フランス近現代のプラトン受容 – 1

ちょうどタイムリーに、『プラトンと現代フランス哲学』(Platon et la philosophie française contemporaine : Enjeux philologiques, historiques et philosophiques, Redolphe Calin, Jean-Luc Périllié et Olivier Tinland éd., Éditions OUSIA, 2017)という論集が出ていた。近現代のフランスにおいて、プラトン受容がいかになされてきたかを問題として取り上げた、なかなか興味深い一冊。少しゆっくりと見ていくのもよいかなと思うので、何回かにわけて主要トピックを追っていくことにしよう。まず今回は、プラトンのフランス語初の全訳を果たした(刊行開始:1822年)ヴィクトル・クザンのプラトン観から。論集の初っ端を飾る第一章、ミシェル・ナルシーの「フランス的プラトンの考案者:ヴィクトル・クザン」(Michel Nancy, L’invention du Platon français : Victor Cousin, pp. 29-50)だ。クザンは、中世思想研究のイデオロギー的側面を検証したケーニヒ=プラロンの本(こちらを参照)では、スキャンダル絡みで逸話的にしか受容されていなかったピエール・アベラールの哲学的再評価をもたらした人物とされているが、実はこのプラトンの全訳という訳業でこそ広く知られている人物。当時プラトンは、文学的にのみ理解され、しかも「当代の趣味にはそぐわない」とされて抄訳で紹介されることが多かったという。これに対してクザンは、あえてその全訳に挑んだという次第なのだが、何がそういう決意をもたらしたのか、という点が当然気になってくる。

で、この論文著者は、それはクザンが師匠たち(とくにメーヌ・ド・ビラン)から受け継いだ「反感覚主義・反経験論」にあると見ている。コンディヤックなどが唱える、観念は感覚から生じるというテーゼに対し、外部世界から独立した意識的な事象(注意力や意志など)が存在するというテーゼを、クザンも受け継いでいるといい、彼はプラトンの対話篇にもそれを読み込んで高く評価していたというのだ。それを示す根拠が、仏訳の刊行の順番に見いだせるのではないか、というのだ。プラトンの対話篇は伝統的にトラシュロスによる四部作形式でまとめられるのが普通だが、クザンは第一巻こそそれを踏襲しながら、第二巻になると、いきなりその順番に反して『アルキビアデス』をもってくるという。魂が身体を統御するというテーゼ、あるいは「自己」に関するメーヌ・ド・ビラン的な定義が、『アルキビアデス』に見られるからではないかというわけだ。クザンはさらに、カント的な自己論を参照し、現象と存在、個別と普遍といった対立でもって、ビランの心理学を存在論へと開こうとしていたともいう。そうした読解は、訳業と平行して行われていた講義に見いだされるという。同じく第二巻収録の『テアイテトス』についての講義、同巻収録の『フィレボス』についての講義などだ。

このように、同時代的な問題とその解決を模索するというのがクザンのもともとの意図だった、というわけなのだが、それはカントなどの同時代的な議論を、プラトンの中にそっくり見いだそうというある種バイアス的な見方でもあった、とも言えそうではある。論文著者は、そうした各対話篇への講義が、フランスの唯心論の誕生を告げるものだったとさえ述べている(もちろん、真の唯心論の父はビランとされてはいるのだが)。そしてまたクザンのその翻訳は、ギリシア語の校注版を用いた1920年からのプラトン新訳を経てもなお、議論の相手もしくは参照元として、長く影響を与えることになるのだという。