概念の内実へ

数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険近藤和敬『数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険』(青土社、2013)を読み始める。まだ第一部だけだけど、すでにしてとても重厚で濃い感じの議論が展開している。数学を事例として、概念というものの内実へとアプローチをかけていくという試み。ポイントなるのは、まず一つには概念においてすらその措定には「歴史的経緯」というものが伴われているという観点、もう一つには、概念が「構成的」な動きに関わるという観点。概念を措定する以前から、その概念がやがて指し示すことになる内容、すなわち直観的な行為や作用、経験などは存在しているものの、ひとたび概念が措定されれば、そうしたもとの内容を呼び出す必要はなくなり、その概念を用いさえすれば内容に関わる操作が可能になる。一方でその概念措定に際しての論証のプロセスは新たな表象を産出するプロセスを呼び起こすことにもなる。こうして連綿とした概念措定の史的繋がりが浮上する(同書ではたとえばライプニッツから現代にいたる関数概念の変遷などが言及されていたりする)。けれども「概念設定は、謂わば光学装置のようなものであり、そのスペクトルの設定を変更することで、たちあらわれる世界が変わってくる」(p.83)という。こうして、ひとたび措定された概念は、それ自体がまた経験の対象となり、「経験も概念もともに独特の変容を被る」(p.87)。その意味で、概念の内包的定義というものは非網羅的であらざるをえず、存在の同一性という(一般的な)存在論の基盤を揺るがすものでもある、と……。

数学の世界が、概念とともに新たな世界観をもたらすという歴史に彩られているとすれば、それを支えているのは概念をも巻き込む経験にほかならない。そこで言う経験とは、規則に支配された振る舞いのことだと規定される。「規則にしたがうことは、規則の意味や根拠を知ることなく可能であり」、数学世界での規則への追従は、「自発的な振る舞いが、命令にしたがっているという事実を、その結果として生み出すもの」(p.117)だという。つまり、それはまさに構成的なものなのだ。その振る舞いはやがて概念に縮約されていく。そのプロセスを、同書は擬・概念(未完成の概念)から概念への落とし込みという形で描き出そうとしている(素数についてのリーマン予想などが引き合いに出されている)。そこから、概念(ないし擬・概念)の機能というのはつまるところ、「知るための方法をもたない規則(一般性)を、その結合によって問題として言明することができるということにあるのではないか」(p.131)と同書は言う。ここでの「問題」は、なんともドゥルーズ的な「問題」だ。概念はほかの概念との結合を通じて、「ふたたび未規定な状態にもどる」(同)。その開かれた問題がさらなる概念を巻き込んでいく。

ごく限られた希有の才能による概念結合の火花が、より多くの媒介的知性による検証を経て定着していき、それをまた概念として新たな概念結合が導かれていく、というのが学問的発展のプロセスなのだとするなら、そのプロセスの端緒というか、第一のレベルへと肉迫していこうとする同書自体もまた、そうした概念結合の実践の場をなしている、と言えるのかもしれない。少なくともこの第一部に関しては、現代思想的なリファレンスをさほど多用することなく説き起こしているところに、個人的にはとても共感する(第二部以降は少し趣向が異なってくるようなのだけれど……)。

『推測について』

Les Conjectures先日のフラッシュ『ニコラウス・クザーヌスとその時代』によれば、クザーヌスの三番目の著書となる『推測について』(執筆年代は1442年から43年頃とされているけれど、問題含みではあるようだ)は、どうやらクザーヌス思想の転換点(前期と後期の)に位置する重要な一冊らしい。とはいえ、意外にスルーされることも多いような印象を受ける(あくまで印象だが)。というわけで、そうした個人的な気がかりから、『推測について』の仏訳本(Nicolas de Cues : Les Conjectures, trad. Jocelyne Sfez, Beauchesne, 2011)を読み始めた。まずは訳者ジョスリン・スフェズによる解説序文。上のフラッシュ本でも、それ以前の『知ある無知』での、人間は確実なことを知ることが適わないという無力さから、『推測について』ではむしろ強調点が「あらゆることへの到達可能性」に移っているとされている。スフェズの解説でも、人間の認識するあらゆることが推測にすぎないという「汎推測論」が、そのこと自体のうちに孕んでいる豊かさを開示するという逆説として取り上げられる。否定神学から肯定神学への反転?人間は神の似姿あである限りにおいて、神が創造した被造物に匹敵する豊穣さを、概念として脳裏に抱くことができるとされるのだ、と。確かに本文のさわりをみても、「汎推測」論とそれを支える合致(合一?)などの基本原理も含めて、そうした肯定感はひしひしと伝わってくる。まだ冒頭部分だけなので、今後特記すべきことがあればメモしていこう。また後世への影響なども気になるところだけれど、フラッシュは一例としてピコ・デラ・ミランドラによる人間賛美を挙げている。

