直観主義と論理主義 – 3 :ブラウワーの直観主義

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles de Philosophie Des Mathematiques)ずいぶん間が開いてしまったが、アンソロジー『数学の哲学』からデトレフセン「ブラウワーの直観主義」を眺めてみる。まずブラウワーの場合、推論(inference)の考え方が当時としては斬新だったようだ。それによると命題の真理が論証されるには、それが「経験」の対象になっていなければならないとされ、翻って論証における論理的推論の役割は著しく制限されることになる。いきおい、ブラウワーの数学的直観主義は、意味論というよりも基本的に認識論(エピステモロジー)的なものとなる。直観主義においては、数学の命題を論理的に操作できることが、それらの命題を(派生命題も含めて)知ることにはならないというのが基本(ポアンカレ)で、数学的知識と論理学的知識とが異なるものとして扱われるのだが、ブラウワーの場合には、それがなんらかの「経験」にもとづいていることが区別の鍵となっているらしい。たとえば命題pの知識を類推的に命題qに拡張する場合、推論は形式的なだけではダメで、その推論に命題pを成立させている条件についての知識が保持されていなければならない。それこそが実践的な操作をなすのであって、ゆえに単なる論理的操作とは異なるのだ、とされる。ブラウワーにおいては(古典的な認識論におけるような)推論そのものの正当化の重視以上に、認識の様態の保持が重視されるという次第だ。

直観主義は総じて構成主義的であり、数学的知識というものは基本的に構築・構成という活動(心的活動)の一形態であるとされるわけだけれど、ブラウワーの場合はこのように、論理的推論だけでそれは拡張できず、内容を伴ってそういう活動そのものが拡張されるのではなくてはならないと考える。Aという構築された命題と、Bという構築された命題があったとき、推論的連結だけでは、AかつBという命題は構築されない。そこには形式的推論を越えた何かが必要になる。それが「経験」で示される構築の枠組みの連続性・一貫性ということになるようなのだが、著者のデトレフセンによれば、その後の直観主義はそうした構築過程の形式化(ハイティング)を通じて、形式的推論を大幅に認める立場へと移行したといい、上の「AかつB」の命題構築が導かれる過程についても、「シンタクス」的な連結をもってよしとするようになり、ブラウワー的な議論からは大きく逸れてしまっているようだ。ただこのテキストからは、ブラウワーの言う「経験」の内実という部分がもう一つはっきりしないようにも思われる。そのあたりを求めて、この探索はさらに続くことになりそうだ……。