数学とその外部

数学はなぜ哲学の問題になるのかイアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』(金子洋之、大西琢朗訳、森北出版、2017)を読み始めている。とりあえずざっと半分ほど。総じてハッキングの多弁かつ独特(ときにシニカル、ときに饒舌)な語り口がいかんなく発揮され、研究史的なエピソードが数多く散りばめられて面白くはあるのだけれど、全体の見通しはあまりすっきりとはしていない印象。さながら植物が成長し枝分かれしていくかのように、問題も枝分かれし茂っていって、見渡せないほどの全体像を形作るかのよう。まず第一章では、数学を永続化させているものは何かという問題に、作業仮説として「証明」と「応用」とが与えられる。すると今度はその「証明」に、デカルト的な証明(証明全体を明晰な確信をもって見て取るという種類のもの)とライプニッツ的な証明(ステップ別に配列された命題を一行ずつ機械的にチェックしていく種類のもの)という区分が導入される。どちらも数学史的にはそれなりの系譜を形作っているとされ(直観的なもの、形式的なものとして)、それぞれについて様々な変奏が史的に奏でられていく。すでにして錯綜感の予兆。第二章では、何が数学を数学たらしめているのかについての、歴代の思想からの解答が列挙されていくが、そもそも算術と幾何が一緒くたに数学の構成要素として取り上げられている点など、不分明なトートロジーのような議論が根底にあることが浮かび上がってくる。第三章で扱われる、数学の哲学がなぜあるのかという問題も、様々な立場が絡み合い、全体としてきわめて偶発的なものでしかないような、奇妙な風景を立ちのぼらせる。ハッキング自身は、この問題は「認知史」からアプローチするしかないと考えているようだ。総じてこのように、数学史、数学の思想史を限定的な学問史からではなく、より広範なインテレクチャル・ヒストリーから見直すべきだというのが、同書の基本的スタンスなのかもしれない。

そのことは第四章にも見て取れる。証明と題されたその章では、すでに同書のそれまでのページで偶有的な産物でしかないとされた証明についての、古代ギリシアからの「精神史」(とハッキングは呼ぶ)が開示される。たとえばタレスが工学に長けていたことをエピソードとして取り上げ、純粋に知的な数学史のみならず、古代工学史などをも参照すべきことを示唆したりする。プラトンはピュタゴラス主義に立脚し、世界の深層的本性を知るための(応用のためではない)数学として理論的な面を重視したとされるが、その背景には、アテネの民主制が議論をベースとし、そうした議論自体には決め手がなく、ただ雄弁術や欲望のみが決着をもたらしていたこと、またそうした事態を目の当たりにしたプラトンの、なんらかの危機感があったのだろう、といった話が取り上げられる。ギリシアが征服を免れていた理由としての海軍力、戦闘機械などと併せ、図が不可欠とされた古代数学の在り方や、そうした図を多用する特殊な形式論的な証明概念などを、再び問い直すべしと、同書は示唆し続ける。

次元を落とすという手法

現代数学への招待:多様体とは何か (ちくま学芸文庫)まったくの門外漢だが、思うところあって、志賀浩二『現代数学への招待:多様体とは何か (ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2013)に眼を通してみた。ごく基本的な部分の知識しかないので、わずかな部分しか理解できないのだが、こういうときには一種の「キーワード主義」という感じで、まずは中心概念を大まかに把握していくことが中心となる。そこからうっすらと立ちのぼってくるなんらかの風景を、まずはそれだけで味わってみるということになるわけだ。もちろんキーワード主義には弊害もあって、取りこぼす部分も多々あるのだけれど、最初のとっかかりとしては悪くない。で、そこからすると、同書は位相空間(位相多様体)がどのような諸特徴をもつのかについて、それを写像ないし微分によって次元を落とすなどの操作を通じて理解しようという試み、と括ることができる。その過程で様々な概念が数学的に定義し直され、それがちょっとした醍醐味になっている感じだ。

たとえば「近さ」。著者は通常の感覚でも、距離よりも「近さ」のほうが先立っているのではないかと言う(この日常的な感覚や、ありふれた事例がときおり差し挟まれるのが、とても興味深い)。数学的に表現される「近さ」は、任意の部分集合が、開集合を含む別の任意の部分集合に含まれるときに、最初の部分集合はその別の部分集合に対して近いと定義されるらしい。もう一つの重要なキーワードが「滑らかさ」。これもまた、多様体に当てはめられるときの数学的な定義が示され、微分可能な局所座標が与えられうるときに、その多様体は滑らかだとされる。いずれももはや抽象的な概念なので、なんらかの図や像として思い浮かべることはできない。けれども、抽象的な数学の世界ではそれは当たり前。そもそも球面の定義(たとえばx1^2 + x2^2 + x3^3 = r^2)にしてからが、第四のx4^2が加わっただけで(つまり四次元として表すだけで)図示はできなくなるけれども、そうした定義がありうること自体は字面から推測される。ここから、ある種の形式的な思弁の世界が拡がっていく。なんと7次元の曲面上には、次元を1つ上げると「滑らかな曲面」として見えてくるような異なる微分構造があるのだといい、すでに28個もの異なる微分構造があることが発見されているのだという。そうした未知の風景(当然ながら、もはや視覚によらない抽象的思弁の現れだが)は、まだまだ数多く見いだされるのだろうとされる。

