ゾシモス『炉と器具について』第一書 3 – 6

3. だが、それらは神からも、哲学者たちからも受け入れられる人々ではない。というのも、惑星の配置がわずかな時間で好ましくなり、ダイモンによって肉体的にも良い状態になると、再び彼らは、それ以前の明確な事柄を忘れて他のことに同意するよう心変わりするからだ。つねに運命に付き従い、言われている立場もしくはその反対の立場にいたるのだ。肉体的なもの以外を想像できず、運命のみを想うのである。
4. それらの人々をヘルメスは、自著『自然について』において無知なる者と呼んだ。彼らは運命によって導かれるだけの存在であり、非肉体的なものを想像することなどなく、自分たちを正当に導く運命そのものについても思い描くことなく、ただ肉体的なものの教えに文句を言い、それがもたらす幸福以外、まったく顧みようとしないのだ。

– 「哲学者たち」というのは、底本の仏訳注によると広い意味で、錬金術の術者全般を指すのではないかとのこと。また「惑星……」云々の部分は占星術的な言及ということらしい。
– ヘルメスの自著とされるものはもちろん現存していないという。

5. ヘルメスとゾロアストレスは、哲学者の類は運命よりも上位にあると述べている。彼らは快楽を制御しているため、運命がもたらす幸福を喜ばないし、内面的な生を送っているため、不幸を被ることもない。また、不幸の一端を見てとるがゆえに、運命からの贈り物を受け取ることもない。
6. このことゆえにヘシオドスは、エピメテウスにこう告げるプロメテウスを描くのである。「人間たちは、あらゆるもののうち最も大きな幸福とは何だと考えているだろうか?」。するとエピメテウスはこう述べる。「たくさんのお金をもった美しい女性でしょう」。するとプロメテウスは、オリュンポスのゼノンからの贈り物を受け取らず、突き返すように言う。自身の弟に、哲学をもって、神からの、すなわち運命からの贈り物を突き返すことを教えたのだ。

– 同じく仏語注。ヘシオドスの言及は、『神統記』からパンドラ神話に触れた箇所を指す。周知のとおり、結局エピメテウスはプロメテウスの助言を無視して、贈り物、すなわちパンドラを受け取り、パンドラはもっていた箱を開けて、あらゆる苦しみや不安をばらまいてしまう。

原・経済学?

善と悪の経済学―ギルガメシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠気分転換も兼ねて、空き時間にトーマス・セドラチェク『善と悪の経済学―ギルガメシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠』(村井章子訳、東洋経済新報社、2015)を読んでみた。原著がチェコでベストセラーになったという本。通常の経済学の書という感じではまったくない。それもそのはずで、同書は数式が並ぶような経済学を批判しようという一冊だからだ。では代わりに何をもってくるのかといえば、西欧の古来からの知的営みの中に見出される諸々の「経済学的言及」。あるいは近代の経済学の祖たちの議論の再考。それらをもとに、現代の経済学が失っている倫理の問題やら人間的な側面やらを復権させようという試みなのだが、古代思想などの理解はわりと通俗的というか、どこか通り一遍な感じで、中世やルネサンスなどは飛び越えてしまって顧みることもない(ときおりキリスト教の文脈でトマス・アクィナスが言及される程度)し、この試み自体も、ちょっととんがり具合が足らず、強い意味での経済学批判にはなっていないように思えるけれど(?)、一方で近代の経済学黎明期にまつわる個々のトピックスなどは素人目にも面白く、たとえばアダム・スミスが誤って、本来はマンデヴィルに帰されるべき私利と自由放任の擁護論者にされてしまっているとか、スミスの「神の見えざる手」への言及やケインズの「アニマルスピリット」への言及がそれぞれ三度ほどしかないといった話とか、細かいエピソードが妙に楽しい(笑)。ヒュームへの言及などもある。そういえばマンデヴィル『蜂の寓話』は最近新装版で再版されたのだっけ。

欧州では以前からこうしたアンチないしオルタナティブ経済学の書籍はいろいろ出ていて、もっと紹介されてもいいと思うのだけれど……(日本では経済一辺倒がこの先、結構重大な問題になっていきそうな気がするのだが)。個人的にも以前、ベルナール・マリス『反経済学教科書』(Bernard Maris, Antimanuel d’économie, Tome 1 Les Formis, Bréal, 2003)の翻訳企画を受けたことがあったのだけれど、訳稿が一通り終わる頃合いになって、図版の版権問題か何かが浮上して企画自体が流れたことがあった。同書などは扱う中味がもう古くなってしまったけれど(エンロン話とかね)、「自由競争なんて言ったって、しょせん企業は不正と談合で儲けているじゃないか!」というのが基本線でとても面白い一冊だった。フォルクスワーゲンの話などを聞くに、改めて納得(笑)。刊行できず残念。

関連文献:

イアンブリコスと数学 1

イアンブリコスの『共通数学について』(De commvni mathematica scientia liber; ad fidem codicis Florentini edidit Nicolavs Festa, Lipsiae, 1891)を読み始めたところ。このarchive.orgのものは少し乱丁があるけれど、まあそれはご愛敬。まだほんのさわりの部分を読んだだけだけれど、数学の特殊な抽象性についてわりと突っ込んだ話が展開していて興味深い。プロクロスの議論と同じように、数学的な対象、すなわち数というものは、感覚対象(種)と知解対象(類)の中間にある抽象的な対象として扱われる(II章)のだけれど、それは感覚から分析的に析出されるものなどではなく、鷲づかみのごとく一気に、いわば直接的・直観的に捉えられるものと見なされている(VI章)。たとえば「一」と「他(複数性)」などの対立物は、一方を捉えることで、そこに他方が現前していなくても捉えられる。こうしたことは対立物一般について言え、たとえばモノの大小なども、感覚から抽象されるのではなく、感覚に先だって把握される。で、その起源を探ろうとすればそれは魂そのものに帰結する、と。あらかじめそうした対立物を理解するための仕組みが、そこに備わっているということのようだ。ここでのテーマは数学なので、イアンブリコスはその魂の機能そのものには立ち入っていかないようなのだけれど、少なくとも数学的対象は、そうしたアプリオリな理解に関係しているようだ、というわけだ。

ちょっとこれは随時メモでも取りながら読み進めることにしよう。

アイネシデモス

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)なにやら現代版政治的ドグマティストらの断行が世間を騒がしているが、こういうときにはいったん気を静めて、この先のための静かな怒りを備給するに限る。ならばスケプティシズムを読むというのも一興かも。……という次第もあって(やや強引だけれども)、最近文庫化されたJ. アナス&J. バーンズ古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)(金山弥平訳、岩波書店)を眺めているところ。セクストゥス・エンペイリコスが『ピュロン主義哲学概要』で取り上げていた、判断保留の論拠となる「一〇の方式(トロポス)」を、文献的・認識論的な見地から総合的・批判的に検証しようという一冊。まずは概論(第一章から第三章)として文献的な話が出、そこから一〇の方式を一つずつ各章で詳細に取り上げている。

個人的にはさしあたり第三章などがなかなか面白い。セクストゥスはこの「一〇の方式」をアイネシデモスに帰しているといい(『論駁』第七巻というから、「論理学者に対して」の巻)、また別の資料からもアイネシデモスがその嚆矢であることが確認されるという(ディオゲネス・ラエルティオスやアレクサンドリアのフィロン)。フィロンをもとにしたものらしいヘレンにオス作と称されるアリストテレス『形而上学』注解なんてのもあって、中世に流布したという話。メッセネのアリストクレスによる言及では、アイネシデモスの方式は「九つ」とされているのだとか(エウセビオスの『福音の準備』)。これはエウセビオスの書き写し間違いか、なんて言われているのだとか……。ちょっと面白いのは、アグリッパ(一世紀末ごろの懐疑主義者)が「一〇の方式」を「五つ」に集約するような議論をしていたといい、そこで出てきた比較的新しい議論を、セクストゥスがもとの『一〇の方式」を記する際に取り込んでいる、といったくだり(第四章)。

アラブ世界でのゾシモス

ゾシモスの『炉と器具について』を見ているわけだけれど、それとの関連でこんな論考を見始めているところ。ベンジャミン・ハルム『アラブのゾシモス—アラブ/イスラム世界におけるパノポリスのゾシモス受容』(Benjamin Hallum, Zosimus Arabus: the reception of Zosimus of Panopolis in the Arabic/Islamic world, Warburg Institute, University of London, 2008 )。今ちょっと忙しいのであまり時間が取れず、とりあえずゾシモスについての先行研究の概要と問題をまとめている序論部分だけ覗いてみた。ゾシモスで問題になるのは、まずその実像に関する情報がきわめて乏しいこと。年代も正確には知られておらず、ただ四世紀よりも後ではないだろうと推測されるのみ。基本事項としては、この『炉と器具について』はテオセベイアなる「精神的な妹?」に向けて書かれた書簡の形で、精神的な救済と、ダイモンによる影響を避けることを主要なテーマとしている、と。ゾシモスの宗教的なスタンスは諸教混合主義(シンクレティズム)的・折衷的とされる……。

錬金術の文書がどのような流入経路でアラブ世界に入ったのかも、まったく知られていないらしいという。ゾシモスが与えたであろう影響も同様。そんなわけでなされるべき探求は多々あるとのことだ。アラブ世界におけるゾシモスについての記載は、論文著者によれば (1) 逸話・名言のおおもととしてか、(2) 伝記的記述の主体としてか、(3) 秘められた知識の源泉としてかのいずれかに分類されるという。で、まずはその各々について具体的な文献を検証していく、というのがこの論考の本体になるらしい。