『ニーベルンゲンの歌』の精神史……

カタストロフィと人文学西山雄二編『カタストロフィと人文学』(勁草書房、2014)を読んでみた。震災後をめぐって人文学がどういった貢献ができるのかについて、手探りでの続けられてきた様々な試行錯誤を結集した論集の一つ。人文学ではどうしても「タイムラグ」が必要とされるので、寄稿している論者たちの言葉もときにどこか要領を得ないものになったりするのだけれど(とくにフランスの論者たち)、個人的にはたとえばジゼル・ベルクマンがさりげなくデュピュイの災害論を、宗教的側面をあえて解釈しようとしているとして批判しているところなどは面白かったりもする(笑)。「津波から引き出すべきいかなる形而上学もない」というわけなのだが、ではベルクマン自身はそこでどのような思想を示すことができるのだろう、という点が気になる(収録の文章からはまだ今一つ窺えない……)。

やはり個人的関心からの注目は、第四部の「カタストロフィの比較文化」。この中に第八章として、山本潤「破滅の神話−−近代以降の『ニーベルンゲンの歌』受容とドイツ史」という論考が収録されていて、これをとりわけ面白く読んだ。『ニーベルンゲンの歌』(成立は13世紀初頭とされる)は、本来なら後日談に相当する『ニーベルンゲンの哀歌』とペアで伝承・受容されるべきものだったのに、いったん忘却されて18世紀に再発見されたとき、すでにして『哀歌』が切り離され、本来の姿からすればいびつな形で流布されていったのだという。再発見を手がけたボードマーは、この叙事詩を『イリアス』に関連づけるなど、すでにしてそれを「国民叙事詩」にする基盤を作っていた。それを実際に「国民叙事詩」として称揚したのが、19世紀初頭のハーゲンで、この文学作品は「原ドイツ的美徳」(生き様ばかりか死に様をも含めた)が見出され(あるいは付加され)て、政治状況と絡んで「ドイツ史の予型的性格を帯びることになる」(p.229)とされる。さらにこの叙事詩は、第一次大戦、第二次大戦と、「その時々の政治的状況に合わせた恣意的な解釈が行われて」(p.232)いく。とくに第一次大戦後などは、敗戦のような破局的状況すらも、それを反省するどころか、民族的美徳として讃えられるといい、その祖型として『ニーベルンゲンの歌』は用いられていくのだ、と。こうした「偏向受容」、「主観的な「あるべき姿」の投影を見出し、それに合わせて作品自体を理想の枠へとはめ込む形」(p.240)での「再発見」は、なるほど後付け的に見出されるしかないものなのかもしれないが、それをよりリアルタイムに近い形で認識し、イデオロギー的な偏向を脱臼させていくようなことはできないのだろうか、というようなことを考えてみたくなる。いわば「人文学的」タイムラグこそを埋める、もしくは縮めることはできないのか、できるとしたらどうすればよいのか……という問題なのだが、さて……?

クザーヌスの一貫性?

