プラトンの『政治家』

Statesman. Philebus. Ion (Loeb Classical Library)一連の対話篇のなかでも、あまり読まれないのでは、と思われる(?)『政治家』を、思うところあって眺めてみた。例によってLoeb版(Plato, Statesman. Philebus. Ion (Loeb Classical Library), Harvard Univ. Press, 1925-2006)。後期対話篇とされるものの一つで、『ソピステス』の続編。これまた話がいろいろな方向に飛びつつ、錯綜しながら語られていく一篇。たとえば、政治家の技法というものが、最初は群れを率いる羊飼いになぞらえられる。けれどもそれはいつしか否定され、今度は織物師の技法に比較される。ところがこれもなにやら雲行きが怪しくなっていく。その間には、クロノスが統治した時代の神話とか、事物の分類に関する議論とかが差し挟まれたりして、全体が「脱線」(?)したりもする……。結局どこに行き着くのかといえば、真正なる政治家とは最高の学知を備えた王者でなくてはならないが、それが事実上ありえないからには、それに準ずる法による統治に落ち着くしかない、という着地点だったりする。ある意味なんとも奇妙(というと語弊があるけれど)なテキストだ。

Platon, la politiqueこれについては、コルネリウス・カストリアディスによる講義『プラトンの「政治家」について』(Cornelius Castoriadis, Sur le politique de Platon, Paris, Éditions du Seuil, 1999)があり、そちらも併読してみた。同書をめぐる1986年の、社会科学高等研究院での講義録。これで多少とも全体的な構成やテーマについての見通しがよくなった。カストリアディスはこのテキストを大きく、「二つの定義、八つの挿入話、三つの余談」から成ると腑分けしてみせる。二つの定義は上の、政治家を羊飼いと織物師にたとえていることに対応する。その上で、実は三つめの定義というものが、三つめの余談にあるとされ、それが学知・学識としての政治家像だとされる(残り二つの余談は、クロノスの神話と各政治体制の評価)。

『政治家』の本文では、真正の王者が統治することが真の理想だとされていて、そこでは誰も口を挟むことのない法が敷かれるとされる。一見するところ、王者が強大な権力を握る体制に見える。カストリアディスはこれについて、当時のアテナイが民主制に移行している中での「王政」を説く点に、プラトンの独自性を見いだしている。その上で、プラトンのそうした権威主義・絶対主義(全体主義という言葉ではアナクロニズムになってしまうと述べている)は、急進的なものであって、決して保守的(懐古的)ではないと評価している(p.162)。過去に戻ろうとする気はいささかもないという意味で、それは反動的な理想主義ですらなく、むしろ『国家』で描かれた、王政(ましな)→寡頭政治→民主制→暴政の繰り返しから脱するための壮大な計画を描いているのではないか、というわけだ。過ちを犯しやすい人間の性が強調され、それぞれの政治体制に欠陥があるといった指摘もなされるプラトンの文章は、『政治家』においても、確かに『国家』同様、なにがしかの当時の社会的現実を念頭に置いている感触が濃い。そうした中での思索的奮闘として読むことができそうだ。

文学研究者と未読問題

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦フランコ・モレッティ『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』(秋草俊一郎ほか訳、みすず書房、2016)を読了。これは方法論を味わう一冊という感じだ。モレッティはイタリア出身で、後にアメリカで活動するようになった文芸批評家とのことだ。同書は個人論集で、90年代以降の10編を編んだもの。発端となる(全体を貫く)問いかけは次のようなものだ。世の文学研究者もしくは文学通は、当然ながらカノンとされた書を多々読んでいるだろう。けれども、カノンと認められた文学など、世界文学からすれば全体のほんの一部でしかない。ではその場合、その研究者もしくは通の人は、「世界文学」というものを真に理解していると言えるのか?そんな挑発的な問いかけから始まる一連の論考。著者は自身の問いかけに対して、ではカノンとそうでないものを分けるのは何かと問い、そこに形式論的な枝分かれや、ウォーラーステインに触発された中心と周縁のシステム論、外国の形式と地域の題材との組み合わせ等々、様々な道具や発想を用いてアプローチしていく。

