ゾシモス I 18 – 19

18. このように、それぞれの技術において、異なる器具や方法によってその技術を実践する者は、それぞれに異なる知識と達成度をもち、中でもとりわけ医術の技術においてそのことが見てとれる。たとえば骨折の場合、神官でもある接骨医が見つかるならば、その者の敬虔さによって接骨し、軋みが聞こえるほどに骨同士を接合することができる。仮に神官でもある接骨医が見つからなくても、その人が死ぬことを恐れずともよく、線影のついたものや実線などの様々な図から成る挿絵が入った聖なる書を携えた医者を連れてくれば、同書をもとに、その人を器具と結び、健康が回復すれば生き続けることができ、神官でもある整骨医が見つからなかったからといってもちろん死ぬことはない。それらの医者は、失敗すれば、整骨に値せず、飢餓により死んでしまうだろう。祝福されて不治の病である困窮を克服するよう、炉の図を知りもせず、実践することもできないからである。この話については以上である。

19. 私は先に述べたことに戻ろう。器具についてである。あなたが書いた書簡を受け取った私は、あなたに器具の説明を書くよう、あなたが乞うていることを知った。また私は、あなたが尋ねるべきでないことを私から聞きだそうとして書き記していることに驚きもした。あなたは、「それについてはあえて口をつぐんでおこう。私の他の書にそれは十分に記されているのだから」と哲学者が言うのを聞かなかったのだろうか。それなのにあなたは、私からそれを聞きだそうとしたのだ。けれども、私が古来の人々よりも信頼の置けるかたちで記したと考えてはならない。私にそんなことはできないことを知るがよい。ただ、彼らが語ったことすべてを私たちが理解できるよう、彼らの言葉を私はあなたに伝えよう。それは以下のとおりである。

– 再び仏訳注によると、医者は公式に宗教と結びついていたわけではないものの、神官の多くが医術に関係した称号をもっていたのだという。エジプトのコム・オンボの神殿には、外科治療の器具の彫像があるのだとか。また、ここで示唆される二種の医者は、それぞれ伝統に根ざした(ファラオ時代からの)医術と、グレコローマン時代以降にギリシアから入ってきた新しい知見とを指しているとされている。またそれは錬金術の二つのメソッドにも重ね合わせられているという(時宜に沿って染色を行う方法と、書『炉について』に即して行う方法)。
– これも仏訳注だが、γραμμικόςは実線、σκιαστόςは影つきの線としている(この後者はハパックス、つまり一例しか実例がない語とのこと)。図自体はもちろん失われているそうだが、図が実際に存在したことを窺わせる二世紀のパピルスとか、中世のビザンツ経由での写本などがあるのだそうだ。
– 「哲学者」というのは普通、錬金術師こと「偽デモクリトス」を指す。「古来の人々」も、偽デモクリトスほか、初期の錬金術書集成の著者たちを指すらしい。

雑感 – ウエルベックとユイスマンス

Soumission以前購入して積ん読にしてあったミシェル・ウエルベックの『服従』を、空き時間読書ということで読み始める。一年前からのフランスでの一連のテロ事件で脚光を浴びただけあって、すでに邦訳も出ている(速っ!)のだけれど、せっかくもとの本(MIchel Houellebecq, Soumission, Flammarion, 2015 )を買ったので、そちらで読んでいる。時間的制約からあんまり進まず、今、約三分の一くらいのところ。でもなかなか読ませる筆致。主人公は大学の教師で、ユイスマンスの研究で学位を取ったという設定だ。80年代的(?)なクリシェっぽい教師像がどこか今風ではないのだけれど(学位取得後の業績があまりないのに教授になっていたりとか、女子学生とよろしくやっていたりとか)、そのデカダンな雰囲気は『さかしま』の主人公を多少思わせもする(もっとも方向性は逆……というか、『服従』の主人公ははるかに俗っぽい感じだけれど)。描かれる舞台は2022年の大統領選で、フランスのための連合(現実世界では共和党になったが)は勢いを失い、国民戦線は極右色を薄めて票をさらに伸ばし、社会党は国民戦線の大統領選出を阻むべく、新興勢力のイスラム主義政党と決選投票で手を組む、という実に興味深い設定になっている。プジャダス(F2の現キャスター)が現役で公開ディベートの司会をしていたり、社会党はヴァルス(現首相)が代表になっていたり、思わず苦笑(?)を誘うような点もいろいろあるけれど、一種のパラレルワールドとして見ればとても興味深い。

