エラスムスと古典語

エラスムス――人文主義の王者 (岩波現代全書)そろそろ季節的には夏読書、ということで、とりあえず手始めは積ん読になっていた沓掛良彦『エラスムス――人文主義の王者 (岩波現代全書)』(岩波書店、2014)。人文主義者としてのエラスムスについての概説書。以前『痴愚神礼讃』のラテン語からの翻訳について触れた折り以来、追々読みたいと思っていた一冊なのだけれど、なぜかずっと先送りになっていた(苦笑)。個人的には第二部第二章の、古典学者としてのエラスムスについてまとめられた部分がハイライトかな、と。キケロに範を仰いでいた当時の人文主義者のラテン語書法に対して、エラスムスはひたすらキケロを模倣するのではなく、自己の思想・感情を自由に表現できる文体を磨くべきだと主張したのだという。このあたりが、狭隘な殻に閉じこもることのない自由人としての面目躍如というところか。同章では、著書『格言集』からの一節として、”Homo homini lupus”(人間は人間にとって狼である)の解説が引用されているのだけれど、エラスムスはこれをローマの喜劇作家プラウトゥスに由来するとしているのだとか。個人的にはホッブスの言とばかり思っていた一句。ギリシア語も添えられている(Ἄνθρωπος ἀνθρώπου λύκος”)。エラスムスのギリシア語は完全に独学だというが、その発音についての指摘(二重母音の復権や子音の文字通りの発音など)が、現在の古典ギリシア語にまで踏襲されているところはやはりすごい。と同時に、16世紀初頭の当時、すでに当代のギリシア語の発音が現代ギリシア語のような簡略化(ηがすでにiの音になっていたり、μπの子音のつながりがbの音になっていたり等々)に向かっていたらしい点もなかなか興味深い。あと、エラスムスの書簡にあるという一節「学ぶべきことを知らないでいるよりは、たとえ遅くなってからでも、それを学んだほうがいいと考えています」は、まさに至言。

著者の沓掛氏はいわずとしれた古典研究の大家。このところ著書・訳書の刊行が相次いでいる。『人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)』『エラスムス=トマス・モア往復書簡 (岩波文庫)』、『黄金の竪琴 沓掛良彦訳詩選』『ギリシア詞華集1 (西洋古典叢書)』。これらもとても楽しみ。これまた追々見ていきたいと思う。

普遍数学前史 – 補遺(中世&デカルト前夜)

デカルトの数学思想 (コレクション数学史)先に取り上げたラブーアン本に続いて、再び普遍数学前史を今度は邦語で見てみる。佐々木力『デカルトの数学思想 (コレクション数学史)』(東京大学出版局、2003)。この第二部が、デカルトに至る普遍数学概念の変遷史を取り上げていて、ラブーアン本と補完的な感じになっている。もっとも、同書は1988年にプリンストン大に提出された学位論文のご本人による邦訳とのことで、この「補完」という言い方では完全にアナクロニズムになってしまうのだけれど……(笑)。佐々木本は、ラブーアン本があまり詳細に取り上げていない中世(触れていないわけではもちろんないけれど)や、17世紀のファン・ローメンなどについて比較的多くのページを割いている印象。この第二部はきわめて実証的な思想史研究となっていて、様々なディテール(それぞれの論者が当時のどの翻訳に準拠しているかとか)が実に興味深い。

中世で取り上げられるのは、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスのライン、さらにその関連でアヴェロエス、またそのラインと対立的なロジャー・ベーコンからのオックスフォード・プラトン主義の流れ、さらに同じフランシスコ会系からドゥンス・スコトゥスの弟子アントニウス・アンドレアエ。ある種の模範解答となったアヴェロエスの解釈は、アリストテレスの「ἡ καθόλου」を普遍学と取り、第一哲学(哲学全体の諸原理を扱うもの)に結びつけ、数学などは(狭義でならば形而上学までも)普遍学から排除しているとされる。数学は自然学と形而上学を架橋するものですらないとされている。スコトゥス主義者アンドレアエもまた、形而上学のみが普遍的であるとの解釈を示している。数学は「なんらかの特定の本性を扱い」、したがって普遍学の地位にはつけないというわけだ。

