【雑感】人の言語、機械の言語

このところ、ブログのカスタマイズのためにテンプレートを久々にいじったり、ネットに出回っているswiftのサンプルコードを書き写してみたりして遊んでいたのだけれど、プログラミング言語(広義の)について改めて考えさせられる事態に(笑)。WPでのquery_posts関数の引数は以前のものが推奨されなくなって新しくなっているし、swiftは現在バージョンが3.1とのことだが、ネットに出回っているサンプルの多くはswift 2で書かれていて、修正しないと動かない。当たり前のことだけれど、自然言語とは違いプログラミング言語はゆるやかに変化したりはせず、規約の変更・改訂にともなって一気に改変される。いきおい、プログラムの書き手は書かれたコードの修正・改変に追われることになる。自然言語とのこの差は大きい。でもこのところふと思うのだけれど、自然言語の側もときとして、いくぶん限定的ではあっても、変わるときには一気に変わるようどこか変容してきているのではないか、という気がしないでもない。

古くから言われている若者言葉は言うに及ばず、マスメディアが使う言葉、政治家などのレトリックなどなど、どれもその時その時に、用法・用例が割と短期間にがらっと変わるようになってきているような印象を受ける。流行だけの問題と見ていいのかどうか。どこかそれは作為的であったりしないのだろうか。言葉の人為的な側面への意識が高まっているということなのか……。考えてみれば、プログラミング言語というのは最終的に機械に命令を下す制御形式へと落とし込むために一種の中間処理を扱うものであり、その中間処理部分自体は単一である必要はなく、多様なプロセスで構成されうる。最終的な落とし込みの段階以外は、いくらでも操作可能であり、プログラミング言語の形式もまた多様化しうる。ならば、とここからは妄想だが、自然言語ももしかすると、そうした中間処理のモデルで見直すことが可能かもしれず、そうした場合、最終的な落とし込みというのはどう想定すればよいのか(そんな落とし込みが果たしてあるのかないのかということまで含めて)、といった問題が浮上しうるかもしれない。言語のある種の目的論・目的因論?そうなると、アリストテレス的な目的因の議論までもが、形を変えて復活しうるかもしれない、などとと妄想は尽きない(苦笑)。

記号と再帰 新装版: 記号論の形式・プログラムの必然これにやや関連して、以前読みかけて積ん読にしていた田中久美子『記号と再帰 新装版: 記号論の形式・プログラムの必然』(東京大学出版会、2010 – 2017)をひっぱり出してみた。これも改めて興味深い示唆を与えてくれるかもしれない一冊。関数型言語のHaskellとオブジェクト指向言語のJavaを、それぞれソシュール的な二元論(シニフィアン・シニフィエ)とパース的な三元論(対象・表意体・解釈項)の記号論に重ね合わせる(!)という荒技で始まる同書は、とくにそのパースの記号論とオブジェクト指向言語の例を通じて、最終的には「人間と機械の記号系の差」を考察するところへと至る。それによれば、人間の記号系が構造的であるとするなら、機械の記号系は構成的だとされる。前者では各要素が系全体に関わり、要素同士が比較的自由に結びついているのに対し、後者では小さな構成から大きな構成へとボトムアップ型に記号が積み重なるとされる。ここで上の妄想につなげるならば、前者の人間の記号系であっても、その一定の内部に、なんらかの部分的な「構成的」要素を作り出すような動きを想定することもできるのではないか、なんて。それはとりわけ、なんらかのイデオロギーや信仰に関わる、ある種の目的論的な言語様態を作り出すのではないか。もしかすると今、自然言語はそうした傾向性に、世界的に直面しているのではないか、と。