もちろんどれもがうまく行っているわけではなさそうで、批判にも晒されているようだけれど、それらへの対応も含めて、形式の分析へとひたすら突き進んでいく。表題の「遠読」で提唱されているのは、カノンの外側を見るため「いかにテクストを読まないか」(p.72)、つまりテクストよりもずっと(小さくて)大きい単位(技巧、テーマ、文彩)に焦点を合わせることを目的として、距離を取ることを学べということだ。様々な作品がデータ化されアーカイブ化され、それらをネットワーク的な観点から分析することが可能になったがゆえの現代的アプローチ。プロットだけを扱う物語の構造分析も今や過去の話か。こういうのを見ると、思想史におけるカノンと、その外部にも思いを馳せずにはいられない。もっとも思想史、とくに中世や古代のものは、19世紀あたりの小説作品とは違い、ときにそもそも残っていなかったりもするわけだけれど。モレッティのようなアプローチ(それはまだ十全に精緻化されているとは言えそうにない)が、失われたテキストのなにがしかの復元に貢献するようなことは今後ありうるだろうか、というあたりがとても気になる。

みたび、シャルル・クロ

Oeuvres Completes (Cros)シャルル・クロの全集(Charles Cros, Oeuvres complètes, (fac-similé de l’édition du Club français du livre (1955), Éditions du Sandre, 2011-2016)から、「諸惑星との意思疎通手段の研究(Études sur les moyens de communication avec les planètes)」という例の論考を読んでみた。他の惑星に仮に人類と同程度の知性をもつ生物がいたとして、それとコンタクトを取るにはどうすればよいか、またその後のより密な情報を交わすにはどうすればよいかを考察した一篇。まずは光で信号を送るアイデアが示され(拡散する光を一方向にのみ集め、しかも極地から放射するというアイデア)、次いで相手がそれを自然現象と誤解しないよう、人為的に間隔を空ける(その間隔は要検討とされている)ことなどが提唱される。さらに続いて、その信号でもって何を伝えるかが考察される。クロは、真っ先に伝達できるのは数字だろうとし、3つを単位とする光の点滅パターンで数字を表すことを考えている(2つとかの可能性も示唆している。二進法?)。

こうして記数法が両者で共有されたら、その明滅のリズムでもって「知覚可能・思考可能なあらゆるエッセンス」を表すことができる、とクロ。数しか伝達できない、数を通してのみ理解し合うという制限がある中で、それ以上のやりとりに進むには二種類の方法しかない、とクロは言う。一つは、幾何学のやり方で平面図形を一連の数字に変換し、それを連続的に送るという方法。変換は数学で用いられるものを使うという(要するに数式化して送るということ?)。もう一つは、図形を点描として(ドット絵のように?)送るという方法。この点描の場合については、必要なビーズ(真珠玉)の数を表した一連の数列を送り、それらが並列に並べられると図形が浮かび上がるようにする、というアイデアを提示している。いずれにしても、まずは簡単・単純なものから送るべし、とある。それによって先方に解読のコードを解いてもらおう、試行錯誤してもらおうということのようだ。で、このアイデアに類似の方式がすでに機械織りなど工業において使われている、とクロは明記している。ほかにも点描のアイデアはいろいろ可能だとも述べ、自説を議論へと開いている。このあたり、19世紀当時の科学的・社会的な現実の反映(着想源としての織機)と理論上の制約(コードの共有という厄介な問題を迂回)などが複合的に姿を現しているようで、そう考えるとなんとも味わい深いものがある(笑)。現代の読み手は、やはりこのテキストを当時の社会的文脈へと開いていくよう誘われる気がする。次は、やはり収録されている知覚論も見てみよう。

主体論の深度

〈私〉の哲学を哲学する先に触れたアラン・ド・リベラの主体の考古学は、歴史的な事象をアナクロ的に行き来しつつ、その主体という問題圏を多面的に(立体的に?)浮かび上がらせようとする試みと見ることができる。それはときに、思想史的な論究を越えて、その哲学的な問題そのものの深みに潜って行きさえする印象だ。それに類する哲学的な論究で、邦語で読めるものとして代表的なのはというと、永井均氏などの哲学的思索がある。というわけで、積ん読の山から、同氏ほかによる論集〈私〉の哲学を哲学する』(講談社、2010)を読んでみた。基本的に永井氏の一連の著作をめぐるシンポジウムの記録ということなのだけれど、参加している各人(入不二基義、上野修、青山拓央)の応答などが大変興味深い。個人的に永井氏の著作は網羅的に追っているわけでもないのだけれど、いくつかは既読なので、さほど抵抗感なく議論を追うことができる(ように思う)。議論はいくつかのトピックを中心にめぐっていく。その一つで、前半のメインになるのが、「無内包」の概念(語義的には概念が内包されていないということなので、これは妙な言い方になってしまうけれど)。「私」というものの問いを突き詰め、構造的にその成立条件へと遡ろうとするときに行き着く(そして問題となる)、実体的な拠り所のなさを語る言葉だ。