上の個人的なキーワード主義的なアプローチも、こうしてみると同書が位相空間に対して行っている操作と、本質的なところでは案外違わないのでは、という気もしてくる(ホントか?)。このアプローチ、もちろん内容の精査にはほど遠いので、数式の厳密な理解など、対応できない部分はきわめて多岐にわたるのだが、少なくともある種「次元を落とす」手法として、上の内容に重なりうるのではないか、などと考えてみたりする。さしあたり、今のところはそれでよしということにしておこう(笑)。

枠組みは現象しない

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)新しいプログラミング言語を学び始めるときに、まず慣例的に「Hello World!」という文字列をコンソールに表示するという作法がある。今でもこれを踏襲している人は少なくないと思うけれど(そうかな?)、個人的に、そのときの「ワールド」というのは何を、どこまでを指すのだろうか、と思ったことがある。マシンの電子信号の世界?その上のレベルのOSの環境、さらには言語環境?プログラミングのフレームワーク?まさか私たちもいるこの世界?いやいやそれはないなあ、みたいな。そんなことを思い出させてくれたのが、ドイツの新鋭マルクス・ガブリエルの著書。マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)』(清水一浩訳、講談社、2018)。ガブリエルはまだ30代の哲学の精鋭。ドイツでは本書を含む一般向けの哲学書を矢継ぎ早に出しているようで、本作の原書は2013年刊のベストセラー。仏訳なども割とすぐに出て、結構売れた模様だ。そんなわけでこれは、待望の邦訳でもある。

語り口が平坦で、取っつきやすいのは、メイヤスーなどの世代と同様の特徴かもしれない。内容はというと、中心となる議論はほぼ一つ。つまり、存在するものはすべてその都度の意味の場という枠の中に現象するしかない、というもの。意味の場とはその都度の特定のコンテキストのことで、それは随時シフトしたりもする。特定の時空間から人間の想像領域までをカバーしたりもする概念ではある。いずれにしても存在するものはそれらから逃れることはできず、またあらゆる意味の場をすべて包摂するような(メタな)意味の場、すなわち「世界」というものはありえない、ということになる。これが表題の意味。デリダなどが示していたような、コンテキストも含めた(広義の)テキストに外部は存在しないという話に通じている、というようなことをガブリエル自身も述べている。存在するとはなんらかの枠組みのうちに(あるいは器をともなって)現象することでしかないのなら、その何かが現象する当の枠組あるいは器は、それ自体知覚や認識の対象に据えられないし、そのものとして現象することもありえない。従来的な議論ならそこで止まりがちだが、ガブリエルはその枠の全体を問題にし、そうした全体が「存在しない」ということをワンチャンス的に論じていく。そこから、たとえばあらゆるものを科学(の枠)に還元しようとする科学主義・自然主義などへの批判が展開していくことになる。科学はすべてに答えを出しうるものではなく、あくまで科学が囲った枠組み(としての「宇宙」)の中でのみ、有効な答えを見いだすにすぎないのだ、と。

そのように世界は存在しないと割り切れたときから、個別の無数の存在はいっそう輝き出す……とするこの「新しい」実在論は、どこか可聴帯域の外にノイズが累積するハイレゾ音源よろしく、いわば「ハイレゾ存在論」のようなものに思えてくる(笑)。個別の存在に従来つきまとってきた虚無的なものを一気に周縁部に押しやって、個別の存在そのものを際立たせる試み、か。けれども少し荒っぽい印象も残らないでもない。そこに今後さらに洗練の度合いを高めていく可能性はあるのだろうか?

ポルフュリオスによる『テトラビブロス』入門編

Mathematikós. Testo greco a fronteイタリアのBompianiからの希伊対訳本で、ポルフィリオ『プトレマイオスの天文学書入門』(伊語タイトルは「マテマティコス」になっている:Mathematikós. Testo greco a fronte, a cura di Giuseppe Muscolino, Bompiani, 2017)にざっと眼を通してみた。プトレマイオスの『テトラビブロス』の主に第一巻を中心としたコメンタリーで、天文学・占星術の基本事項の概説書。過去の文献学的研究によりポルフュリオスの著書とされているもので、3世紀後半ごろに書かれたものだという(解説序文による)。『テトラビブロス』は、古来の天文学に対して新しい計算方法などを用いたある種画期的な書とされていたようなのだが、ポルフュリオスもそれを踏まえて、いくつかの箇所で古い学知とその新しい知見とを対比させたりしている。また、もう一つの特徴点として、星座の位置関係などの概要のほか、ポルフュリオスは基本的に惑星などが地上に及ぼすとされる影響について大きな関心を寄せていたようで、それぞれの星に属性として指定される地上のものとの対応関係などが総覧的に示されている。

