「考古学」というアプローチ – 4

L'archeologie Philosophique (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)リベラの講義の続きとなる第8講。これも大まかなラインとポイントをまとめよう。前にも出てきたように、「言葉」「概念」「事物」の三分割路線のはじまりには、ポルフュリオスの問題提起と、プロクロスによる「悪」の問題を位格と絡めた議論(悪には固有の位格はなく、他の位格に寄生的に依存するという考え方)があった。リベラによれば、そこからやがて、(1)普遍と悪とが同列になるのではという問題、(2)普遍の地位と虚構の地位の問題が生じてくるようになる。まず一つめについては、前述の通り、ストア派が絡んで問題は複雑さを増す。例として新たに上げられているのが、オリゲネスによる『ヨハネ書註解』第二巻だ。

ヨハネ書には「すべては彼(御言葉)によって生じ(Πάντα δι’ αὐτοῦ ἐγένετο)、一つも彼なしには生じなかった(καὶ χωρὶς αύτοῦ ἐγένετο οὐδε ἓν [ὁ γέγονεν])」という一文があり、ὁ γέγονεν「生じたもの」を後半の文の主語と取るか、それに続く別の文(「そのうちに生命があった(ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν)」)の主語と取るかで解釈が変わってくる。つまり「彼なしには生じたものは一つもなかった。生命は彼のもとにあった」と取るのか、「彼なしには一つも生じなかった。生じたものには生命があった」と取るのか、というわけだ。オリゲネスはこれを哲学的に註解する。「すべて」があらゆるものを含むとすれば、悪や罪なども御言葉によって生まれることになってしまい異端となってしまう。それを避けるために、一部の論者は悪が「無である」(固有の位格をもたない)と考えた。一方で一部のギリシア人たちは「類」や「種」も無であると考えている(ストア派が暗示されている)。また、神にも御言葉にもよらないものは「無」であるとも考えている、と……。オリゲネスが述べているのは、ストア派によるなら、悪も普遍も存在しないのではなく、位格を付されていないだけで、「何かの事物ではない」わけではないということになる。ここに「存在論(オントロジー)」と「何性論(ティノロジー)」の領域の区別が課せられる、とリベラは考える。ストア派は存在よりも「何かの事物であること」を上位に位置付け、それに非物体的なもの・言い表しうるもの(レクトン)を置いた。それは固有の位格をもたないが、思考に従属した存在と見なされる。ここに、普遍と悪がある種同列に位置付けられることになる。

二つめの普遍と虚構の話は、続く第9講で検証される。ヤギシカ(tragelaphos:中世あたりまでは存在しえないものの代表として取り上げられた)や「黄金の山」などの問題も古くから議論され、前者はもともとアリストテレスの『分析論後書』に見られるといい、6世紀の新プラトン主義的アリストテレス注釈者エリアスなどは、ヤギシカと抽象的な普遍とのあいだには差異があるとし、前者を名前のみのもの、後者を事物に基礎をもつものとして区別しているという。この前者が、名目的定義という概念をもたらし、中世に引き継がれることにもなるのだが、当然そこにはポルフュリオスの三分割(言葉的ロゴス、概念的ロゴス、本質的ロゴス)からの流れもあったようだ。ストア派は、上の悪の話と同様に、虚構も普遍も同じような地位にあると見なすのだが、これに対し新プラトン主義の側は、普遍をどうにか虚構の上位に置きたいと考え、虚構を心理的構築物(ψιλὴ ἐπίνοια)に、そして普遍を思惟(ἐπίνοια)に位置付けてみせる……。このような古くからの歴史的文脈は、近現代にまで命脈を保っており、リベラはフーコーの知の考古学に再度立ち返り、言表行為のコンテキスト理解の重要性を改めて強調して、綿々と続くその流れを概観しようとする。……とこんな感じでなかなか面白い議論になっている。