ジョルダーノ・ブルーノの魔術観

De la magie (nouvelle édition)このところ久々に、モノ(技術的対象)と人間との一種の混成状況を扱うものを少し読んできたが、そこで問題になっているのは、そうした混成状況がある種の操作性だったり倫理だったりを纏うという、脱人間論(機械化)的な議論と、それでもなお人間が主体としての揺るぎない地位を占めているという議論との、ある種の揺れ動き、あるは往還運動であるように思われる。で、言わずもがなだが、この議論には何度も繰り返されてきたような既視感がある。ルネサンス期あたりの魔術の関わりなどはまさにその一つではないだろうか……というわけで、16世紀の魔術論をジョルダーノ・ブルーノの小著『魔術について』(De Magia)を、手っ取り早く仏訳版(Giordano Bruno, De la magie (nouvelle édition), trad., Danielle Sonnier et Boris Donné, Éditions Allia, 2009)で読む。この小著は、ブルーノの生前には発表されず、19世紀末になってようやく日の目を見たものだそうで、ブルーノの主著である対話篇などとは趣きが異なり、どちらかといえば私的なメモといった風のもの。中味は、いわゆる魔術書ではなく、なんらかの秘伝や術が解説されているわけではない。むしろその背景をなす哲学的・自然学的な議論が大半を占めており、その個々のトピックは多岐にわたるわけだけれど、基本的には、主体の他者への働きかけが物質を介してなされている(物質だけでは他の物質に働きかけえない)という考え方が読み取れる。一方で形相が作用の主体をなすという点も揺るぎない。物質を結びつけるシンパシー、連携、結合などはすべて形相からもたらされる、と。いくぶん怪しげな部分(悪魔への言及など)を差引くならば、これはまさにモノと人間の混成状況での操作性論・倫理学の先駆け的なものとしても読めるというわけだ。

巻末には仏訳者らによる解説があるのだけれど、そこではブルーノにとっての同書が、マルクスにとっっての『フォイエルバッハに関するテーゼ』にも匹敵するものではなかったかとの指摘がある。つまり、純粋な理論による世界の秩序の考察を、世界を変えるための真の活動でもって乗り越えるための、手段として魔術があった、というわけだ。とはいえ、それはあくまでマニフェストなのであって、同書で展開する魔術論は抽象的なものにとどまり、魔術的なものがもたらしうる宇宙の霊的な連続性の証拠にこそ、ブルーノの関心はあったのだろうとも述べている。このあたりの話の是非はすぐには判断できないので、さしあたり置いておくけれども、印象としてはそれが「観想的魔術」(G.ノーデという研究者の用語)だったという解説は妥当のようにも思える。

また余談になるけれども、個人的には、魔術(いわば技術的介入)の操作がもたらすモノのシンパシーないし調和の喩えとして、楽器の話が出てくるのも興味深い。狼はロバや羊にとってのおそれをなす対象だが、ロバの皮を張った太鼓は狼の皮を張った太鼓(!)よりも音の厚みでまさっている、とか、羊の腸を張ったリュートは、狼の腸を張ったリュート(!)とは、調和した音を生み出すことができないとか……云々。狼を用いた太鼓やリュートがあったとは思えないけれど(?)、表現として面白い。これまた解説によると、少し時代が下ってからのディドロも、同じようなレトリックを駆使しているといい、人間ほか生き物全般を振動する弦に喩え、「魂と感覚をもったチェンバロ」(18世紀末なのでリュートは下火だった)などと表現しているのだとか。これもちょっと要確認かな(笑)。ディドロの唯物論も気になるところではある。