「せり出す知覚」の倫理学

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)マクダウェル『徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)』(大庭健監訳、勁草書房、2016)を見ているところ。ジョン・マクダウェルの倫理学に関する論文の、日本オリジナルの選集のようだけれど(?)、収録されている各論考はなかなかに晦渋。というわけで、行きつ戻りつしながらゆっくりと読み進むしかない。第一章の表題論文「徳と理性」がほぼマクダウェルの基本的なスタンスをまとめて提示しているような印象。それをメインストリームだけまとめてみよう。有徳であるとはどういうことかを問うたときに、それがある種の知であるとするなら、その知は哲学的な記述(一般化)、あるいは定式化に耐えるものなのだろうかという問題が提示されうる。すると、そうした定式化、つまりは規則の適用に対して、ウィトゲンシュタイン以来の批判が加えられることになる。そのような規則の適用は、その先においても同じように適用されることをなんら保証するものではない、と。

その非決定的な宙吊り状態(それをカヴェルは「恐れ」といい、マクダウェルは「めまい」と称している)にあってなお、その適用を信じる、確信するには何が必要となるのか。マクダウェルはそれに、当のめまいの状況に対して外在的な立場に立ってみなければならないという考えを捨てること、と答える。どうやらマクダウェルは、人はどう生きるべきかについての見解は成文化できないという原則(アリストテレス)を尊重し、そこには欲求と認識の分かちがたい全体があると考えている。で、目下の状況に応じて、そうした全体をなす知覚的オプションのうちのどれかが「せり出してくる」としている。つまり、何かが、他のすべてを「黙らせる」かたちで行為の理由をなす、というわけだ。もちろんそれは心理的・認識的に渾然一体となったものであるのだから、せり出してくるものを一般化・定式化はできないし、たとえば欲求と認識とに分解することもできない。けれどもまさにそのせり出しこそが、内的な規則の適用への信頼をもたらす当のものだ、というわけだ。なるほどこれは、徹底した唯名論的議論といえるかもしれない(それはたとえば第七章でのプラトンへの言及部分などでも確認できる)。倫理の問題が行為というよりも認識の側に集約されている点も興味深いスタンスだ。