数学的対象の存在論 – 1

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)大幅に間が空いてしまったが、ヴラン社刊行のアンソロジー本『数学の哲学ーー存在論・真理・基礎』(Philosophie des mathématiques: ontologie, vérité et fondements (textes clès de Philosophie des mathématiques), éd. S. Gandon et I. Smadja, Vrin, 2013)から、冒頭のポール・ベナセラフの少し変わった論考を読む……ということでアウトライン的なメモを。最初に二人の子供が、算術そのものではなく集合概念から入るかたちで数学の基礎を学んだと仮定する。次に今度は、彼らが一通りの演算などを学んだあとで、数そのものを問う問題(「17に3が含まれるかどうか」)を突きつけてみると、両者の見解が分かれたと仮定する。これ自体は虚構というか思考実験なのだけれど、両者の見解(一方は、3というのは17が表す集合の部分集合をなすので、17に含まれると言い、もう一方は、数というのは一つの要素から成る集合であって、隣接するもの以外には含有の概念はありえず、ゆえに3は17には含まれないとする)は、確かにどちらもありゆるような感じではある。どちらもそれまでの前提(集合論)から派生しているからだが、厄介なのは、そのままではどちらが正しいとか決定づけることができないこと。というか、決定づける基準がない。両立はそもそもありえない……。ここでベナセラフは、数を個別要素から成る集合とする考え方を斥けなくてはならないのでは、とアプローチする。

XとYがイコールであるという場合、XとYは同じタイプとして同一のカテゴリーに属するとされる。個別化している事物が同一と見なされるのはそのような場合のみだ。では、数はそのような事物であると考えてよいのだろうか。これにイエスと答えるのがフレーゲ的な立場(「数とは対象である」)だとベナセラフは言う。そしてそれを批判していく。同一性という概念は、繰り返しになるが、それが適用される事物同士が同一カテゴリーに帰属することを前提とする。カテゴリーへの帰属は、理論によって支えられなくてはならない。しかしながらそうした「事物」(あるいは対象、実体でもよい)は、いわば穴埋めの仮概念にすぎず、厳密さを欠いている。もちろん同一性の議論は、狭い定義の範囲でなら論理学的な関係性として、あらゆる学問に適用可能なものではある。ただしその場合、対象、あるいは個物として挙げられるものを決定づけるのは、その当の学問、当の理論にほかならない。ここがミソだ。

数についてはどうか。数が集合と同じカテゴリーに入るということ自体が未決定である限り、上の「17に3は含まれるか」という問いの答えは、意味をなさないか誤りかのいずれかでしかなくなる。数についてのある体系が適合的であることが分かったからといって、数そのものが何であるかということが分かるわけではない。数学者の関心はそうした体系・構造の段階でとどまってしまい、個々の数には向かわない。かくして数は対象には据えられない(フレーゲ的立場に反して)。個別の数を特定の(あれではなくこれというふうに)個別の事物に対応させる理由はどこにもない、とベナセラフは考える。数の属性をいくら言いつのったところで、それは単に抽象的な構造を特徴づけるだけなのだ、と。なるほどこれは面白い論点だ。このような周到に回り込んで結論にもっていく方途そのものに、数学の哲学がもつ面妖さが窺えるという点でも、興味深いかもしれない(笑)。さしあたり、もう一つ採録されているベナセラフの議論も見てから改めて全体を考えることにしよう。