アンチ世界永劫論−−ボナヴェントゥラの場合

かなり前にダウンロードしたベンジャミン・ポール・ウィンター「ボナヴェントゥラによる六つの反・世界永劫論の哲学的・神学的分析」(Benjamin Paul Winter, A Philosophical and Theological Analysis of Bonaventure’s Six Arguments against the Eternity of the World, Villanova University, 2014)(修論のようだが、あれれ、これは現在ダウンロード不可?)にざっと眼を通す。ボナヴェントゥラはアリストテレスの議論を踏まえつつも、その「世界永劫論」に対しては否定的なスタンスを取っていた。けれどもそれはトマス・アクィナスなどの議論とは大きく異なっている……。というわけで、同論考はそのあたりを具体的に見ていこうとし、結果的にまとめとして有益な論考になっている。ボナヴェントゥラが展開した議論は6つ(ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』への注解として論じている)。(1)無限には別要素を加えることができない。(2)無限の数は秩序づけることができない。(3)無限であるものを横断することはできない。(4)有限の能力によって無限を掌握することはできない。(5)無限数の事物が同時に存在することはありえない。(6)無から有になったものが、永遠の存在を得ることはありえない。論文著者はこのうち(1)から(3)を数学的・哲学的議論、残りを神学的議論(無からの創造の教義に関わるもの)と区分している。

個人的にはとりあえず前者に目が惹かれる。ボナヴェントゥラが問題にしているのは現実態としての世界の永劫性だ。最初の三つの議論は、どれも数の無限が「現実態として」はありえないという論点にもとづいている。算定できるような数的無限は定義上あり得ず、無限同士の比較もできない、とされる。地球の回転、太陽の回転、月の回転は、数量的に互いに異なっているかもしれないが、無限の回転という意味では同一だとされる。けれども、今日の回転が昨日までの回転よりも一回分多いことは理に適っており、したがってその回転が無限だという前提は誤っていることになる……これが(1)の議論。また「最初」が特定されないならば、2番目以降も特定されえず、そこにはいっさいの序列、秩序がありえないことになってしまう。だが第一原理の存在は認めなくてはならない云々。これが(2)の議論。「過去」を潜在的に無限の出来事が連なるものと考えた場合、そこには時間と出来事との対応関係がなくてはならなず、時間もまた無限ということになるが、そうした属性を認めるかどうかが問題となる。ボナヴェントゥラはもちろん、そうした対応関係を認めない。これが(3)。これら三つの議論はどれも相互に連関している。無限同士の比較(それが可能になれば全体の連関が崩れる)という議論が出るのには、ボナヴェントゥラの次の世代以降(一四世紀)を待たなくてはならないのだけれど、この論考はさしあたりそうした思想史的な話を追おうとはしていない。そこがちょっと個人的には残念……かな?

偽プルタルコスの音楽史

Moralia, Volume XIV: That Epicurus Actually Makes a Pleasant Life Impossible. Reply to Colotes in Defence of the Other Philosophers. Is 偽プルタルコスの『音楽について』を、Loeb版(Moralia, Volume XIV: That Epicurus Actually Makes a Pleasant Life Impossible. Reply to Colotes in Defence of the Other Philosophers. Is “Live Unknown” a Wise Precept? On Music (Loeb Classical Library))で一通り読んでみた。これもなかなか面白い。音楽に詳しい二人の人物が、招かれた食事の席で音楽史というかその来歴について蕩々と語るというもの。最初に話をするリュシアスは、音楽がキタラに合わせて唄うことから始まったとし、ゼウスとアンティオペの子、アンピオンを開祖としている。神話世界からの連続的な歴史記述が面白いが、その中でも笛などの音楽よりもキタラのほうが古いと述べているのが印象的だ。笛も最初は伴奏用で、それから単独で演奏されるようになったとされている。さらに、ドーリア、フリギア、リディアの各旋法も古くからあったとされ、時代が下るにつれていくつかのノモスが確立されていくと説明される。ギリシア音階のエンハーモニーの考案者はアリストクセノス(前四世紀:最初の音楽理論家ともされる)だといい、リズム形式についてはテルパンドロス(前七世紀:四弦キタラを七弦にした人物でもある)が革新的だ、などと述べている。で、それに続いて今度は、ソーテリコスが語り始める。そちらは古代の人々と近代(というか同時代の)人々との対比を取り上げ、ミクソリディア旋法などの台頭について述べてみせる。詩人たちが悲劇を伴奏するようになっても、なかなかあえて半音階を用いることはなかったが、それは「近年」になって用いられるようになってきた、という(キタラの音楽ははじめから半音階が用いられていたとされたりする)。一方でリズムに関しては古代のほうが複雑だったという。そこから今度は和声法的な話になり、数比の話などが出てくる。戦と音楽、テルパンドロス(再び!)の革新性、ヒポリディア旋法の考案(ポリュムネストスとされる)、熱狂的叙情詩(ヘルモネのラソス)、音楽教育の基本、理論の発展、音楽療法など、様々な細かい話題が続いていく。

