プロクロス『パルメニデス注解』第三巻から

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: 1re 2e Partie Livre III - Introduction Partie Au Livre III (Collection Des Universites De France)ストラボンは一端中断して、少し前からプロクロス『「パルメニデス」注解』の第3巻をレ・ベル・レットル版(Proclus, Commentaire sur le Parménide de Platon: 1re et 2e partie, Livre III (Collection des Universités de France), C. Luna et A.-P. Segonds, Paris, Les Belles Lettres, 2011)で読んでいた。第3巻は原文+詳細な注をまとめた分冊と、その文献学的な序論を収めた分冊との2冊に分かれているのだけれど、とりあえずこの原文部分だけを一通り読了。同じこの校注版で第2巻まで読んでからずいぶん時間が経ってしまったが、実はこの第3巻と続く第4巻が全体のメイン部分をなしている。そこでは形相(εἴδη)の問題が多面的に語られているからだ。第3巻の冒頭に、同書が以下に扱う問いとして次の4つが挙げられている。「形相は存在するか」「形相は何であって、何でないか」「形相の性質とは何か、どのような固有の属性があるか」「現実の個物は何故に形相に参与するか、またどのような形で参与するか」。最初の2つが第3巻で、残る2つが第4巻で扱われる(らしい)。

ここで詳細に紹介することはできないけれど、第3巻でのプロクロスの議論の要点は、プラトン主義的な流出論の因果関係と、範型(παράδειγμα)としての形相の区別にある印象だ。デミウルゴスによる形相の産出は、みずからの内にある源泉による場合と、知的なイデアによる場合とがあるとされる(802.30)。デミウルゴスはすでにして神的存在としては身分が低く、一者と多の両方の特徴を併せ持っているとされる(806.26)。そんなわけで、そもそも像ではないとされる(むしろ原因的なものとされる)知的なイデアは、すべての現実態の源泉になっているわけではなく、そこにはイデアに拠らない部分的・感覚的なものが含まれてくる。たとえばそれは部分の問題や、「悪」「悪しきもの」の問題に関わってくる。形相はあくまで全体に関わるのであり、部分的なもの(指や髪の毛など)単独の形相があるというわけではないとされる。また、プロクロスが報じる体系では、創造されるものは必ずやなんらかの善に参与しているとされ、ゆえに悪は形相に由来するものではないか(欠如など)、その悪すらも善になんらかの形で参与しているのだとされる。

ちなみに余談だけれど、この校注版のもとになっているテキストは、前回のエントリで触れたヴィクトール・クザンが編纂した二つの版なのだとか。うーん、クザン恐るべし。続く第4巻は長いので、読み終わるのはしばらく先になりそうだが、そのうち取りかかることにしたい。

哲学研究と中世主義:アベラールの例

Medievisme Philosophique Et Raison Moderne: De Pierre Bayle a Ernest Renan (Conferences Pierre Abelard)さてさて本筋に戻って、中世哲学関連の話を。このところ、中世哲学の研究史についていろいろと興味深いトピックが出てきている気がするが、これなどはまさにその王道というか、正面切っての精力的な取り組みになっている。カトリーヌ・ケーニヒ・プラロン『哲学的中世研究と近代的理性–ピエール・ベールからエルネスト・ルナンまで』(Catherine König-Pralong, Médiévisme philosophique et raison moderne: de Pierre Bayle à Ernest Renan (Conférences Pierre Abélard), Paris, J. Vrin, 2016)。18世紀から19世紀にかけての、中世研究の成立史を追った一冊。全体は四章構成になっていて、最初が概論的な中世研究史、次がアラビア哲学の認識問題、第三章は神秘主義vsスコラ哲学、第四章はアベラールの受容の変遷史を扱っている。著者本人も序文で記しているように、全体を俯瞰した後、徐々に問題圏を絞り込んでいくという構成になっている。

個人的に注目したいと思ったのは、とくにこの第四章のピエール・アベラールの受容の変遷。18世紀の啓蒙主義時代のアベラール評価は、基本的にその自伝や同時代の証言などにもとづき異端的とされ、さらにエロイーズとの手紙などの関連で、物語的な(ロマネスクな)人物像で彩られていた。さらにその異端的な部分(スピノザ主義の先駆として、あるいは無神論者として)がドイツの哲学史研究者によって強調され、19世紀初頭までそうしたネガティブな評価が優勢だったという。普遍論争の絡みでも、アベラールはプラトン主義者と見なされ、実在論の人という形で評価されたりもしている(まあ確かに、そのように読める箇所がアベラールのテキストには随所に見られるのだけれど)。これに異を唱える先鋒となったのが、ヴィクトール・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)で、主に校注版の編纂を通じて、アベラールの評価を180度変えていくことになる。聖書の注解書に見られる正統教義の理解(スピノザ主義や無神論ではない)、『sic et non』に見られるスコラ哲学の嚆矢的なスタンス、師のロスリンを発展させた形での概念論的なスタンス(プラトン主義ではなく、むしろ唯名論に近い)などなど。

こうした新たな像をひっさげて、いわば殴り込みをかけた(と言っては言い過ぎかな)クザンは、それを通じて、古代とルネサンスの間をとりもつ中世の評価を変え(断絶から連続性へ)、中世思想におけるフランスの地位を高め(スコラ哲学の伝統の嚆矢として)、さらにそのフランスのスコラ学を近代ヨーロッパの黎明の中心に据えるという、一大変革をもたらそうとした、と著者は捉えている。そこには、きわめて政治的な目的と手腕とが見いだされるのだ、と。このあたり、学問にまつわる微妙な政治的きな臭さも含めて、リアルポリティクス的に大変興味深い議論ではある。