ルネサンス期についても、佐々木本はアゴスティーノ・ニフォー、フォンセカなどを取り上げていて興味深い。ニフォーは、上のἡ καθόλουを共通数学と取るアフロディシアスのアレクサンドロスと、普遍学と取るアヴェロエスの解釈を両方とも知っていた可能性があるといい、その上でこれを「他を包括する共通数学」のように取っているという。フォンセカは、数学が様式的に形而上学に類似することを指摘しつつも、普遍的なものはあくまで第一哲学という解釈らしい。このあたりはペレイラ(バロッツィの新プラトン主義的数学観に対抗)への援軍の意味などもあっただろうといい、なかなか複雑そうだ。

そしてさらに、デカルト前夜ということで比較的大きく取り上げられるのが数学者のファン・ローメン。共通数学の概念を普遍数学と称し、算術を幾何学の問題に適用することに反対したスカリゲルなどと対立しているという。ἡ καθόλουは数学的なことを含意しているとして、第一数学(数学的諸学の内部にある、他の数学的諸学の道具として用いられるもの)を提唱し、哲学における第一哲学に相当するものを数学内部に打ち立てようとしたという。哲学の優位への信念からは必ずしも自由ではなかったとはいえ、数学を相対的に「第一」で「普遍的」なものに引き上げた点が高く評価されている。同時代の代数学の発展などをも背景にあり、ファン・ローメンの「普遍数学」は、古代ギリシアの数理哲学、インドの数計算技法、イスラム文明のアルジャブル、中性ラテンの「汎計測」への志向などが含まれたユーラシア数学の集大成だ(p.428)というなんとも壮大なパースペクティブが語られている。うーむ、デカルトを目前として普遍数学前史で堂々巡りをするというのは、やはりなかなか刺激に満ちている(笑)。

エピノミス

Charmides. Alcibiades I and II. Hipparchus. The Lovers. Theages. Minos. Epinomis (Loeb Classical Library)アカデメイア派での数学重視の基礎ともなったとされる対話篇『エピノミス』を読んでみた(Loeb版:Charmides. Alcibiades I and II. Hipparchus. The Lovers. Theages. Minos. Epinomis (Loeb Classical Library) Harvard Univ. Press, 1927-55)。なるほど、確かに学問の重要さを問う箇所が冒頭と末尾に出てくるけれど、全体としてはやはりコスモゴニー(宇宙開闢論)を語っている部分がメインという印象。普遍数学のような明確な視点が直接的に出てくるわけではないけれど、いちおう関連がありそうな箇所を確認の意味でメモしておくと、まず976E。その前段からの話の流れで、その修得がなければ思慮がなく良き市民ではありえない一学知として、数をもたらすものが挙げられる。977Cでは、数がなかったとしたらどのような理解もありえなかったということが語られる。次いで今度は990Bで、天体の話から再度学問の必要の話へと移り、そこで最も重要かつ第一のものとして、「数そのものの学」が挙げられている。物体的なものをもたず、それでいて奇数や偶数の起源をなし、事物の自然本性に対する影響力を有している、というわけなのだが(”τὸ δὲ μέγιστόν τε καὶ πρῶτον καὶ ἀριθμῶν αὐτῶν, ἀλλ’ οὐ σώματα ἐχόντων, ἀλλὰ ὅλης τῆς τοῦ περιττοῦ τε καὶ ἀρτίου γενέσεώς τε καὶ δυνάμεως, ὅσην παρέχεται πρὸς τὴν τῶν ὄντων φύσιν.”)、このあたりが、数学の普遍性の義論へと結びついてくということなのだろうな、と。

