ヒポクラテスの環境要因説など

Hippocrates' on Airs, Waters, and Places and the Hippocratic Oath: An Intermediate Greek Reader: Greek Text with Running Vocabulary and Commentary前に紹介したヒポクラテスの『空気、水、場所について』は、少し前に一通り読了(Hippocrates’ on Airs, Waters, and Places and the Hippocratic Oath)。そこではまさしく環境が人体に影響を与え、健康・不健康の原因となるばかりか、民族の諸特徴までも作り上げるという仮設が雄弁に語られている。たとえばヨーロッパ人とアジア人(小アジア)の違い(16節)。アジアに住む人々は好戦的ではなく、剛健さもなくて穏やかだが、それは季節の変化の差が大きくなく、寒暖がゆるやかで、心的に乱されることが少なく身体的にも変化への対応が小さくてすむからだ、みたいなことが記されている。そういう季節的な激しい変化に晒されるほど、ワイルドな心性や勇壮さが培われる、とされている。またそうした気質の差は、統治形態の差をももたらす、とも。アジアの人々は法による統治、王政の一極支配が適するとされ、戦闘的な民はむしろ自治に適している云々。また、そうした環境要因説に即して語られるスキタイ人についての記述も面白い(17節〜22節)。遊牧民である一部のスキタイ人は、季節が激しく変化しない環境の場合、全体として肉付きがよくなり、瑞々しくなり、下ぶくれのようにもなる。ゆえに武器の使用には向かず、男たちはときに馬にも乗れないほどにもなる云々。さらに彼らが黄褐色なのは寒さのせいだともされる。また肉付きがよくて水分を多く含み、身体が柔らかく冷たいがために、性行動も活発ではなく子だくさんにはならず、また馬上生活は股関節に影響を与え関節炎をもたらしたりもし、そうした各種の要因が相まって生殖力の低下をもたらしている云々。このように全体的に環境要因説がこれでもかという具合に前面に出てくる。これはとても興味深いところだ。

Hippocrate: Pronostic (Collection Des Universites De France Serie Grecque)続いて今度は、ヒポクラテスの『診断』(προγωστικόν)を希仏対訳の校注本(Hippocrate: Pronostic (Collection des universités de France Serie grecque), trad. Jacques Jouanna, Les Belles Lettres, 2013)で読み始めている。こちらはより実利的な診断のポイントを、おそらくは医学生向けに列挙したもの。目視が重要とされ、とくに徴候から病が軽微なのか重篤なのか判断することに重点が置かれている。どのような症状が生死を分けるのかというのが、重大な関心事になっていることがわかる。死ぬか生きるかの判断は、当時の切実な問題だったのだろうと伺い知れる。まだ前半だけだが、取り上げられるテーマは章ごとに、顔色、褥瘡、手足の動き、息、汗、肋下部、水腫、局部の温度、眠り、排泄物、尿、吐瀉物などなど。同書についても、できれば後でまとめてメモしよう。

直観主義と論理主義 – 3 :ブラウワーの直観主義

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles de Philosophie Des Mathematiques)ずいぶん間が開いてしまったが、アンソロジー『数学の哲学』からデトレフセン「ブラウワーの直観主義」を眺めてみる。まずブラウワーの場合、推論(inference)の考え方が当時としては斬新だったようだ。それによると命題の真理が論証されるには、それが「経験」の対象になっていなければならないとされ、翻って論証における論理的推論の役割は著しく制限されることになる。いきおい、ブラウワーの数学的直観主義は、意味論というよりも基本的に認識論(エピステモロジー)的なものとなる。直観主義においては、数学の命題を論理的に操作できることが、それらの命題を(派生命題も含めて)知ることにはならないというのが基本(ポアンカレ)で、数学的知識と論理学的知識とが異なるものとして扱われるのだが、ブラウワーの場合には、それがなんらかの「経験」にもとづいていることが区別の鍵となっているらしい。たとえば命題pの知識を類推的に命題qに拡張する場合、推論は形式的なだけではダメで、その推論に命題pを成立させている条件についての知識が保持されていなければならない。それこそが実践的な操作をなすのであって、ゆえに単なる論理的操作とは異なるのだ、とされる。ブラウワーにおいては(古典的な認識論におけるような)推論そのものの正当化の重視以上に、認識の様態の保持が重視されるという次第だ。