少しメモ的に。たとえば医学占星術的なところでは、白羊宮が頭、金牛宮が腱と首、双児宮が肩・上腕と腕、巨蟹宮が胸と肋骨、獅子宮が横隔膜と胃と腸、処女宮が腹腔部や子宮、天秤宮が腎臓と臀部、天蝎宮が生殖器・陰部、人馬宮が鼠径部、磨羯宮が腰部・臀部、宝瓶宮が脛骨と踝、双魚宮が足にそれぞれ対応するとされる(44章)。また、主要な星が支配する部位・症状も定められている(45章)。たとえば土星は炎症・粘液・気管支などを支配し、木星は肝臓のほか消化器や胃の神経系、火星は血液や腎臓、精液など、金星は肺や胆汁、水星は聴覚、動脈、舌から咽喉などを支配する。さらに太陽は心臓と呼吸器系、運動の感覚、視覚、男性の右側と女性の左側(!)を司る。月は地表に最も近いがゆえに、土に関係したもの、つまりは身体全般、その組成、さらには母親や女性などを支配するとされる。それぞれの星の配置がまた相互に影響を及ぼし、複合的なかたちで様々な効果をもたらすとされる。そうしたアトリビューションの理由付け、説明はあまり詳しく記されてはいないようだが、まだざっと眼を通しただけなので、そのあたりも含め、もとの『テトラビブロス』と突き合わせて詳しく読んでみるのも一興かもしれない。

形式的存在論の射程 – 1

L'objet Quelconque: Recherches sur l'ontologie de l'objet (Problemes et controverses)フレデリック・ネフという研究者の『任意の対象ーー対象存在論研究』(Frédéric Nef, L’objet quelconque: Recherches sur l’ontologie de l’objet (Problèmes et controverses), Vrin, 1998)という著書を見ているところなのだけれど、これはなかなか深い問題を扱っている気がする。とりわけ歴史的に振り返る第二部に顕著だが、どうやらそこではフッサールが提唱した形式的存在論(あるもの一般を対象とした存在論)が大きなウエートを占めているようで、その形式的存在論の再評価ないし拡張が、同書の要となっているようだ。というわけで、少しゆっくりとこの第二部を読みつつ、形式的存在論が本来どんなもので、どんな帰結を引き出しうるのかを眺めていくことにしたい。まずはその第二部から第一章。著者は、『イデーン』第一巻(1913年)から始まる後期のフッサールが存在論の刷新を図り、記述心理学を排して形式的存在論を洗練していった点に注目する。その新しい存在論は全体と部分を扱う一種のメレオロジーで、論理学的なカテゴリー論の刷新でもあった。それが確立しようとするのは形式的な諸概念の階層構造(ヒエラルキー)、その頂点になんらかの事物、つまりは対象一般が来るような階層構造だとされ、カントのテーゼにも対応するものと見なされる。

ここで言う形式的とは、(1)物質的な見地から見た個別性を排すること、(2)個別の内容を含まない形式論理的な面、そして(3)直観的な意味作用の、アプリオリな空虚な形式を用いること、を意味するのだという。アリストテレスの考える旧来のカテゴリー論は、物質的な個別性をそのままにして分類しているがゆえに形式的ではないとされる。それはあくまで現実的な存在論で、それに先立つ形式的な存在論を考察できないというわけだ。そうした個別性を脱するには、近代において一般学としての代数が発達し、一般学の概念が産出されるのを待つしかなかった。つまり著者によれば、形式的存在論は普遍学(mathesis universalis)の延長線上にあるものと位置付けられるのだ。そこでの普遍学とはカント的に先取りされた企図なのだけれど、著者はそこにもう一つ、ボルツァーノの論理学も受け継がれていると見る。ベルナルト・ボルツァーノは19世紀前半のチェコの哲学者で、ライプニッツの影響を受けているとされる人物。ボルツァーノは、数学によって形式的存在論の可能性が開かれたことは理解しつつも、それが扱う対象一般というものを限定的に捉えていた(とフッサールは見なしていた)。フッサールからすると、事物(対象)というものは、人の意識から独立した客観的な事物のほかに、その内的な等価物、人が抱きうる表象にのみ存在するような事物をも含みもつ。ボルツァーノは、一般的な事物の空虚な形式(それは最上位の「類」とされる)と、存在しうるものの普遍的領域(個別領域に分かれる大元の領域)とを区別できていなかった、とフッサールは述べているのだとか。なるほど、対象一般ということになれば、当然表象的・仮想的な事物も含まれなくてはならなくなる。