内面化と社会化と

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)文庫化されたフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)』(中島隆博、志野好伸訳、講談社、2017)を読んでいるところ。まだ全体の4割ほど。原著は1996年、もとの邦訳は2002年刊。西欧では「道徳」というものの根拠をめぐる議論がルソーとカントを経て行き詰まり、ニーチェをもって道徳の論争史的な対話の方向へとシフトした、と著者のジュリアンは言う。その上で、ニーチェのその立場を継承し、より豊かな対話のために中国の思想と照らし合わせることを試みる。ここで持ち出されるのは孟子の思想だ。それによって、西欧と中国それぞれの道徳論が何を考察していないか、あるいは何を考察しないことによって成り立っているのか、をあぶり出し、それぞれの見識をより広いパースペクティブに開けないかと問い直す。とても野心的な試みだ。翻訳もすこぶる読みやすい。で、「憐れみ」について取り上げた最初の章からまずもって明らかになることは、ルソーがそうした「憐れみ」を想像力の問題として個人の内面へと掘り下げていくのに対して、孟子はそれを自然的な反応として捉え、社会的なネットワークの関係性の中へと拡げていこうとするということ。垂直方向と水平方向、と言ってもよい。孟子の側でももちろん内面は問題にはなるものの、それをカントのように定言命法には仕立てない。孟子において道徳というのは「拡充」するだけなのだ、とジュリアンは解釈する。このあたりはいわば最初の「掴み」の部分なのだが、まさに読み手をぐいっと引き込むことに成功している感じ。そこから、西欧のように命じる内なる声としての超越的存在ではなく、「調整する理」としての天の概念とか、本性としての潜在的な性善説といった、孟子の思想的な広がりが語られていく。