それはいわば前言語的な段階へのアプローチ。コンピュータにたとえるなら、機械語のレベルに遡る試みは現象学などにも見られるものの、こちら永井哲学はある意味、ほとんどBIOSにまで迫ろうとする話のようにも見える。もちろん、それ自体を高次の言語の側からのぞき見ることは不可能なのだけれど、その段階にあってもなお、なんらかの原初の痕跡をどこかに探れないかと健闘しているかのようだ。そんなわけで、そうしたアプローチの一つという意味では、永井氏の「第0次内包」や、入不二氏が批判的に示唆する「マイナス内包」といった区分けは、永井氏曰く「どちらでもよい」ような話ではある。もちろん、だからといってそれが刺激的な議論にならないわけではないのだけれど。

デカルトの言う「コギト」の内実もまた、現実でないわけにはいかない唯一のもの(上野氏)ではあるけれども、それ自体は前言語的な何かでしかない。それを考えるのが永井氏による主体の開闢論、ということになるわけなのだが、上野氏はそこに、ラカンのシニフィアンの構造(他者が言う「私」を、主体が自分を指す「私」として取り込むという逆転現象の理拠)とデイヴィドソンの真理についての根源的解釈(意味がわかるということは、その発話が真になる真理条件を知っていなくてはならない云々)を繋ぐという、とても意義深い解釈を差し挟んでいる。また、一方で青山氏が提起したような、様相理論で言うところの可能世界と、他者が主体として抱くであろう世界との差異の問題(様相と指標の大きな違いは、実在性についての直観だとされる)なども、同様に興味を誘うところだ(これに対する永井氏の応答では、氏の「独在論」に則るならば、どちらも「場所」と「発話の口」がないがゆえに、実在しえないとされる)……。分析哲学系の微細な話と、主体の構造的な捻れの話などが絶妙に接合されて、同書はとても豊かな意味論的空間を開いてみせる。もちろん、そうした問題に携わる際の、言語そのものに内在する不自由さのようなもの(それと格闘するのがすなわち哲学だ)も、如実に示されたりするのだが……。

シャルル・クロと知覚論

シャルル・クロ 詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真少し前に取り上げたシャルル・クロ(そのときはクロスという表記にしたが、これは誤り。正しい読みはクロとのことなので、訂正しお詫び申し上げる)。邦語での唯一の研究書というが出ていると知り、早速見てみることにした。福田裕大『シャルル・クロ–詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真』(水声社、2014)。シャルル・クロの詩人としての側面と、科学者としての側面とを、立体的に浮かび上がらせる試み。とくに科学者としての側面については、各種の技術史的なクリシェに絡め取られたクロの固定的イメージを越えて、その実像に迫ろうとしている。クロの科学研究として同書でとくに扱われるのは二大主要業績とされている色彩写真と蓄音機。クロの研究は全体的に理論家としての側面が強く、いずれも実際の機器の開発に至っているわけではないというが、同書を読む限り、そこには視覚・聴覚の内的な機能面を要素に分解してまた組み立て直すという、科学本来の(こう言って良ければデジタル指向な)方法論のある種の先鋭化が見られるようにも思われる。著者はというと、そこにベースとして、特徴的な知覚論の存在を見いだしている。つまりクロにとってのそうした研究は単なる技術開発ではなく、もっと奥深いところで、知覚そのものの探求に結びついているというのだ。「知覚器官の実際の組成ではなく、それらが駆動させている機能に目を向け、このはたらきを再現しうる一個の力学的モデルを構築することによって、曰くそれを「演繹的に」検証しようとした」(p. 245)。

機能としての知覚。なるほど、これはとても興味深い視点だ。色彩写真でも、当初クロは、今風のカラー写真ではなく、なんらかの装置を用いて色彩を再現するという方法を考えていたのだという。三原色へと色彩を一度分解して、それを再構成できるのであれば、そこに装置が介在していても構わない、ということのようで、つまりクロが模索しようとしていたのは、視覚が認識する色彩のプロセス全体であり、開発の対象もそうした認識プロセスに組み込まれるシステムであればそれでよかったのだ。蓄音機の発想についても同様で、いったんなんらかの痕跡に置換された音を、その痕跡をもとに再現するという一連のプロセス(さらには最初期のピアノ演奏の自動記録装置にも同じ発想が見られるという)は、聴覚機能のまさしく外在化で、聴覚とその記録・再生装置とがシステムをなすような技術が模索されていたのだ、と。前の『ル・モンド・ディプロマティック』紙の記事で取り上げられていた惑星通信論はこの論考では取り上げられていないのだが、クロの全集も最近入手したので、そのうちそちらについても読んでみて報告しよう。