26336401_1クルト・フラッシュ『ニコラウス・クザーヌスとその時代』(矢内義顕訳、知泉書館)を読む。クザーヌスの生涯を、刊行された著書の中心思想を軸に、時代状況その他にも丹念に目配せしながら描き出した良書。小著ながらとても読ませるものになっている。思想面ではそれまでにない否定神学を突き詰めていくクザーヌスだけれど、一方でその職務や政治的なスタンスではきわめて実利的な面が浮かび上がる。リアルポリティクスに関してはきわめて柔軟に対応し、公会議主義から教皇派へと立場が移っていったりもするクザーヌス。一見二面性であるかのような複雑な立ち位置だが、両サイドを繋ぐ、あるいは貫く、なんらかの水脈を同書は示唆するかのようだ。前期クザーヌスの「合致」の考え方は、やがて後期の実在の一性へと深化していくというが、反面、現実の教会政治は失敗続きとなる。けれどもそれが、むしろクザーヌスの真理の獲得への確信を深めていくのだという。このあたり、とても刺激的な問題提起として読むこともできそうに思える(もちろんそうした研究もなされているだろうから、少し探ってみたい)。

これにも関連するけれど、前期クザーヌスの『知ある無知』に対するジョン・ヴェンクの批判に、クザーヌスが反論として著した『無知の教えの弁護』(Apologia Doctae Ignorantiae)に、思想のみならず実践的な「合致」の思想を見るという小論が、さっそく目に飛び込んできた。ジャン=ミシェル・クーネ「否定神学のための弁護と和解の意味」(Jean-Michel Counet, The Meaning of Apology and Reconciliation for an Apophatic Theology, Conflict and Reconciliaton: Perspectives on Nicholas of Cusa, ed. Inigo Bocken, Brill, 2004)。肯定神学にもとづく攻撃的なヴェンクの批判を、クザーヌスは自説の真意を(読者に)理解してもらうために有益だと受け止め、改めてそれが言葉のレベルではなく、純粋な知性でのレベルの教説なのだということを訴えているのだという。これもまた一つの合致思想。上のフラッシュによれば、クザーヌスは中期の『眼鏡』において、「合致は万物の中にある」と説いているという。

グロステストの学知論

少し前にメルマガのほうで、グロステストの『光について』を読んでみたのだけれど、それは宇宙開闢論にまつわる「光」(原初の物体性をもたらすとされる第一の形相)について論じたものだった。で、その時に参考にしたマッケヴォイ『ロバート・グロステストの哲学』(James Mcevoy, The Philosophy of Robert Grosseteste, Oxford University Press, 1982-2011)では、それとは別に、グロステストには「光」を学知論に結びつける議論もあることが示されていた。そのあたりは後で改めて検証しようと思っていたのだけれど、その問題に直接的にアプローチしている論考をたまたま目にすることができた。サイモン・オリヴァー「ロバート・グロステストの光・真理・経験論」(Simon Oliver, Robert Grosseteste on Light, Truth and Experimentum, Vivarium, Vol.42, No.2, 2004)という一篇。これによると、グロステストにおいて「光」は、観察、自然学、数学、形而上学、神学を結びつける重要な要素をなしているといい、基本的な図式はアウグスティヌスの照明論を引き継いでいるものの、少し後のゲントのヘンリクスの照明論などに比べると、「光」が知そのものを指し、それと渾然一体となっている点などが際立った特徴をなしているようだ。以下、メインストリームだけを要約しておこう。グロステストにおいても神の光は太陽になぞらえられているのだけれど、それは太陽が色(減衰した光)をもたらすという意味においてであり、神の光は人間に、被造物についての減衰した真理をもたらすとされるという。そこには決定的な断絶があり、人間が真理に近づくには運動や時間といったものを介さないわけにはいかない。偶有的なものの観察を通してのそうしたアプローチは、つまりは感覚を通してのアプローチということなのだけれど、被造物が「光」(コスモゴニー的な光か?)によって創造されている以上、それらの観察はすでにして光に与ることにほかならず、神のイデアという最高位の知的光への到達に向けた第一歩がそこから始まるのだとされる。この意味で、そこでの「光」とは、(ヘンリクスなどが考えているような)魂に内在する能力のみでの認識に神の照明が「付加」されるといったものではなく、最初からすべての知的営みが神の照明に与っているのだとされる。すなわち神の照明とは学知そのものである、というわけだ。なんとも強烈な照明論。主に『分析論後書注解』がこのあたりの重要文献のようなので、それもぜひチェックしたいところだ。

上のマッケヴォイ本:

The Philosophy of Robert Grosseteste