アルゴリズム的惨事とは?

先日のウーギルトの本を見つつ、漠然とだけれど、テロルの潜在性について考えているところ。そんななか、多少の関連はなくもないと想われる、技術哲学系の論考を久々に読んでみた。ユク・フイ「アルゴリズム的惨事—偶発の報復」(Yuk Hui, Algorithmic Catastrophe – the Revenge of Contingency, parrhesia 23, 2015)(PDFはこちら)というもの。現代思想系の論考。 アクシデントには不慮の事故の勃発という「偶発」の意味と、アリストテレス以来の実体(本質が現働化したもの)に対する「偶有」(本質以外の部分)の意味とがある。技術論においては前者の意味が、また形而上学的には後者の意味が、従来は前面に出てきていた。けれどもそれは実際にはときとして交差・錯綜しうる。そのことを技術論の側から検証していくというのが大筋の流れになっている。もちろんこれまでにも、それらの意味を哲学的に考察する論考はいろいろとあった。前者寄りの議論を展開した人物として、たとえばポール・ヴィリリオがいる。ヴィリリオは「技術が引き起こす惨事は、それ自体が技術の進歩をもたらす契機でもあり、惨事は構造的な必然として技術に組み込まれている」みたいなことを言っていた。また、ベルナール・スティグレールが述べていたように、人間の内的機能を外在化する(偶然への抵抗として)という契機が技術、ひいては西欧思想の始まりなのだとするなら、そうした偶発的事象もまた、結果的に技術、そして西欧思想の根幹部分を成していることにもなる。

一方、後者寄りの考察として、論文著者は19世紀末から20世紀初頭のエミール・ブートルーを挙げている。偶然性(contingency)が自然法則に内在し、つねに必然性に挑んでいることを指摘した人物だ(その著作『自然法則の偶然性について』はwikisourceで読める)。同じく論文著者が挙げるハンス・ブルーメンベルクの説によれば、潜在的な偶然性(contingency)の存在論化(つまりは独立化ということ。偶然性が存在から完全に切り離され、偶有として何の法則も担わないものとされたということ)が完成したのは13世紀で、必然性がもはや偶然性を正当化づけなくなり、偶然性は偶発事(accident)と化したのだという(やや誇張された図式的な見方だが)。現代においてそうした偶然性の議論を思弁的思考に適用する著者として、クアンタン・メイヤスーが挙げられている。

で、肝心なのは、両方の接合という話。技術の発展にともない、そこに含まれていた計算的理性はいっそう外在化される。つまりはオートマトン化がいっそう進むということ。同時にそれがまた新たな事故・惨事を引き起こす。これを論文著者はアルゴリズム的惨事と呼ぶ。このいっそうの外在化こそが、自然法則に内在する偶然性にも似て(というか、両者が相互に重なり合う可能性が示唆されている)、いまや形而上学(偶然への抵抗としての)を失効させることにもなる。その中で、メイヤスー的な、偶然の復権、偶然のある種の定常性の獲得がなされ、惨事の到来が恒久的な運動として思惟のいわば中心に据えられる……。論考はどこか素描のようなものにとどまってはいるが、そうした「折り込みずみ」としての惨事・偶発事の考察を通じて、人為的なものと自然との境界線がぼやけ、さらには失効していくような世界観を、著者はその先に見ている印象だ。上のテロルの潜在性との関連で言えば、テロルが突いてくるのはそうした定常化・構造化した偶発事そのもので、今やそれを顕在化させる一つの契機になっているのかもしれない。この顕在化の力学または様態を解き明かすことが、ウーギルト本でも大きな問題になっている。

改めてポンポナッツィを読む

Traite De L'immortalite De L'ame Tractatus De Immortalitate Animae (Classiques De L'humanisme)思うところあって、ポンポナッツィをちゃんと見ておこうかと思っている。で、2012年刊行の羅仏対訳本で『霊魂不滅論』(Traite De L’immortalite De L’ame Tractatus De Immortalitate Animae (Classiques De L’humanisme), trad. Thierry Gontier, Les Belles Lettres, 2012)を見ているところ。校注本のよくあるパターンだけれど、これも例によって、訳・解説・校注者のティエリー・ゴンティエによる冒頭の解説序文が結構面白い。霊魂可滅論の重要な論拠になっているのは、アリストテレス『霊魂論』から引かれた一節にもとづく推論。「知解が想像力(phantasma)であるなら、または想像力を伴わずにいないなら、魂は離在することはできない」(大前提)、「魂は想像力なしでは何も知解しない(魂は像なしでは知解しない)」(小前提)。これにスコラ学の伝統から、操作(知解という)の依存関係が存在(知性)の依存関係を導くことを認めるなら、知解は想像力が必要であり、したがって(知的)魂は肉体から分離して存在できない、という結論が導かれるという。ポンポナッツィは、アヴェロエスの誤謬がこの大前提の<または>を<および>と取り違えていることにあるとし、またトマス・アクィナスの誤謬は小前提に関わっている(想像力なしで、という部分の意味論的な広がりを誤解しているのだという)と見ているらしい。解説では、アヴェロエスとトマスがポンポナッツィの対話相手(論敵)だと見ているわけなのだが、具体的な批判部分は細かな検証に値するようで、解説序文著者のゴンティエはこの点にこだわって論を進めている。

