写本のなかの幾何学模様

夏休み(といっても個人的に休暇中ではないのだけれど)のこの時期は、やはりどこか普段とは違ったものが読みたいもの。論文の類もそう。というわけで、実に久しぶりに、テキストの周縁部の話を見てみた。スタヴロス・ラザリス「ギリシア写本の頁組みにおける、幾何学モチーフの装飾の機能」(Stavros Lazaris, Fonctions des ornements à motifs géométriques dans la mise en page du texte des manuscrits grecs, KTÈMA Civilisations de l’Orient, de la Grèce et de Rome antiques, Université de Strasbourg, 2010)というもの。ビザンツ時代の写本に使われているという幾何学モチーフの装飾を、ヨーロッパ中世の全体的な書物史・写本文化史の視点から位置づけ直そうという一篇。写本への装飾の導入は、書物とそれを読む人間との関係の変化に結びついているといい、まずは古代の巻子本から冊子本への移行(2世紀ごろ)、さらに音読から黙読への移行などについてのまとめが続く。装飾の成立は、それらの変化の交わるところで、どこに何が書かれているのかを示すテキストの分割の必要に関連して生じている、ととされている。章の区切りを強調するために始まりや終わりのアルファベットに装飾を施すなどだ。まあ、このあたりはすでにどこかで言われていることだけれど、少し面白いのは、著者が幾何学模様について、象形の挿絵などとは異なり、書を読むことを妨げず、それでいて章の区切れなどを表すことができる、と指摘している点。うーん、そうも言い切れない事例もあるような気がするが(笑)、さしあたりそれは置いておくと、著者はさらにそうした幾何学模様の抽象性が中立性や普遍性を獲得している点(偶像禁止後のビザンツはその意味でとくにそれが発達した、ということか)や、そこに表されている細密画家の自由や、そうした画家の師弟関係(工房)にもとづく系譜の存在なども指摘している。

同論考から、幾何学模様の例(一部)
同論考から、幾何学模様の例(一部)

「描像」と決別するために

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)先頃出た、ドレイファス&テイラー『実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)』(村田純一監訳、法政大学出版局、2016)を読んでいるところ。とりあえずざっと前半。原書も2015年の刊行のようだから、とても素早い対応だ。それほどまでに今、実在論の復権というのはかまびすしい動きになってきているということか。ここで言う実在論は、古典的な唯名論に対立するものではなく、むしろもっと根源的に、西欧に綿々と受け継がれてきた、認識論の媒介主義、つまり現実世界をある種の「描像」を通じて把握するという考え方を否定しようという動きのこと。無媒介主義と言ってもよいかもしれない。媒介主義は、古くは中世のスペキエス(可知的・可感的形象)概念からあり、その後17世紀ごろのデカルトの「心的実体」論やロックの内的記述(同書の著者たちはこれを媒介主義の起源と見ている)、さらにはヒュームの心的印象論、そしてはるか後世の現代においても、ローティやデイヴィドソンなどがその系列に連なるのだという(!)。媒介主義はこのように、懐疑主義や操作主義など、西欧的なある種の独善的な思想を生み出す底流をなしているといい、著者たちはそれを脱構築するという、一筋縄ではいかない作業を引き受けようとする。同書はいわばそうした宣言書にほかならない。

もちろんそうした媒介主義を打破する動きもないわけではなく、カント(同書では「基礎付け主義」とされる)から始まってヘーゲル、現代にいたってはハイデガー、ウィトゲンシュタイン、そしてメルロ=ポンティなどがその代表的な論者とされる。それらの議論の要は、要するに事物が全体的な体系の内部でしか開示されえないというスタンスに尽きる。とくにメルロ=ポンティは、無媒介的な身体ベースの志向性が予めあってはじめて表象的な志向性が可能になることを示したといして、すこぶる高く評価されている。著者らは、媒介主義の基本原理を4つほど切り出してそれらを批判している(それが前半)ほか、次いで描像から抜け出すための処方箋も4つ描き出していて、後半はそれらの詳述ということになるようだ。個人的には、このメルロ=ポンティの評価の部分と、またしてもカント/ヘーゲル路線の再評価というあたりがとりわけ刺激的だ。

探求の心得帳

バイエルの謎: 日本文化になった教則本 (新潮文庫)飛び飛びに読んでいたのだけれど、安田寛『バイエルの謎: 日本文化になった教則本 (新潮文庫)』(新潮社、2016)を文庫版で読了。もとは2012年の音楽之友社刊。うん、これはなかなか楽しい読書体験だった。バイエルはピアノ教則本で有名なのに、本人についてはほとんど情報がない、というところから出発し、日本に入ってきた経緯を追い、初版本を追跡し、そして最後はバイエルその人について戸籍(に相当する洗礼簿)を探っていくというストーリー。そういうアウトラインだけ見れば評伝研究の王道といった感じでもあるのだけれど、著者はその経緯それ自体を記録として、ルポルタージュ風にまとめてみせている。単なる評伝にしていない点がとてもよい。資料と出会えるにはそれなりの探求努力と、幾たびかの挫折、そしてなにがしかの幸運に恵まれなくてはならない……少しでも人文系の研究をすれば、そういう状況というのは多かれ少なかれ体験するはずだけれど、その、時にはまどろっこしいをプロセスを、とても大事に、どこかサスペンスフルに描き出している。これを読んで「こういう探求をやりたいなあ」みたいに思う人も、潜在的には少なからずいるのではないかな、と。というわけで、これは「資料渉猟のススメ」もしくは「探求の心得帳」という感じで個人的には受け止めた一冊。ちなみに、バイエルの初版(とその家庭環境など)をもとに、末尾でとても興味深い仮説が披露されている。うーん、なかなか渋い……。