この『服従』のおかげでユイスマンスの著書が少し売れているという話も聞いた。うーむ、意外なところで意外な対象が脚光を浴びるものだ。個人的にはユイスマンスもあまりちゃんと読んではいないのだけれど、昔から妙に惹かれたりはしている。『大伽藍』などは、手軽に読める邦訳は抄訳(出口裕弘訳、平凡社ライブラリー)だけだったけれど、その省かれた部分の一部が以前『神の植物・神の動物』(野村喜和夫訳、八坂書房、2003)として別に出たりもして、結構嬉しく読ませてもらったりもした。でもやはりユイスマンスで最も面白そうなのは、その実人生において、いかに黒魔術にはまり、そこからいかにカトリック信仰への転回を遂げたのか、というあたりではないかなと思う。文学研究的にはどのように解釈・評価されているのか気になって調べようと思ったら、いきなり、まさにそれを追った長大な評伝が出ていることを知る(大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』、新評論、2010)。これはぜひ見てみたいと、いきなりアマゾンでポチッた、というのがイマココの状況。

デジタルとアナログの接合

ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)小泉義之『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)』(講談社、2015)をKindle版で。もとは2000年に出た新書。今回の講談社学術文庫版では、数学的経験の哲学がよかった近藤和敬氏が解説を書いているのだけれど、これが前半部分の中核部分、つまり数学的な事象をめぐる考察のよいまとめになっている。これだけ読んでもよいくらいな感じ(笑)。小泉氏が読み解くドゥルーズの数学がらみの議論のアウトラインはこんな感じか。ごくわずかな差異を生み出す大元として、ドゥルーズは微分方程式を念頭に置くわけだけれど、現実世界においては、微分方程式を積分して特定の解が得られるような事象はまず「ない」。現実問題としての微分方程式は「解けない」のであって、それを解こうとするには場合分けをして変数を相当に絞り込んで限定しなければならない(コンピュータシミュレーションの世界だ)。けれどもそうした操作とは別に現実世界の事物は実際に存在する。で、ドゥルーズは、そのような解けない問題に対して自然は、生命は、なんらかの不可知的な様態で答えを出している(答えを出すプロセスは全体としてたたみこまれている)と見ている……というわけなのだけれど、ここに少なからず誤解の芽というか、ある種の倒錯、突き合わせの無理があるようにも思われる。数学はおびただしい現実的要素を捨象して成り立っているわけだけれど、それを反転させて、そちらから現実世界を導くのはほぼ不可能(捨象した現実的要素の全貌は計り知れないから)であり、その意味で数学と現実世界はどちらも相互に異質なものであるほかなく、比喩として用いるのでもない限り、もとよりそのままでは接合しえない……。確かにドゥルーズは数的なもの、微分的なものと称して、これをどこか比喩的に処理しているきらいがある。けれども、それにしても人為的に作り込んでいるものから現実世界を再構成できるというのはその人為性ゆえに無理があるだろうし、単にデジタルなものとアナログなものとの接合が問題なのだとしても、これだけ異質なもの同士(微分方程式と生物)を持ち出してくると、後者が前者をたたみこんでいるという仮説の有効性も判然としない(判然としようがないのでは、という気もする)。

もし生物学を持ち出してくるのであれば、たとえば先に挙げたアリストテレス的現代形而上学所収の、ストール・マコール「生命の起源と生命の定義」などのように、異質ではあってもなんらかの共通基盤が見いだせる層において、デジタルとアナログの接合問題を考えるほうが生産的に思えてくる。同論考では、原生動物の一つラッパムシが切断されても自己再生・再構成することに関して、DNAの関与とは別に、縞模様のパターン(動的な4Dパターン)が時空間的に決定されていて、それにしたがって制御されている可能性、もしくは仮説を取り上げている。DNAが離散的(デジタル的)だとすれば、そのパターンのほうはアナログ的で、あくまで前者を補完する関係にあるとされている。しかも予めそのパターンが厳密に決まっているというのでもなく、置かれた時空間の中で動的に作動するというモデルを考えているようだ。これなどはまさに上のドゥルーズ論で言う「転倒したプラトニズム」を堅実に捉えているかのようだ。なるほど確かにドゥルーズはなんらかの点で先進性を見せてはいる(あるいはそれを読む小泉氏も)だろうけれど、それはそれとして、より細やかに、こうした個別の探求や議論でもって補完されていくべきものなのかもしれない……。

偽作・贋作のプレジール

テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)アンソニー・グラフトン『テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)』(福西亮輔訳、ヒロ・ヒライ監訳、勁草書房、2015)を読み始める。とりあえずざっと前半の第四章まで。以前『カルダーノのコスモス』などでも思ったのだけれど、グラフトンは該博な知識をぼんぼん投げ入れてくるので、読む側がそちらに気を取られてしまうと、議論の主筋から意識が逸らされてしまう感じがする(ルネサンス的ということなのかな?)。だからあまり気が抜けず(笑)、いきおいどっと疲れる読書になりがちだが、今回のこれは各章が独立している論集ということで、そういう緊張の持続時間が章ごとで区切られるので多少助かる。かなり広範なテーマが扱われているようだけれど、数多くの誤謬や珍説などが飛び交う中での学知の成立というのが主軸になっている印象。

