スコトゥスの感覚表象論

カントが中世から学んだ「直観認識」: スコトゥスの「想起説」読解少し前から眺めていた八木雄二『カントが中世から学んだ「直観認識」−−スコトゥスの「想起説」読解』(知泉書館、2017)を読了。スコトゥスのテキスト(『オルディナティオ』第4巻45章、第三問)に、いわゆるランニングコメンタリーを付けて一冊の本に仕上げるという、ありそうでなかった、なかなか面白い試みだ。現代においては、中世のテキストをただ訳出して刊行するのはどこか味気なく、ほとんど研究者界隈でしか読まれないことになってしまうが、こうした形式ならば多少とも一般向けになりうるのではないかという気もしなくもない(もちろん価格や装丁など、ハードルはほかにもあったりするのだけれど)。そういう意味では、来るべきこれからの古代・中世の古典訳出の一つの在り方を先取りしたような、可能性を開いてみせた一冊かもしれない。

内容的には、離在的な魂(肉体から離れた、死後の魂)に記憶がありうるかどうかをスコトゥスが検討するというものになっている。これがそもそも問題になるのは、中世盛期にいたるまでの哲学的伝統では、感覚的なものは肉体に、知性的なものは魂にあてがわれるのが一般的で、そのため、最期の審判において肉体を離れた魂が生前の記憶を蘇らせるというキリスト教の教義との整合性を、なんらかのかたちで取る必要が出てくるからだ。スコトゥスは従来の伝統から一歩はみ出て、感覚的なものとされていた記憶の機能が、知性にもあるということを論証しようとする。個別の感覚認識をまとめあげる感覚表象を、知性の機能として認めようという議論。これは後のカントにおける「悟性」の、先駆け的な議論かもしれない、と。まさにその点こそが、スコトゥスが近代的な哲学への第一歩を踏み出したといわれる所以となっている。

余談。このところ詩と哲学の関係性というのを個人的に再考したいと思っているのだけれど、同書の中で著者のコメンタリーに、芸術家が言葉にならないものを言葉で汲み取ったとしても、それが社会の共通認識にならなければ哲学の世界には入ってこないという指摘があった(p.93)。そこでは、哲学者は詩人の世界には入れず、一般社会の常識にとどまって言葉に対峙していなくてはならないとされる。しかしながら哲学もまた、ときに同じ常識的な言葉を用いながらも、通常の意味とは別の意味をそこに付加しようとしたりする。それもまた一つの詩的営為と捉えてしかるべき、なんてことを改めてつらつらと想ったり。