『音楽について』はプルタルコス『モラリア』の末尾を飾るテキストだが、これはプルタルコスのものではないという説が有力とされていて、おそらくは13世紀のビザンツの学者マクシモス・プラヌーデースが『モラリア』の文書群に入れたものでは、と言われている。アンジェロ・メリアーニ「カルロ・バルグリオのラテン語訳プルタルコス『音楽について』へのノート」(Angelo Meriani, Appunti sul De musica di Plutarco tradotto in latino da Carlo Valgulio, in Ecos de Plutarco en Europa. De fortuna Plutarchi studia selecta, ed. Aguilar & Alfageme, Sociedad Española de Plutarquistas, 2006)(PDFはこちら←注意:このPDFは2ページ目以降が上下逆になっているので要編集)という論考によれば、一六世紀に再発見された際、すでにエラスムスや仏語訳を手がけたジャック・アミヨなどが、文体的な違いをもとに、プルタルコスを著者とする説に疑念を表明しているという(音楽理論家でリュート奏者でもあったヴィンチェンツォ・ガリレイも同調しているのだとか)。同論考では、このテキストには同時代への言及などが盛んにあって、しかも明確にアナクロニックな部分もあることから、後の時代に舞台となった時代を思い描いて記された文章なのだろうとしている。同論考はさらにその一六世紀の受容について、上のガリレイや彼がもとにしたバルグリオのラテン語訳について追っている。

深層の宗教哲学……

宗教哲学 (文庫クセジュ)ジャン・グロンダン『宗教哲学 (文庫クセジュ)』(越後圭一訳、白水社)に眼を通しているところ。ちょうど近代に入るところまで。基本的には整理という点で有意義な入門編という感じ。ただ、あまり事前情報を得ずに読み始めたせいか、個人的に期待していたものとは少しばかり違った(苦笑)。同書での「宗教哲学」の扱いは、一見広い意味のようでいて案外狭く設定されている気がする。たとえば冒頭近くの概論の章(第一章)に、宗教が科学によって駆逐されたわけではないという話の文脈で、アインシュタインの発言だとして「宇宙的な宗教感情が科学的探求の最も力強く最も高貴な動機であると断言する」という引用が紹介されている。その上で、アインシュタインの語りは科学者としてではなく、むしろ哲学者として語っていることを強調している。つまり彼ら科学者が形而上学的な帰結を導いたとすれば、それはもはや科学ではなく宗教哲学の領域に属する営為なのだというわけだ。ここからは同書が、宗教哲学を宗教感情を客観的に見据えるものと定義づけていることがわかる。ところでアインシュタインの発言の肝は、むしろ科学的探求にさえその深層には宗教感情が脈打っているということなのだけれど、そうなると個人的には、そうした深層の宗教感情そのものにアプローチするための方法論なり従来の試みなり、その評価なりを期待してしまうのだが、ここで同書はそういった方向へは向かわない。というか、多少は概論的に触れるけれども(機能主義を扱った第三章)、どちらかといえば宗教と哲学との関わりの変遷のような哲学史的な話題へとシフトしていく。そんなわけでちょっとはぐらかされた感じが残る(それはもちろんこちらの勝手な思い込みのせいなのだが)。もちろん同書のスタンスも、それはそれで哲学史的な整理という点では有意義だろう。たとえば個人的には、ラテン世界から中世についての章(第五、第六章)で出てきたreligioの語源をめぐる諸説の整理−−キケロの説(「再読」という意味だという説)、ラクタンティウスの説(「結び直し」という説)、アウグスティヌスの説(「選び直し」という説)、そしてトマスにおけるその統合など−−は、それだけでなんらかの肉付けができそうなテーマに思われる。同じく第六章でのアヴェロエスやマイモニデスなどとの関連で出てきた、啓示が本来的にもつ二重の真理(大衆にとっての真理と、哲学者の合理的分析のみが見抜ける真理)の話もしかりで、これまたとても広範なテーマのほんのささやかな端緒だと思われる。

ピアノ演奏の内面論?

ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト (atプラス叢書)連休中に読み始めたものの、ちょっと間が空いてしまい、ようやく読了。フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト (atプラス叢書)』(橘明美訳、太田出版)。これはなかなかの良書。サルトル、ニーチェ、ロラン・バルトの三者にはピアノの演奏を愛好とするという共通点があり、その取り組み方は三者三様ながら、そうした演奏行為が彼らの著作での思索や議論とは別の次元を開いていたことを、同書は丹念に追いかけていく。なるほど、いくら政治的思弁や社会的コードからの逸脱を模索しようとも、ピアノを通じてロマン派的なものに各人がつながっているということは払拭しえない(たとえば三者のいずれもが、時期や思い入れの程度の差はあっても、ショパンやシューマンをなんらかの形で評価している)。それほど、19世紀以来の教養教育におけるピアノの意味合い、あるいはそこに繋がるロマン主義的なものは、強烈な刷り込みをもたらしている……ということなのか?しかもそのことは、各人にとって、なんらかの心的バランスを保つための重要な契機になっていたというのだ。ピアノ演奏はあまりに内面に深く根付いてしまっているがゆえに、それら三者いずれの文章にも、明示的に刻まれることがない(やはりというべきか、これはとりわけバルトに顕著のようだ)……。このあたり、さながらピアノ演奏の身体論・内面論という感じですらある。でもそうなると、果たしてそれはピアノのもつ特殊性(その楽器が帯びる社会的コードなど)のなせる業なのか、それとも別の楽器であっても一種普遍的にそうした別の次元がもたらされるものなのか、つまりは「音楽」(その嗜好もまた、なんらかの社会的コードを帯びているわけだけれど)そのもののなせる業なのか、といった問いも見えてくる。とはいえヌーデルマンの記述はそのあたりをあえて分析的に切り分けたりはせず、評伝的なアプローチによって三人の音楽あるいはピアノをめぐる情動に寄り添おうとしていて、それが結果的に生き生きとした内的な憧憬を浮かび上がらせている印象だ。

映画:17世紀の題材

カンヌ映画祭が始まっているけれど、今年はコンペティション部門に17世紀の題材を扱った作品が2つも入っている。一つはジャンバティスタ・バジーレ(1566-1532)の『物語の中の物語』を原作とした、同名のマッテオ・ガローネ監督作品。でもこれ、トレーラーを見る限り、歴史もの風なダーク・ファンタジーという趣き(?)。フォーレが背景に流れているが、これはどうなのよ、という感じがしなくもない……(笑)。原作とされている説話集は、イタリア語の統一に押されてナポリ語(ナポリ方言)が衰退しつつあったことを嘆いたバジーレが、ナポリ地方の説話を収集したもので、バジーレの死後にボッカッチョに倣って『ペンタメローネ(五日物語)』と改題されたのだとか。バジーレもちょっと面白い人物らしく、貧しい家の出だったために傭兵をしながら各地を転々としていたのだという。軍人であり詩人でもあった、というわけだ。ちなみに『ペンタメローネ』は95年に大修館書店刊行で邦訳が出ている(杉山洋子、三宅忠明訳)。さらに2005年に文庫化されてもいる(ちくま文庫)。Kindleでイタリア語版(Lo cuntu de li cunti – Il Raconto dei Racconti)も出ている。うん、ちょっと面白そうだ。

もう一つは、17世紀初めのノルマンディーで起きたインセスト事件。ラヴァレ家のジュリアンとマルグリットという兄妹が、1603年にインセストの罪で処刑されたというもので、19世紀に作家のバルベー・ドールヴィリが短編『歴史の一頁(Une page d’histoire)』で取り上げている(これは原文がWikisourceで読める)。さらに20世紀に入り、70年代初頭にトリュフォーがその映画化を企画したものの頓挫していたが、それを今回、ヴァレリー・ドンゼッリが監督し『マルグリットとジュリアン』として完成させたという話だ。これまたトレーラーで見る限り、こちらは話が近代に置き換えられている模様。それぞれのアプローチの違いも興味をそそる。