ホワイトヘッドと「思弁的実在論」

モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何かこれも最近出たばかりのスティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』(上野俊哉訳、河出書房新社、2016)。前回のエントリと同じく実在論ものではあるのだけれど、こちらは例の「思弁的実在論」がらみの話。先のドレイファス&テイラーの本が、主体と客体のはざまの問題を取り上げ、前概念的なレイヤーを考えるところにとどまっているのに対して、シャヴィロはメイヤスーやハートマンなどと並んで、ホワイトヘッドとダシに、はるかに先にまで行き着く思弁的実在論の擁護を試みる。ま、それが成功しているかどうかはまた別の話なのだけれど。

主体・客体のような二分割は、当然ながら人間とそれ以外といった分割に重なり、結果的に人間中心主義になるわけなのだけれど、ここでの基本スタンスはその中心をずらしていって、結局どこにも中心はないというところにまで行く。果てはモノそのもの(生物と非生物の垣根も取っ払われて)にある種の主体性、内面性、あるいは外部とのやり取りを認めるところにまでいく。一見して、これがIoTなどの概念を先取り(後追いかもしれない?)して敷衍していることがわかる。けれどもそのような議論の文脈で取り上げられているホワイトヘッドの「モノ」の議論は、それとはだいぶズレている印象なのだが……。個と全体とのコスモロジカルな連関を主眼に据えている(トップダウン的に?)ように見えるホワイトヘッド(個人的に読み囓り程度なので、もしかしたら違うのかもしれないけれど)に対して、思弁的実在論のほうは「モノが他のモノを対象として扱う」というような言い方で、インタラクションのレイヤーを考えようとしている、というか、そういうレイヤーを考えたいとの希望をひたすら語っている印象を受ける(ボトムアップ的に?)。けれども、これはどうなのか。やはりそういうインタラクションは、どこか有機体と無機物との複合体のような状況でしか考えられないのではないか、結果的に有機・無機の二分法は温存されてしまうしかないのではないか(個人的にはシモンドンあたりもそんなふうだったと思うのだが)、仮に無機物が有機体を誘うというアフォーダンス的な面があるのだとしても、だからといって無機物は真に主体化できるのか、モノ対モノの(モノが対象であると同時に主体にもなる)一元論的な関係に帰着させることには無理があるのではないか……などなど、多少とも古いタイプの読み手としては、そのあたりの思考回路から出られず、どこか遠い目でそうした議論を見ているしかないのだけれど……。

うーん、それにしてもここではホワイトヘッドが本当にダシでしかないのもちょっとなあ……(笑)。というわけで、個人的にはホワイトヘッドを改めてちゃんと読もうかと思っているところ。