[時勢]保守とは何かを考え直す

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)時勢の話が続くけれど、ご勘弁のほどを。このところの時勢の流れを見て、アメリカの保守主義について押さえておくことはとても重要かもしれない、と改めて思った。というわけで、宇野重規『保守主義とは何か – 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)』(中央公論新社、2016)を読んでみる。著者曰く同書は、「必ずしも自らを保守主義者とは考えていない」者による、外的な視点での保守主義論だという(あとがきより)。この、外部に立つという姿勢は、ある意味共感を呼ぶスタンスではある。実際、同書はまさしく、主に欧州(というか英国)とアメリカ(ついでに日本にも触れているが)についての歴史的保守主義論。フランス革命に対するある種の反動として制度の維持・保守を訴えた17世紀の英国人エドマンド・バークから始まり、20世紀のエリオット、ハイエク、オークショットなどが紹介されていくのだけれど、やはり同書のハイライトはアメリカを扱った第三章という感じ。「大きな政府」に対抗するという特殊なスタンスが、アメリカの軸線として浮かび上がる。中心となるのはいわゆるリバタリアニズム。フリードマンとかノージックとかが中心人物となるわけだけれど、これが草の根のティーパーティー運動(もとはボストン茶会事件に由来するのだそうで、課税反対・小さな政府をスローガンにしている)にまで流れ込んでいくという。なるほど、だからソローもその文脈で取り上げられたわけか。一方で今やバリバリの保守とされるネオコンは、よく知られているようにもとは転向左翼。それがリベラル反共主義、ある種のリアリズムを経て、新保守主義へと移り変わっていった、という話。アメリカの保守派はまったくもって一枚岩ではないということが、改めて浮かび上がる。さて、次のトランプ政権はどういう位置づけになるのかしら……。

ソローを読む

市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)19世紀の作家ヘンリー・ソローというと、『森の生活』ばかりが有名という印象だけれど、もう一つ忘れてならないのは、反抗的人間という側面もあるということだ。というわけで、いまさらではあるけれど、意外だった米国の大統領選以来、ちびちびと市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)』(飯田実訳、岩波書店、1997)を改めて読んでいるところ。この表題作「市民の抵抗」がやはり凄まじい。基本的に大きな政府を批判しているということで、ソローは一時、新自由主義(というかリバタリアン?)の連中の議論で取り込まれたりもしていたそうなのだけれど、そんなチンケな枠組みに押し込めて矮小化できるような論者ではまったくない。不正を働く(戦争など)ような政府をそもそもいっさい認めず、日和見的な態度を一蹴し、一言で言って積極的で孤高の否定を貫く。連帯に向けて行動する人ではない。ただひすら散発的に反抗を示すことが、たとえそこに相互の連携がなくとも、大きなうねりの発端をなすのだという信念に貫かれた人物像だ。巻末の解説にも、これは同じく所収の「ブラウン大尉を弁護して」についてのコメントだが、ソローは決して、納税拒否のような穏当な手段による平和革命、非暴力的不服従運動を提唱しているわけではないと記されている。そんなわけでカミュなどともまたずいぶん違う印象の、アメリカを憂うしなやかな知性といったところか。で、その精神はどこか今なおアメリカに息づいている気がしなくもない(トランプ選出後の人々の動きとか)。それは少しうらやましいところでもある……。

デカルト自然学の輪郭

デカルトの自然哲学 (岩波オンデマンドブックス)以前から読みたいと思いつつ、なぜかすれ違っていた(苦笑)小林道夫『デカルトの自然哲学』(岩波書店、1996 – 2015)をようやく読了。仏Vrin社から著者自身が出した仏語版をベースに、日本語版として一部加筆などしたものらしい。自然哲学の面からのデカルトへのアプローチは、今なお国内ではあまり類を見ないので、すでにしてとても貴重な一冊。個人的には四章以降の具体的な自然学を扱った各章がとりわけ興味深い。まずもって、等速直線運動としての慣性の法則を、デカルトがいち早く設定し、それによって無限宇宙の概念(ジョルダーノ・ブルーノ)に物理学的根拠が与えられたといった指摘がなされている(p.92)。円運動も、直線慣性運動と直線加速度運動に分解され、それらの合成によるものとされて(p.100)、もはやアリストテレス的な伝統の、円運動を完全なる運動と考える視点はなくなる。運動は時間と空間の関係で、「関数的あるいは解析的に」(p.101)解明しようとされる。物体の運動は「宇宙の秩序や物体の目的原因ないし形相原因というものに関わらせることなく、その現実態において探求することが可能になった」(p.116)というわけだ。静力学、流体力学において、それは大きな成果を残すことにもなる、と。

しかしながら、と著者は言う。デカルトの自然学においては、宇宙論が地上の物理学に先行していなければならないとされ(p.103)、この根本的な見地がやがてその自然哲学の発展を阻むことにもなる。かくしてデカルトは質料概念を捉え損なってしまい、物質量だけでなく表面積なども関係すると考えてしまう(物質即延長説と空間を満たす微細物質の考え方による逸脱)。そうした一種のホーリズムによって、たとえば自由落下の探求は妨げられてしまう(p.156)。また複振子の振動中心も見いだせないと考えてしまう(p.161)。『書簡』に見られる進んだ数学的発想と、『哲学の原理』の第三部、第四部で展開される宇宙論との落差が、このように鮮明に示されている。