また、興味深いのは、ポンポナッツィの手にかかると、アフロディシアスのアレクサンドロスもまた批判の対象に据えられているという点。『霊魂不滅論』でのアレクサンドロスへの言及はごくわずかで、しかもアレクサンドロスを「霊魂の可滅性を説く他の哲学者の一人」にすぎないという扱いだといい、フィチーノなどが、アリストテレス主義の世界はアレクサンドロス派とアヴェロエス派に分かれるとぶち上げたのとはずいぶん趣を異にしている。可滅論ってそんなにいたっけかなあ、という感じなのだが……うーん、このあたりをもっと拾い集めてみるべきなのかも。

さらにこれも関連する一篇だが、ジョン・セラーズ「知性に関するポンポナッツィのアヴェロエス批判」(John Sellars, Pomponazzi contra Averroes on the Intellect, British Journal for the History of Philosophy, 2015)という比較的新しい論考も、要領よくまとまっていて参考になる。基本的にアリストテレスの注釈者たちについての概観と、ポンポナッツィの中心的議論、さらにより現代的な視点からのアリストテレス解釈などを紹介している。ポンポナッツィの議論そのものとしては、人間的理性が魂の不死を論証するのは不可能だというのが基本スタンスだといい、また、知性を実体として考えるのではなく、あくまで魂の一機能にすぎないという捉え方をしている点が特徴的だと指摘している。

ディオファントスの受容

前々回のエントリで取り上げたラーシェド『アラビア数学の展開 で、何度も言及されて、ある種の「背景」をなしていた事象として、ディオファントスの再解釈がある。ディオファントスは代数の祖というふうに言われることもあるけれど、同書ではそうではないという立場を取っている。ディオファントスは『算術』がクスター・イブン・ルーカーという人物によって翻訳されてアラビア世界に入ったのだという(10世紀?)が、実はそれ以前に、フワーリズミーなどによって代数はその名前をすでに獲得していて、独立した分野として発展していたのだとか。したがってディオファントスはここで、むしろ「フワーリズミーに続く者」と位置づけられるのだ、とラーシェドは論じている。ちなみに西欧でのラテン語訳は、16世紀にボンベッリが訳してたものの刊行はせず、最も知られた翻訳は1621年のバシェ訳とのこと。フェルマーが例の最終定理を書き込んでいたのも、バシェによるラテン語訳の『算術』第2巻第8問の欄外だったのだとか。

そもそもの『算術』の意図について、ラーシェドは、「算術の要素を、多数の単位としての数であるとし、その分数部分を、量の部分であるとするような、算術理論を構築すること」(上掲書、p.195)だったとしている。ディオファントスのアラブ世界での受容は、代数に関しては「その革新性においてというよりも、その拡張において顕著だった」(上掲書、p.197)とされる。しかもそれは、代数を扱う人々よりも、ユークリッドの伝統に属する人々によって発展させられたのだとラーシェドは語っている。ユークリッド的な観点からディオファントスは読まれたといい、それが西欧の16、17世紀のディオファントス受容と同じような理解に、はるかに早くから達していたというのだ。うーん、このあたり、とても面白い論点になっている。アラビア数学、恐るべし、という感じか。

余談だが、『算術』の一部を含むディオファントス関連の断章は、前に取り上げたLoeb版の『ギリシア数学著作集(第二巻)』(Greek Mathematical Works: Aristarchus to Pappus (Loeb Classical Library)にも収録されていて、とりわけ、べき数などの表記法を考案した人物として紹介されている感じだが、この表記法がまたすこぶる興味深いものではある。慣れないと混乱してしまうようなものではあるのだけれど……。さらに余談ついでだが、同書に、ディオファントスの記した言葉ということで、アレクサンドリアのテオンからの次のような引用がある。”τῆς γὰρ μονάδος ἀμεταθέτου ὄυσης καὶ ἑστώσης πάντοτε, τὸ πολλαπλασιαζόμενον εἶδος ἐπ’ αὐτὴν αὐτὸ τὸ εἶδος ἔστιν. “(「単位は無限であり、かつ、いたるところで一つであるとすると、種に同じものをかけて多数化したものは、同じ種である」)。この「種」というのが、微妙にわかりづらく、個人的にはいわゆる「底」のことかしら、などと思ってスルーしていたのだけれど、ラーシェド本によると、どうやらこれはべき数のほうを指しているらしい(このεἴδοςをクスター・イブン・ルーカーはnaw’(نوء)と取っているといい、またバシェはspeciesと訳しているという)。うーむ、古代の数学書はなかなか難しい(苦笑)。

