雑感 – ブリコラージュのすすめ

今年の総括というわけでもないのだけれど、少しばかり雑感を。個人的に今年は久々にプログラミングの愉しみへと舞い戻った一年だった。これは主にVisual Studio for Macのリリースがあったことが大きい(秋頃にIBMのwatsonが無料化したのも大きな後押しかも)。とくにアンドロイド実機での開発。これまではJavaが主流だったと思うけど、個人的にJavaはあまり好きではなく、静観していた。それがここにきてC#でコーディングできる環境が整っていることを知り、やってみることに。昔、インターネット黎明期とLinuxが注目されるようになった時期、個人的にperlやCを学んだが、今や環境は大いに変わり、pythonとC#で遊んでいる。かつては参考書が重宝したが、今やネットの情報が主だ。多少古い投稿に掲載されているプログラムなどは、比較的新しいバージョンの言語もしくは開発環境では動かなかったりして、それを動くようにアップデートするのも楽しい作業だし勉強にもなる。参考書は全般にグラフィカルになったとはいっても、名前は挙げないが昔風のプログラミング言語文法書のような味気ないものも顕在で、ときにまったく実践的でないサンプルプログラムが載っていたりして、いまだにこうなのかと愕然としたりもする。ネットの実践記事のほうが断然良い。

いずれにしても、個人用途のツール類は自作したいというのが大きな理由であったりもする。いわゆる日曜大工、あるいはブリコラージュだ。なぜかというと、汎用のものは便利ではあるけれど、個人的でニッチな作業環境には必ずしも向いていない場合があるから。たとえばコミュニケーションツールとしてはツイッターは有益だけれど、もっと限定的なリファレンスツールとして、特定のニュース媒体や情報源だけをさっと見たいという用途には、特化したツールがあったほうがよい。RSSの読み込み(今だに、とか言われそうだが)もそう。地図ツールも、これは趣味の領域だけれど、個人的には経度・緯度が表示されていてほしいし、音楽プレイヤーもほんの数曲のヘビーローテーションものだけをひたすら流し続けるツールがあってもよい。そういうのは、汎用性はないけれど、個人的な用途には実にフィットする。というか、そういうものを自作したいと思うわけだ。

考えてみると、それは人文学でも同じことかもしれない。たとえば大学で研究され講じられる哲学や哲学史の議論などを、汎用性を備えた大がかりなツールという感じで捉えてみる。もちろんそれらも個別の問題から出発したりはしているのだけれど、専門論文などの落としどころとして、領域限定的ながらある程度一般化可能な結論をどこかに匂わせるかたちにするのが一般的だろうと思う。ならばそれを読む末端の個人においては、自身が抱えるなんらかの個別問題にそれらツールが適用できないかを探るのは、一つの醍醐味になると言える。それはもしかすると、専門的な考察に、ある種のとっつきやすさ、個人的な「柄」「取っ手」を読み手として着けていく、ということになるのかもしれない。カスタマイズ、チューンアップ、あるいはパーソナライズの可能性を探ること。そういう必要は現実にあると思うし、それはまさしく一種のブリコラージュ、日曜大工にほかならない。で、日曜大工だけに、プログラミングにあるような多少のパクリ(ミメーシスと言ってほしいところだが)もありうるかもしれない(笑)。要はそれをニッチな必要に向けて組み替えていくということだ。もちろんこれは理想像であって、現実はなかなかそううまく収まるものでもないのだが、個人的には、やはりそういうブリコルール(ブリコラージュをする人)でありたいと切に願っている。で、研究者の方々にも、なるべくその専門性を開くかたちで、著者サイドからの「柄」というか「取っ手」を付けて提示していただけたらと思う。それはとても貴重な「用例」をなすはずだから。

直観主義と論理主義 – 1

現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学ヴラン社刊『数学の哲学』でも第三部で取り上げているのが、直観主義と形式主義の問題。そちらを読み進める前に、ちょうど読み始めた現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学』(青土社、2017)に、伊藤邦武「ラッセルとポアンカレ」という論考が掲載されていたので、まずはそちらからポイントとなる部分をメモ的に抜き出しておく。『数学の諸原理』刊行前に、ラッセルがポアンカレと論争を繰り広げていたという話なのだけれど、一般に論理主義vs直観主義とまとめられるその論争について同論考は紹介するとともに、改めて検証の必要を説いている。ポアンカレの立場は、絶対的真理と懐疑論の両極を否定して、その中間形としての「仮説」に、多重的な区別と役割を認めるというもの。ポアンカレは「仮説」に大きく三つの区分(つまり(1)検証可能なもの、(2)思惟を固定させるのに有益な道具となるもの、(3)実際には偽装された定義や規約に帰着するもの)を認める。このうち(2)は算術に、(3)は幾何学において重要だとされ、(1)が有用とされるのは、物理学(力学は除く)においてだという。