虚構の存在論

プラグマティズムの帰結 (ちくま学芸文庫)文庫化されたローティの『プラグマティズムの帰結 (ちくま学芸文庫)』(室井尚ほか訳)を読んでいるところなのだけれど、これの第7章が「虚構的言説の問題なんてあるのだろうか?」となっていて、フィクションに関する存在論的議論の一定のまとめとして興味深い。従来(とはいえこの章を構成する論考が書かれたのは1979年とのことだが)の諸説がここでは四つの大別され(ラッセル、サール、指示の因果説、マイノング主義)、それぞれに簡潔なまとめと批判が加えられる。それらを一通りめぐった上でローティは、なにやらあっけらかんとした「きわめて素朴な観点」を提示してみせる。つまり、以上の四つをすべて回避して、指示の観念など無意味だとし、「〜について語る」という常識的観念があればいいんじゃないの、その「〜」を決める規準など、話者が心の中にもてばなんだっていいじゃないか、と言うのだ。意味論を認識論から完全に分離せよ、ということなのだが、「ただやさしく単純なだけで完全に役に立たない」とみずからが言うこの立場を、しかしながらローティは「正しいと思う」と述べている(p.369)。なんという潔さ……こういうところがプラグマティストたる強みというか。「指示されるものは何であれ必ず存在する」というラッセルの掲げるテーゼは、いわば人為的に作られてきたものでしかなく、それに拘るのは、20世紀の意味論的伝統と、心的表象と実在をつなごうとする認識論の伝統との結びつきのせいだと喝破する。

Fiction and Metaphysics (Cambridge Studies in Philosophy)これに関連して一つ。少し前にざっと眼を通しただけなのだけれど、アミー・トマソン『フィクションと形而上学』(Amie L. Thomasson, Fiction and Metaphysics (Cambridge Studies in Philosophy), Cambridge Univ. Press, 1999-2008)も、これまた同じようにあっけらかんとした虚構の存在論を展開していて面白かった。これまた大雑把にまとめれば、フィクションに登場するキャラクターは抽象的な人工物として捉え、必要な支持が得られる世界においてのみ、存在論的な依存関係をもった実体であると見なされるべし、というのが前半。これも上のローティにつながるような議論かも。さらにそうしたキャラクターをも包摂できる立体的な範疇論を考えよう、というのが後半。範疇論の拡張を持ち出してテーマを拡げているあたりがなかなか巧みに思えた。もちろんその一方で、従来の指示理論などへの批判、あるいはマイノング主義のようにキャラクターを性質の集まりと見なす立場への批判などもあって(このあたりもまた上のローティに重なってくる)興味深い。虚構的なものを排除することが節減の原則に適うという一般的な考え方にも反論を加えている。従来説を異なる観点からばっさり斬っているみせるところが、とても小気味よいというか、「読ませる」ものだった。

corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 2 – 3

Les Belles Lettres版の解説では、このヘルメス選集(C. H)のXVIII章は、「王」(ディオクレティアヌスとその取り巻き)を讃える演説(300年ごろの)の寄せ集めだとされる。しかも実際に発話された演説だという確証もない、と。ヘルメスとその弟子たちのとの関係のない、いわば偽論文であって、C.Hに収録されたのは編纂者の無知によるのでは、とのこと。編纂者は何かこういう「無意味な戯文」に魅せられたのだろうという。

また、この第二節の欠落を含む部分は、音楽で「競い合う」(ἐναγωνίζεσθαι)という場合の、コンクールでのパフォーマンスの順番が反映されているのだとか。ラッパがまず最初に吹かれ、伝令の声、叙情詩の朗読、詩人による朗誦などが続いた後、笛の出番となり、次にキタラ(琴)演奏、そしてキタラの弾き語りが繰り広げられ、これが演奏のハイライトとなるという。

2. 音楽であたう限り競い合いたいと思う巧者にとって、まずはラッパ吹きがそのスキルを誇示しようとし、次いで笛吹きが叙情的な楽器でメロディの甘美さを味わわせ、葦笛やプレクトラムが歌の拍子を決め(……欠落……)、原因が帰される先は演奏者の息ではなく、より高次の存在でもないが、その者自身にはしかるべき敬意を払い、楽器については弱点を非難するのである。なぜならそれがこの上なき美を阻み、奏者の歌を妨げ、聴衆から甘美な調べを奪うからだ。

3. 同じように、私たちについて、肉体的な弱さがあるからといって、観衆の中に、私たち人類を冒瀆的に非難する者など一人もあってはならず、むしろ神が疲れを知らぬ気息であること、つねにみずからに固有の学知との繋がりをもち、途切れることなく幸福感に溢れ、つねに変わらないその善き行いをあらゆることに用いることを認識しなくてはならない。