直観主義は総じて構成主義的であり、数学的知識というものは基本的に構築・構成という活動(心的活動)の一形態であるとされるわけだけれど、ブラウワーの場合はこのように、論理的推論だけでそれは拡張できず、内容を伴ってそういう活動そのものが拡張されるのではなくてはならないと考える。Aという構築された命題と、Bという構築された命題があったとき、推論的連結だけでは、AかつBという命題は構築されない。そこには形式的推論を越えた何かが必要になる。それが「経験」で示される構築の枠組みの連続性・一貫性ということになるようなのだが、著者のデトレフセンによれば、その後の直観主義はそうした構築過程の形式化(ハイティング)を通じて、形式的推論を大幅に認める立場へと移行したといい、上の「AかつB」の命題構築が導かれる過程についても、「シンタクス」的な連結をもってよしとするようになり、ブラウワー的な議論からは大きく逸れてしまっているようだ。ただこのテキストからは、ブラウワーの言う「経験」の内実という部分がもう一つはっきりしないようにも思われる。そのあたりを求めて、この探索はさらに続くことになりそうだ……。

意志の外というテーマ

談 no.111 意志と意志の外にあるもの…中動態・ナッジ・錯覚談 no.111 意志と意志の外にあるもの…中動態・ナッジ・錯覚』(公益法人たばこ総合研究センター発行)を見てみた。哲学プロバーの國分功一郎、法哲学の大谷雄裕、心理学の竹内竜人の三氏それぞれのインタビュー。國分氏は例の中動態の話を総括的に行っているが、文法的なカテゴリーである中動態を持ち出して、意志の真の主体というものがはっきりしないことを哲学的に考えるのは、やや違和感も残る。ちょうどほぼ一年前に『中動態の世界』を読んだ際には、文法学と哲学の相互作用というのは面白いとは思ったのだけれど、ギリシア語の能動態・中動態の違いは、おもに主体(主語が表すもの)の行為がおよぶ、あるいは影響を及ぼす対象が、外部のものか(能動態)か主体自身か(中動態)という違いなので、意志が関与するか否かという議論にはやはりそぐわないのではないかという気もしたのだった。今回のインタビューでも、それはいっそう感じられる。「惚れる」という動詞の事例が持ち出されてくるけれども、「惚れる」の中動態は「惚れさせられる」なのか??なぜ使役?カテゴリーミステイクではないのかしら?云々。もちろん哲学的な問いとして、意志というものは果たして本当にあるのかということを突き詰める作業は必要だし、しかるべきとっかかりも必要だろう。けれどもそれは、少なくとも文法的な態という名称、あるいはその概念から切り離さなすのでないと、かえって無用な混乱をもたらすようにも思える。

個人的に今回のインタビューで面白かったのは法哲学の大谷氏のインタビュー。些細な選択を迫られる日常的状況で、人は意外に安易なものを選択する(たとえばランチのセットメニューだったり、アプリの設定をデフォルトのままにしておくことだったり)。そのような選択を促す、一種のちょっとした傾斜をかける行為を、キャス・ナスティーンという人がナッジ(nudge)としてテーマ化しているのだという。ごく柔らかなパターナリズムだというその概念に、実は大きな問題が潜んでいそうだ、というのが大谷氏の考え方だ。ナッジでもって干渉することの正当化はどこに見いだされるのか、ナッジを解除するようなメタレベルの選択があったとして、それにもまたナッジが課されることもありえ、どこまでいってもナッジがついて回るとしたら、自由の概念はどうなってしまうのか。ナッジはどのようにコントロールすべきかのか、云々。この傾斜の話、法制度の問題も絡んでくるとても興味深いテーマであることが、このインタビューから明らかにされる。竹内氏の話についてはまた別の機会に。

新たなパースペクティブを

人新世の哲学: 思弁的実在論以後の「人間の条件」篠原雅武『人新世の哲学: 思弁的実在論以後の「人間の条件」』(人文書院、2018)を眺めてみた。科学者クルッツェンが唱えた「人新世」は、惑星衝突などに匹敵する規模で人間が地球環境(地質年代)に影響を与えうるようになったことから、新しい地質年代を設定しようという主張なのだというが、これを踏まえて、アーレントの『人間の条件』を拡張・再考しようというのが、同書のメインテーマという触れ込み。実際は、アーレントをめぐる議論は意外にもわずかで、むしろモートンの唱える新しいエコロジー(人工環境も自然環境も視野においた新しい環境論)と、それを側面で支えるかのようなチャクラバルティなどの議論(気象論)を紹介するというのがメインのようだ。それはそれで面白いけれど、大上段に構えた人新世の問題設定からすると、どこかはぐらかされた感じもなきにしもあらず。人新世概念に対しては、もっとそれに見合った壮大な議論が必要であるように思われる。そのパースペクティブのシフトが突きつける変化は、メイヤスーやハーマンなどに代表されている新しい実在論のような、どこか微妙にこじんまりとした(?)話にとどまらない気がする……。人新世で言われるような人間の影響力の問題になんらかの解答を与えるには、なんらかのビッグピクチャのようなものを必要とするのではないか、と。もちろん、モートンのエコロジーなどが(それがどれほど壮大なものなのかは、同書からは窺えない気がするが)その突破口にならないとも限らないのだけれど、人間の活動をもっと合理的・理知的なものに変えていくような努力や議論が必要ではないか、と。