ラッセルは書評において、この(2)が、カント的な人間精神にアプリオリに存在する推論能力(数学的帰納法)を意味しているとし、その上で、精神の能力という概念が曖昧で、しかもたとえば無限を扱う場合にはそれでは不十分だと批判する。だからこそ、数学的真理には集合論を基礎とする論理学への還元が必要なのだ、というわけだ。これに対してポアンカレは、数学的推理から論理的要素を分離しようとする試み全般を批判する。まずもって数学的推論の論理学への還元はパラドクスをもたらすという難点がある。ポアンカレはそれが集合の分類における「可述性(prédicabilité)」の条件の曖昧さに由来すると考えた。しかしながら論文著者によると、ラッセルもそれを「悪循環原理」として認め、そこからタイプ理論を構築したといい、両者の立場の違いは直観主義vs論理主義を越えて、「可述主義」へと収斂していると見なすこともできるのではないかという。

両者はまた、幾何学と感覚的経験との関係についても対立しているという。非ユークリッド的な体系が見いだされて以来、人間の知覚経験をもととする空間の経験主義的な基礎付けは難しい問題になったというが、ラッセルはそうした基礎付けが可能だとの立場を取り、対するポアンカレは、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とが形式的体系としては互いに等価で、知覚経験にもとづく検証や反証、優劣の判定は不可能だとの立場を取っていた。ポアンカレは、知覚的経験が把握するのは個別的対象にほかならないと考え、ラッセルのほうは、知覚的経験が把握するのは対象同士の関係そのものだと考える。なるほどこれは大きな認識論的違いだ。両者の間にはほかにも実無限をめぐる対立、さらには確率・蓋然性をめぐる対立もあったといい(ラッセルは、ポアンカレは確率に主観的解釈を施しすぎるとし、論理的分析としての客観的解釈を提唱していた)、論考ではそれらについても取り上げられている。

数学的対象の存在論 – 3

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)ヴラン社刊のアンソロジー『数学の哲学』(Philosophie des mathématiques: Ontologie, Vérité, Fondements (Textes clès de Philosophie des mathématiques))から。ヒラリー・パットナムの二篇の論考(「数学的真理とは何か」「論理哲学」)は、パットナム自身の基本的立場を明確に示したものと考えられる。それはつまり、数学には固有の対象物というものはなく、どのような定理を掲げることもありうるが、その実在を主張することはできない、数学者が主張しうるのは、あるものは「可能」、あるものは「不可能」ということだけだ、というもの。可能性の概念こそが基本的なものをなし、たとえば集合論の存在概念などは派生物と見なすことができるという立場だ。数の理論はすべて、可能性の言説として表される(「数学的真理とは何か」。この意味において、数学に限定するならば、パットナムは唯名論的な立場を取っているように見える。一方で、これが物理学などの具体的な対象をもった諸学に適用されるというような場合、数学と物理学は相互に密接に入り組んでおり、数学的には厳密に唯名論的でも、物理学的には直観的に実在論が幅を利かす(そもそも外部世界あってこその物理学ではある)。その意味で、物理学を支える実在論に引っ張られるかたちで、数学が実在論の側へと傾斜しているという感じになる。物理的な大きさを数値化するのであれば、関数や実数といった概念をも受け容れなくてはならない、と。ミニマリストな実在論という点で、それはクワインなどとも響き合う……のかな(?)。

続くハートリー・フィールドについては、以前「唯名論」としてメルマガで取り上げたことがあるのでとりあえず割愛。その次に採録されているマーク・ステイナーの論もなかなか面白い。そこでは、物理的世界への数学の応用が、アナロジーにもとづいてなされることが論じられる。現代の物理学的な発見において、数学的アナロジーは不可欠な要素をなしているのではないか、というのだ。数学的アナロジーは、ときに物理的なベースを有することもあるというが(上のパットナムに通じるスタンスだ)、そのようなベースをもたない形式的なアナロジーもありうる、とステイナーは考える。そしてこの無基底な形式的アナロジーこそが、現代の物理学の発見の重要な要因をなしている、と主張する。ここで数学は純粋に唯名論的なものとされ、それがある意味偶有的に用いられることで、物理世界の発見が開かれるという仮説だ。ディラックの量子力学のほか、シュレディンガー、マックスウエルなどの理論が具体的な事例として挙げられ検討されているが、数学の抽象化された(唯名論的)対象が、物理世界に適用されるときの偶有性(なにしろ無基底なのだから)に焦点を当てているところがとても興味深い。ステイナーの議論では、上のパットナムとは逆に、数学の唯名論が物理学を引っ張って傾斜させている、というふうにも読める。その意味では拮抗する立場と言えるかもしれないが、いずれにしてもこれら唯名論と実在論の揺れ動きはそれ自体、微細な議論の空間を開いているようで興味は尽きない。