前半でとくに個人的に惹かれたのは第三章「捏造の伝統と伝統の捏造」。ヴィルテボのアンニウスという15世紀イタリアのドミニコ会士を扱った章だ。文献学と贋作との間を行き来した時代の申し子という感じで、著者はその姿勢というよりも手法を追い(とみずから宣言している)、アンニウスが使ったであろう出典を猟渉・列挙していくのだけれど、グラフトン自身がはるかにストイックに学究を手がけているせいか、同書では「贋作をなす快楽」とでもいったものへの鷹揚さ・共感(よい意味での)が文面に反して(著者はアンニウスの独創性や多才ぶりに言及しているのだけれど)あまり感じられない気もする。贋作を成立させるには、まずもって博覧強記でなければならないし、言語の修得などにも相当に抜きんでていなくてはならない。その意味で贋作・偽作というのは、学問的な完成度を示すある種の高度な「遊び」にもなりうるはずだ(そういう偽作をいつか作ってみたいという夢は個人的にもある(苦笑)。いわば古い時代の書の二次創作だ)。そうした広義の遊びの感覚・感性が仮にルネサンス期にも見いだせるのだとすれば、だからこそアンニウスの影響というのは広範に続いていったのかもしれないし、当時の諸学者たちは多かれ少なかれそうした偽作と真正との往還運動に手を染めていたのかもしれないし。うーむ、このあたり、余裕があるときに個人的にもなんらかの形で検証してみたいところではある。贋作・偽作の精神史というのはなかなか面白そうなテーマだ。

存在論の前線

アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)トゥオマス・E・タフコ編『アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)』(加地大介ほか訳、春秋社、2015)を読んでいるところ。とりあえずざっと3分の2ほど。アリストテレス的な形而上学の現代的な刷新をテーマに編んだ論集で、各章を構成する論文の数々は、どれも結構読ませる。各議論の全体的な基調をなしているのは、E.J.ロウが提唱する四カテゴリー存在論。アリストテレス的な分類を同じ精神でもって刷新したものということで、アリストテレスの一〇のカテゴリーに代えて、四つ(実体的普遍者、属性(トロープ)、個別的実体、様態)を提唱しているという。これをベースに、その問題点の指摘や修正意見、逆方向の拡張の可能性などを各論者が様々に繰り出していく。というわけで簡単なメモ。

ローゼンクランツ「存在論的カテゴリー」(五章)によれば、形而上学というのは「高い一般性のレベルで存在者が相互にどのような仕方で関係しているかを吟味する」学問とされる。そのため、形而上学は存在論(存在者をカテゴリーに分ける)と宇宙論(秩序を備えた体系としての実在の特徴を記述する)とがありうる。後半のほうにはいくつか宇宙論的な論考もあるようだけれど、やはり論集の比重としては問題の多い前者が焦点となっている。アレクサンダー・バード「種は存在論的に基礎的か」(六章)では、形而上学の試みとは「もし科学の教えが真であるなら、世界はどのようでなくてはならないかを明らかにすること」だと規定されている。上のロウの四カテゴリーに関しては、ジョン・ヘイル「四つのカテゴリーのうちふたつは余分か」(七章)が、普遍者とその属性は実際のところ何を指しているかわからないという根本的な疑問を発していて興味深い。その上で、ウィリアムズのトロープ説(普遍者は個別例の内部にしかなく、抽象的な個別者すなわちトロープにほかならない、とする穏健な実在論)とロウの立場との意外な親近性を指摘していたりする。逆にピーター・サイモンズ「四つのカテゴリー—そしてもっと」(八章)は逆に、カテゴリーを析出するための根拠付け(同著者はこれを因子と称している)を考えていくなら、カテゴリーはもっと多くなければならないのでは、という別の問題を提起している。

ウィリアムズのトロープ説での普遍者は、真に「存在する」と言えるのかという問題があるわけだけれど、それにも関連して、実在しないものの量化を問い直しているのが、ティム・クレイン「存在と量化について考え直す」(三章)。フィクションの登場人物など実在しないものを量化できるのか(つまりsomeなどの量化子をつけて命題にしうるかということ)が基本問題になっているのだけれど、クレインは談話の対象という、存在者を直接意味しない概念を提唱し、それが量化可能なのだと論じている。エリック・オルソン「同一性、量化、数」(四章)は、水などの不可算名詞とされるものも、それをさらに一般化したネバネバ(gunk)のかたまりなどであっても、非同一とみなすことや量化は可能であり、数として数えられる(!)という可能性を指摘している。なにやらこのあたり、なんともいえず面白いのだ(笑)。