「定常経済」は可能だ! (岩波ブックレット)そんな中、これも一つの突破口かと思われるのが、岩波から出ている小冊子、ハーマン・デイリー『「定常経済」は可能だ! (岩波ブックレット)』((聞き手)枝廣淳子、岩波書店、2014)。同書は、ある時点からは経済成長それ自体が不経済になるのだといい、そこから先、経済成長を盲目的に信奉し続けるのは負の遺産をまき散らすことになると指摘する。すでにしてそのような段階に至っている先進国の、取るべき道・あるべき姿を示唆している。多少議論の中味については異論もありうるが(従来とは違う別様の保護主義の推奨とか)、これにもまた、地球規模のエネルギーの消費という大上段からの議論があって、人新世的なパースペクティブと響き合う。

数と現実

現代思想2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018空き時間を利用して、現代思想2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』(青土社、2017)を一通り眺めてみた。ハーマンやガブリエルなどの新しい実在論はそれぞれの著書の一部分のまとめなので、とりたてて新しい感じはしないが、オブジェクト指向存在論を詩作に結びつけた文芸潮流(オブジェクト指向詩)があるという話(ゴルィンコ=ヴォルフソン)などは少し面白い。また、急進左派系の加速主義(スルニチェク&ウィリアムズ)というのにも、ある意味とんがったトピックとして眼を惹くものもある。けれども、いずれにせよどこか脱人間的なコンテキストを強く匂わせていて、なにやら一種の逃避感(?)のようなものが浮かび上がってくるのは気のせいだろうか、と思ったりもする。

個人的にとくに面白かったのは、数学に絡んだ二つの論考。一つは中沢新一「レンマ的算術の基礎」。映画『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』をもとに、全体思考を一挙に行うという非線形的・非因果律的を人間から「取り出す」ことは可能かと問い(それを著者はレンマ的知性と称している)、また厳密な学は算術で基礎付けられなくてはならないとして、レンマ的算術なるものを考察している。けれども(やはりというべきか)ここからは仏教思想に範を取った話になっていき、直観的認識でしか捉えられないようなもの、虚数であったり、実無限であったりするものが引き合いに出されて、通常の論理的思考とは別様の数学が示唆される。その数学的構造というのは、超実数(hyperreal number)の構造にほかならない……と。数というのは「生成される一つ一つがすぐ前のものから定義されていくという、正の整数の無限列の逐次的な創造」とされるものの、通常はいったん生成した数が前の数との関係を失ってしまう。それに対して「縁起的思考による数論」では、生成された数は他の数とのつながり(縁(!)によるつながりとされる)を絶たないとされる。そうした数の計算(行列としての計算となる)、とくに積の問題から、交換法則が成り立たない空間が導かれるとされる。仏教思想との絡みはともかく、数論的な部分自体はとても興味を惹く。個人的にももう少しちゃんと押さえておきたいところだ。

一方、ルーベン・ハーシュ「書評 アラン・バディウ『数と数たち』」は、バディウが超現実数(こちらはsuperreal number)(こちらにその導入的な記述があってわかりやすい)からインスパイアされ、それを形而上学的な水準にまで、つまりは存在論の基礎にまで上昇させた点を問題として取り上げている。もともと構成的・ボトムアップ的に実数などを得るための操作的概念だった超現実数は、バディウにおいては多様性(それが存在の実例だという)をもたらす大元の基盤と見なされ、超現実数と順序数によって多様性が記述しつくされるという主張にまでいたるというのだ。著者ハーシュはこれに、順序数の構成を強制するものがないこと、さらに数体系はいかなるものであれ、存在やリアリティをモデル化したり記述したりするには不十分だということを反論としてあげている。リアリティ(現実)を整列集合に一次元的に還元することは単純化しすぎだというわけで、著者は現実の状況というのは多次元的、さらには無次元的でさえあると指摘している。上で述べた、個人的に感じるどこかしら逃避感のようなものとは、もしかするとそうした一種過剰な還元と、それによってかえって現実から位相的な遠ざってしまうことについて覚えるものなのかもしれない。