めて、その文章に接してみようと思い立った。幸い手元にトラウマと喪を語る文学』(中里まき子編、朝日出版社、2014)があり、これに氏の短い論考が掲載されている。林修「マルグリット・デュラスにおける共同体の再構築」というものだ。

deuil_et_traumatisme同書は震災後に、岩手大学で開催されたというシンポジウムなどの発表を中心にまとめた論集。文学における喪というテーマを軸線として、宮沢賢治についての研究報告や、(個人的にとくに興味を覚える)アルヌール・グレバン『受難の聖史劇』(15世紀)、フランス古典主義における悲劇、ミシュレを扱ったものなどなど、多岐にわたる研究発表が収録されている。上記の氏のデュラスについての論考は、デュラスの考える「共同体」観を、その諸作品に描かれる人間関係についての問いから捉え返そうとするもの。そこから導かれるのは、精神分析が言うエディプス的な主体構築とは別様の、自発的な禁制によって築かれる分離と差異に彩られた新しい主体化と共同体の可能性なのだという。デュラスが抱くそのようなビジョンについて、「お互いの無理解、他者の不可解性に基づいた共同体とはどのようなものなのか」「現実の社会において実現可能であるのか、それとも「明かしえぬ」ものに留まり続けるのか」と氏は問いかけつつ、それは「政治的なプラクシスに入り込む」がゆえにさしあたり扱わないとして、論考はデュラスがその到来を切望していたことを示唆して閉じられる。けれどもそのプラクシスの可能性こそ、今や真に問われるべきことなのかもという意味で、これはとてつもなく大きな置き土産といえるかもしれない。

アラブ世界のピュタゴラス受容

これまた久々だが受容史もの。アンナ・イズデブスカ「中世アラブ知識人たちのピュタゴラス哲学への姿勢」(Anna Izdebska, The attitudes of medieval Arabic intellectuals towards Pythagorean philosophy: different approaches and ways of influence, author’s personal copy)というもの。ピュタゴラス思想のアラブ世界での受容ということで、なかなか興味をそそる。未刊行の論考らしいのだけれど(著者はこのテーマで博論準備中なのだとか)、先行研究を実にコンパクトにまとめていて有益だ。初期のギリシア文献の流入時、その翻訳に当たった人々の間では、ピュタゴラス派の思想はただ単にギリシア思想全体の布置の中に刻まれて、とりたてて積極的に評価されることも批判されることもなく、黄金詩編の作者であるとか、哲学を始めてその名で呼んだ人物であるとか、そういった逸話とともに記憶される存在だったらしい。アル=キンディ(9世紀)あたりもピュタゴラス派に対する評価は釈然としないという。ゲラサのニコマコスによる『算術入門』を訳したイブン・クッラ(同じく9世紀)も、実のところのピュタゴラス評価は不明らしい。一方で8世紀から9世紀に52人の哲学者の論文を集めた『書簡集』の編纂グループとされるイフワーン・アッサファー(純正同胞団)になると、どうやらピュタゴラス思想を重要視していることが窺えるのだという。さらにピュタゴラス思想を積極的に評価していた一団として、イブン=ハイヤーン(9世紀)などの錬金術関係の人々がいた。アル・ラーズィー(10世紀)なども同様。

これに対して、アリストテレス思想のシンパたちからは、それを批判する声が出てくる。ユダヤ人ながらアラビア語で著書を残しているマイモニデス(12世紀)や、イブン・バージャー(12世紀)はその代表格だというし、やや両義的ながらイブン・シーナー(11世紀)にもそういう視座が見られるという。そしてアル=ガザーリー(12世紀)。論文著者によれば、大元のアリストテレスは確かにピュタゴラス派を軽視してはいるものの、それはあくまで前の時代の哲学者たちを不完全なものと見なして、自説に必要な要素を選択するに留めていた。ところがその思想圏の影響下に置かれた人々は、この姿勢をいっそうラディカルに捉えて、アリストテレスがピュタゴラス派を「古くさい」と一蹴しているという風に見なすようになった……。このあたり、アラブのアリストテレス主義者たちは上のイフワーン・アッサファーなどへの反発なども加わって先鋭化していったようにも思われる。だとするなら、これは思想の伝達の機微といったものを改めて感じさせる事象でもある。一方、やはり12世紀ごろには、上のイフワーン・アッサファーの伝統を引く形で、ピュタゴラスとアリストテレスの調停を図ろうという人々も現れた。その一人がアル=スフラワルディだったという。同論考によれば、それぞれの評価には研究者の間でも微妙な解釈の違いなどがあるようで、こうしたまとめの俯瞰だけではとうてい語り尽くしたことにはならない。また、ピュタゴラス派の秘教的な性格やイスラム世界の宗派的対立(イフワーン・アッサファーはシーア派、しかもイスマイール派で、スンニ派のアル=ガザーリーなどはとうてい認めらない相手だった)など、受容史との関連に限っても考察すべき点はまだまだたくさんあるようだ。

アラス『イタリアの受胎告知図』

L'Annonciation italienne Nouvelle édition: Une histoire de perspective久々だけれど、ダニエル・アラスの美術史本を読み始める。『イタリアの受胎告知−−パースペクティブの歴史』(Daniel AraseL’Annonciation italienne Nouvelle Édition: Une histoire de perspective, Éditions Hazan, 1999-2010)。まだほんの冒頭部分だけれど、すでにしてとってもエキサイティング。フラ・アンジェリコの『受胎告知』のような、画面の左と右にガブリエルとマリアを配した受胎告知図について、その成立から後の展開までを追うというもののようだけれど、多数の受胎告知図が収録されていて、それだけでも見る価値があるというもの。成立については、他の画家の着想源となった失われた「プロトタイプ」があるのではないかという話が以前からあり、『芸術家列伝』のヴァザーリによれば、マサッチオ(1401-28)が描いたサン・ニコロ・オルトラルノ教会の≪受胎告知図≫が嚆矢だとされるものの、これは失われているらしい。近年の見解として、マサッチオというのはヴァザーリの誤りで、実はマゾリーノ・ダ・パニカーレによるものだったのではないかという説もあるのだとか。けれどもその説にも諸処の問題点(ヴァザーリの記述との齟齬など)があるといい、一方でアラスは、マサッチオが描き、ヴァザーリの記述にも呼応する絵が、ローマのサン・クレメンテ聖堂のサンタ・カレリーナ礼拝堂にあると指摘する。これを通じて、アラスはマサッチオのもたらした革新性を分析していく。ガブリエルとマリアの間にスペースが置かれることにより、三分割の構成が成立していることや、このサン・クレメンテ聖堂の絵の場合のように、描かれた建造物の消失点が奥のキリストの磔刑図に集まることで、キリストにまつわるストーリーの全体が喚起される構造になっていること、そして、ビザンツ以来の天使と聖母が別々に枠付けされるという伝統の配置が、同一平面に置かれたことの革新性などなど。うーむ、なんと豊かな意味論上の広がり、横溢と流出であることか……。

ちなみにそのサン・クレメンテ聖堂のフレスコ画は、たとえばこちらを参照のこと。