1621年のバシェ訳『算術』の表紙 - wikipedia(en)から。
1621年のバシェ訳『算術』の表紙 – wikipedia(en)から。

テロルの基本構造へ

パリの同時テロへの追悼・連帯としてフェイスブックのプロフィール写真をトリコロール化することは、個人的には別に悪くはないと思うのだけれど、中にはそれを「今回の出来事はテロじゃなく戦争だから」として批判する向きもあるようで(もちろん批判の論点はそれだけではないけれど)、どうもそのあたりの議論には微妙に違和感を感じてしまう……。テロル(恐怖)をまき散らすというそのイデオロギーの基本構造そのものを見据えた議論が、「戦争だから」という一言で後景に追いやられてしまう、取り上げられなくなってしまうのはどうか、と思うのだ。

The Metaphysics of Terror: The Incoherent System of Contemporary Politics (Political Theory and Contemporary Philosophy)そういう基本構造に迫ろうという一冊に、ラスムス・ウーギルト『テロルの形而上学』(Rasmus Ugilt, The Metaphysics of Terror: The Incoherent System of Contemporary Politics (Political Theory and Contemporary Philosophy), Bloomsbury Academic, 2012)があるようだ。これ、Google Booksで冒頭の序文などが読める(もちろん、例によって一部のページを除くが)。そこでの主たる議論によれば、テロリズムというのは基本的に政治的な定義以外になく、しかもそれは具体的に指すものを示すことのない無でありながら、恐怖をまきちらすという構造をもつ。それはどうやら、テロリズムが元来もつ「潜在性」の広がりにポイントがありそうだ……と。そのあたりを検討する意味で、著者は形而上学という言葉を出してくるのだけれども、それはかつての第一哲学のような、根源の一者を考えるようなものではもはやなく、むしろ最終哲学、他の科学との連携による形而上学の批判を通して形而上学を再考するといった営みになる、という。そうした批判的立場から、テロリズムが有する「潜在性」の構造を浮かび上がらせ、それによってその構造そのものを無化することができるのではないか、というのが同書の賭けとなる。そのための道具立てとして、同著者は中期以降のシェリングによる「顕在・潜在」の議論を援用する。これはなかなか興味深いお膳立てだ。さて、その後の展開はどうなるのか……。ちなみに同書の書評がこちらに。

(今さらながら)電子書籍の引用問題

またまた野暮用で田舎へ。今回の読書のお供は、なんと電子書籍。最近iPhoneを昨年の6 plusに変え(これまでは5s)、格安simで運用し始めたのだけれど、事前の噂どおり、これが画面サイズ的に文庫などを読む感覚に近く、携帯読書端末としてなかなか優れているように思われたのだ。モバイルデバイスでの電子書籍はまだ慣れていないせいか、読むというよりも、どこか眼が画面上を滑っていくみたいな感覚があって、なにやらちょっと新鮮ではある(苦笑)。でも一つ問題なのは(もちろんすでにだいぶ前から指摘されている問題だけれど)、やはり引用の際の出典表示ができないという点。電子書籍(EPUB)の場合、フォントの大きさを変えるとページ番号まで変わってしまうので(理系の本などで、レイアウトを保持しているものもあるようだが)、これでは引用箇所が指示・特定できない。うーん、悩ましい問題だ。皆どうしているのか?あるいは結局電子書籍はそういう用途では使わない・使えないということか。読んでいる箇所が全体の何%にあたるかが表示できたりもするけれど、微妙にアバウトな感じもなきにしもあらずだし。ネット上ではアマゾンの「なか見検索」を使うなんてやり方も紹介されていたけれど、それがない場合はどうしようもない。

プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)ちなみに、さしあたり読んでいるのは、最近電子書籍化された佐々木毅『プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)』(講談社、2015)。もとは1999年刊行のもので、19世紀から20世紀にかけてプラトンが主にドイツ語圏でどのように受容されてきたかをまとめた興味深い一冊。とりあえずざっと第一部を眺めてみた。プラトンを体系的な哲学者として扱う伝統から、より文献学的な解釈、あるいは人間くさい解釈、さらにはロマン主義や貴族主義などのバイアスを経た読みなどを経て、果てはファシズムまがいとして批判なされていた局面すらあったといった話。なるほど、いかようにも読めてしまう間口の広さは、ある意味、時代を経た古典の宿命とも言えるのかもしれないけれど、プラトンがかくも政治的に読み替えられていく様は、時代ごとの空気を映し出しているようでなかなか興味深い。