アリストテレスと「無限」

無限  その哲学と数学 (講談社学術文庫)以前さわりを少し読んだだけで積ん読になっていた、A.W.ムーア『無限 その哲学と数学 (講談社学術文庫)』(石村多門訳、講談社、2012)を通読しようとしているところ。原著は1990刊。古代ギリシアから現代にいたるまでの「無限」にまつわる思想の展開を追ったもので、哲学史と数学史が交差する興味深い一冊。前半は思想的な通史のまとめ、後半は現代数学での無限の解釈についての概観になっている。前半部分はまた、大きく古代ギリシアから中世・ルネサンス(扱いは小さいが)までと、近世以後とに分かれる感じだ。前半部分の前半、つまり全体の4分の1で主役となっている(つまり割かれているページが多い)のは、なんといってもアリストテレス。プラトンとそれ以前の古代ギリシアの無限論では、無限はつまるところ事物の構造の基礎をなしているという考え方がある程度「共有」されていたというが、それらに対して、そもそも現象と実在の区別を否定するアリストテレスの場合、もしその共有された考え方を保持するなら、無限を時空間の場面において理解する必要に迫られることになる。つまり自然の中に無限なものが存在するかどうかが重要な問題となった、という。また、アリストテレスは無限を「通過できない(終わりに達することができない)もの」という(曖昧な)形で定義し直す。著者によれば、まさにこれは数学的無限の初の特徴づけだったという。

では自然界にそのような無限なものは存在するのか。アリストテレスは自然界には「何も無限なものは存在しない」との立場を取るのだが、そこにはジレンマもあって、時間の無限の分割可能性、物質の無限の分割可能性、自然数の連続や空間が無限であるという数学的真理などが立ちふさがった。で、それらへのアリストテレスの対応策として出てきたのが、有名な「無限は可能的には存在するが現実的には存在しない」という考え方だという。これは、「すべてが同時にそこに存在できはしないという意味での無限」の言い換えでもある。この可能的/現実的の区別はなかなか秀逸で、時間や空間が分割において無限であることはこれで一応認めることができ、数学で仮定される空間は、現実の空間がどんなものかとはおよそ関係がないとすることもできる。無限を形而上学的概念(統一体とか全体とか)に仕上げる旧来の伝統を否定することもできる。けれどもそこには問題もなお残されている、と著者は言う。過去からの時間の流れが、今この時点で完了している場合についてはどう考えればよいのか、という問題だ。過去の時間は加算によっては無限であると考えられるけれども、何かが完了した現在という場合、その完了に至った過去は通過してしまっているではないか、と……。

この問題や、上の可能的/現実的の区別の緻密化が、中世からルネサンスにおいても継承されていくわけなのだけれど(たとえばビュリダンやリミニのグレゴリウスによる、自義的無限と共義的無限の区別など。これなどはまさに可能的/現実的の区別を精緻化したものと見なすことができる)、同書ではそのあたりはごく簡単に触れられているだけだ(だからといってポイントが押さえられていないわけではないが)。それがちょっと残念かも。前半部分の後半は、今度はカントが主役に躍り出てくるようだ。