通詞の現象学 – 4

これまで見てきた『蘭学と日本語』は、数々の問題を提示してくれる大変刺激的な一冊だが、文献学的な視座に立つものである以上、現象学的な推論へと踏み込むことはもちろんしない。とはいえそういう誘惑を絶えず喚起しもする。たとえば「デアル」体の発生・展開問題など(pp.209-224)はとりわけ興味深く、1800年代前半からすでに長崎通詞の間で、口語体に近い文章体として翻訳体に採用されている事例があることがわかる。推測を伴う「デアロウ」なども同様なのだとか。また当時編纂された辞書にもそうしたデアル体が使われている事例があるという。1800年代半ばごろには、デアル体が一般的な文体になっている例も見られるといい、以後の蘭学から英学への移行に際しても受け継がれていくという。いくぶん素朴かつ妄想的な捉え方をするなら、漢語的な〜ナリという文末が「成る」から派生しているとするなら、〜デアルは「有る」からの派生として、ある種の認識論的転換を含意している可能性などもあるかもしれない、などと思ってみたりもするのだが(生成論的な認識の痕跡から存在論的な認識の痕跡へ?)、現実的な面からすれば、当然ながらと言うべきか、話はそう単純でもなさそうではある(苦笑)。いずれにしても英学に受け継がれることで、デアル体は改めて華々しい登場となった模様だ。さらにその論考の末尾では、デス(デゴザイマス、デアリマスの略語?)の形成小史も考察すべきだと記されている。一部の女性特有の用語だったというその語法は、いつしかそうした枠が外れ、明治に入って急速に普及したという。そのあたりも精神史として見るととても面白そうだが、いずれにせよそれらの問題については、ここから先、別の文献を漁ることが必要になりそうだ。

訳された近代別の角度からのアプローチで翻訳という現象を捉える意味で、このところ次の書にも眼を通している。長沼美香子『訳された近代』(法政大学出版局、2017)。明治初期の管制翻訳プロジェクトだった英語の百科全書の邦訳を題材に、訳語の採択から当時のイデオロギー的な背景を浮かび上がらせようという野心的な研究のようだ。そのため文献学から少しばかり思想史的・現象学的な方向に踏み込んでいこうとしているように見える。たとえば「言語」という訳語について考察した第4章。『百科全書』の言語編(原典はChambers’s Information for the People第5版のLANGUAGE、邦訳の初版は1883年)を担当した大槻文彦による訳語(「言語」)は、江戸時代までは漢音のゲンギョと呉音のゴンゴがあり、訳語として採用された当時、どちらの音声によっていたのかは微妙な問題らしい。ヘボンの辞書(1867年から1886年の第三版まである)や同じ頃の他の辞書には「ケンギョ」「ゲンギョ」「ゲンゴ」「ゴンゴ」などが版によっても異なり入り乱れているといい、languageの訳語としての「言語」は、1886年頃に「ゲンゴ」でも使用されるようになった、とされている。それでもなお、ゲンギョとの揺れは大槻の辞書『言海』(1891年)にも見られるといい、私たちが疑いもなく抱くような「language = 言語【ゲンゴ】」という等価物は、翻訳行為によって等価とされた幻想、後に既成事実化される幻想にほかならないと著者は結論づけている。翻訳行為の等価性もまた構築される幻想なのだとしているところに、その先の哲学的な深みが垣間見える思いがする。

ガレノスの道徳論

Oeuvres Completes: Ne Pas Se Chagriner (Collection Des Universites De France)ガレノスの著書から、通常の医学ものではないものを読んでみた。『嘆かないことについて』(Περὶ Ἀλυπησίας )という一篇。底本はレ・ベル・レットル刊の希仏対訳ガレノス全集の第4巻(Galien, Oeuvres complètes: Ne pas se chagriner (Collection des universités de France), trad. V. Boudon-Millot et J. Jouanna, Les Belles Lettres, 2010)。おそらくは旧友と思われる人物に宛てた書簡の体裁で書かれた、心の平静を保ち続けるための道徳論だ。旧友から、ローマの火災(解説によると192年にあった大火らしい)で自著の医学書・薬学書のほか、貴重な書が多数失われたというのに、なぜそんなに嘆かずにいられるのかと問われたガレノスが、おのれの人生観を語り出す。自分が事足れりと思えるだけの財さえあればそれでいい、というのがその核心部分なのだが、そういう信条を抱くようになるには受けた教育が大きいと言い、すこしばかり教育論的でもある。前半は失われた書の数々を振り返ってみせ、どこか自慢げなのかと思いきや、後半はそういうわけで過剰な欲を抱かない生き方を、どこか穏やかに推奨してみせる。ガレノスの希文はちょっと凝っているのか読みにくいので、辞書引きその他で時間がかかるけれど、なにかこの文体からも、飄々とした孤高の学者という風情が湧き出てくるような気がして好感がもてる。校注者ら(V. ブードン=ミヨー、J.ジュアンナ)が巻頭に載せている序文によれば、この文章はガレノスの生涯やその書物の収集などについても貴重な資料となっているのだという。