【再考】アヴェロエスと「思考」

アラン・ド・リベラの『主体の考古学』シリーズ。まだ個人的は3巻目を読んでいないのだけれど、すでにぼちぼちとそれを批判したり、その考察を深めたりするような議論も出てきているようだ。その一つが、ジャン=バティスト・ブルネの論考「アヴェロエスにおける思考、付帯的名称、変化:アリストテレス『自然学』七巻三章の解読」(J.-B. Brent, Pensée, dénomination extrinsèque et changement chez Averroès: Une lecture d’Aristote, Physique VII, 3, Archives d’Histoire Littéraire et Doctrinale du Moyen Âge, 82, 2015)という論考。以下、主要論点についてのメモをまとめておこう。

リベラの『主体の考古学』のメインテーマの一つとなっているのが「呼称の交差(chiasme de la dénomination)」の問題。「思考」という語が、対象としての「思考内容」から、主体としての「思考する者」へと、どのように移行(転移)したのかということなのだが、リベラはこれを二段階の激変として捉える。一つめは「対象(外的)から思考内容への転移」。そこでは思考する主体そのものは変化しないが、何か別のものが変化した、とされる。そして二つめがアヴェロエスの到来で、それにより「思考内容から思考する者への転移」がなされたのだ、と。

論考は、とくにこの二つめの激変について、アヴェロエスに焦点を合わせつつ改めて検証し直している。そのために、まずはアリストテレスの「変化」概念に立ち返り、さらにそれについての亜アヴェロエスの注解を検討する。アリストテレスは認識する者は認識によって質的変化を被らないが、他方で何か別のもの(「魂の感覚的な部分」)が変化すると記している。学知の場合もそうで、学知を獲得する主体自体は変わらないが、一方で何かが存在するとき(現働化するとき)にその学知は生じる、としている、と。アヴェロエスはこれを、認識者そのものと、認識する部分との区別で説明づける。認識者そのものは変化しないが、認識する「別の部分」は対象およびその像を受け容れる限りにおいて「変化」を前提としている。人間が思考するときには、その身体とそれに関係づけられている下位の魂が変化するが、一方で本質を概念的に認識する知性そのものは「変化」しない、と。

アヴェロエスはまた一方で、「変化」の意味を下位区分することで、上の「変化」を別様に解釈してもいるようだ。変化と変化それ自体の目的との区別、さらには本質的変化と付帯的変化の区別を重ね合わせることで、付帯的変化(瞬時かつ不可分の)は、本質的変化(経時的かつ分割可能な)の目的をなすと説明づけているのだという。ロウソクで部屋を照らす場合、そのロウソクをもってくるなどの動きは経時的なものだが、それが到着して目的を達すること、すなわち部屋を照らすことは、瞬時になされ、しかもロウソクをもってくる前段の動きとは異質な変化となる。では人間の思考の場合はどうか。そこでもまた、それら変化の区別は有効で、結局、アヴェロエスは自身の離在的知性論に即し、思考とは複合的な動きとして人間に与えられていて、身体に影響する実際の変化(本質的変化)と、その目的をなし、付帯的呼称として知性を述語付ける付帯的変化から成る、と考えているのだ、と。ここから付帯的呼称の交差現象が起きるまでは、あともう少しでしかない……。一方、いわゆるアヴェロエス主義で言うような、人間と知性の存在論的分離(離在論の急進的な解釈)の図式では、思考が人間においてなされないということになってしまい(あるいはまた、知性が人間の本質ではないということになってしまい)、以上のような変化の構図が当てはまらない。アヴェロエスは(アリストテレスそのものもだが)実はもっとはるかに複雑なのだ、というわけか。