カッシーラーから見たルソー

ジャン=ジャック・ルソー問題 [新装版]このところ時間が取れず、先週はブログも完全にお休み。今週あたりからはぼちぼちと再開しよう。というわけで、まずはこれ。カッシーラー『ジャン=ジャック・ルソー問題 [新装版]』(生松敬三訳、みすず書房)。1974年刊行のものの新装版(2015)。原著は1932年刊だというが、今読んでもなかなか味わい深い。個人的にはルソーのドイツ語圏での受容というのはどんなだったかに関心を覚えていたのだけれど、ここで展開するのはそういう話ではなく、ルソーの思想内容、とりわけ社会の問題、法の問題についての視座が、表面的な矛盾の数々にもかかわらず一貫していること(第一論文)、さらに倫理学から感情論を切り離すという、当時の倫理学に対立するかのような独自の体系をしつらえていることを(第二論文)を、様々な角度から検証していくというのが趣旨となっている。でも、その過程で、そうしたルソーの独自性、一貫性を理解していたのは、同時代においてほぼカントだけだった(!)という指摘がなされている。うーむ、カッシーラーは新カント派に属していたわけでもあり、また20世紀初頭あたりの時代的な要因もあって、カントはかなり贔屓目で見られていたような感じもなきにしもあらずだが、改めて現代的な研究によるルソーの受容史というのを見てみたい気がする。

ナイルの洪水

ストラボンが示していたナイルの洪水の原因の話。ちょっと気になったので調べてみた。校注者による註では、アリストテレスの説というのは、今では偽アリストテレスの書ということになっているという『ナイルの洪水について(De Inundatione Nili)』からのものだという。どうやらこれは後世のラテン語訳のみが伝わっている、失われたアリストテレスの著書の梗概らしい。で、その内容はというと、少々古いけれど、スタンリー・バースタイン「アレクサンドロス、カリステネス、ナイルの源流」(Stanley M. Burstein, Alexander, Callisthenes and the Source of the Nile, 1976)(PDFはこちら)という論考に端的にまとめられている。それによると、古代に3世紀にわたって続いた、現実から遊離した説(エジプトの土壌はスポンジのようで、冬にしみこんだ雨水が夏に滲んでくる、というエフォロスの説など)に、その梗概は終止符を打ったのだという。そこでは、観察にもとづく所見だとして、次のような話がなされているようだ。エチオピアでは冬以外の時期に大量の雨がふり、その雨水が徐々にたまって洪水となる。洪水は結果的に夏季のエテジア季節風(北風)のころに生じる。エテジア季節風やそれに先立つ夏季の風が雲をもたらし(isti enim nebulas maxime ferunt ad regionem et quicunque alii venti fiunt estavales ante hos)、それが山地にぶつかって雨が発生し、ナイルが発する湿地にそれが大量に流れ込むのだ(quibus offendentibus ad montes defluunt aquae ad stagna, per quae Nilus fluit)、と。論文著者によれば、このアリストテレスの説明(ということにここではなっている)は、新旧をないまぜにした説明だという。前5世紀にデモクリトスやトラシュアルケスは、エテジア季節風がエチオピア南部に豪雨をもたらすと考えているといい、クニドスのエウドクソスはエジプトの聖職者がエチオピアでの夏季の豪雨について証言していると報告しているのだとか。エウドクソスの記述はアリストテレスの『気象学』の記述のソースになっているかもしれないとのこと。

同論文はこのあと、誰がそうした現象を実地で観察したのかという問題へと進んでいく。これもまた大変面白い。セネカの『自然の諸問題』(Naturales Quaestiones)の失われた部分を引用しているリュドスのヨアンネス(6世紀)は、その引用部分で、逍遙学派のカリステネスの『ヘレニカ』第4巻に言及しているのだという。で、その箇所には、「自分(カリステネス)はマケドニアのアレクサンドロス(大王)の遠征に同行したが、エチオピアで、ナイルの洪水がその地域の豪雨の結果であることを発見した」ということが記されているのだとか。この三重引用(?)が果たして正しいのかどうかを、同論文はひたすら追っていく。なにしろヨアンネスによるセネカの引用には二つほど大きな誤りがあるといい、すでにして色々な要素が錯綜しているようだ。さて、その真相は……。