物体的実体とか

形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794)前回ライプニッツの書簡を見て、これがなかなか面白いと思ったので、ついでに形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794)』(橋本由美子監訳、平凡社、2013)も見てみた。前回取り上げたデ・ボスとの書簡のやり取りは1706年から1716年にかけてのものなのだけれど、このアントワーヌ・アルノー(フランスの著名な神学者・ジャンセニスト、『ポール・ロワイヤル文法』などの著者の一人)とのやり取りはそれに先立つ1686年から1690年のもの。扱われているテーマは大きく二つで、一つは実体というものの中に、過去・現在・未来のあらゆる事象が潜在的に含まれているという、後のモナド論に直結するテーマ。もう一つは、物体的実体をどう定義するのかというテーマ。前者は、アダムが創造されたときに、その後の人類の展開がすべて仮定的必然として含まれていた、無数の可能的アダムが神の想念のうちにはあり、神はそこから一人のアダムを選び、今の人類がある、といった話にもなっていく。この部分はさながら可能世界論の先駆といったところでもある。自然法則の総体が、神のプランの実行のためにあらかじめ被造物全体に仕込まれて秩序を形成しているとし、そしてその全体の秩序がそのアダムの選択に結びついたものであるという世界観。

後者のほうは、「実体」の捉え方が問題になっていて、これがのちの実体的靱帯の議論などへと発展していく。書簡の面白さは、相手の疑問や反論を受けてライプニッツがどう自説を変化・深化させていくのかというところにあるわけだが、アルノーとのやり取りでは、突き詰められることによってライプニッツの実体概念の細部がいろいろ明らかになってくる。物塊が単なる集積でなくなるためには実体形相(生命を司る魂のような)による統一が必要と説くライプニッツは、その後のやり取りを通じて、あらゆるものは「生命ある魂」に満ちている、という極限的な発想にまでいたる。物塊などは現象にすぎず、真に一をなす存在とは生きた実体にほかならないとして、ライプニッツは岩などの無機物にすらそうした可能性がある、ということまで言い放つ。もちろん後にはこのあたりのスタンスはまた変化を遂げていくわけだけれど、こうして考え方の基本線が明滅しつつ変化を遂げていくのを少しでも追えるのは、とても刺激的な読書体験だ。専門的な研究者だけが読む、というのでは勿体ない気もするし、願わくばこういう廉価版のかたちでほかの書簡などもどんどん切り出して刊行していってほしいものなのだが……。

実体的靱帯

ライプニッツ著作集 (9)フレデリック・ネフの先の著書の問題圏から、再び今度はライプニッツを取り上げよう。つながりの存在論の嚆矢とされるライプニッツだが、それは「実体的靱帯」概念が提示されているからだろう。この概念についてライプニッツが論じている代表的文献といえば、なによりもまずデ・ボスとの書簡がある。というわけで、とりあえずライプニッツ著作集 (9)』(工作舎、1989)所収の抄訳(佐々木能章訳)を見てみた。

そこで示されているのは、モナド同士が結びついて複合的実体(たとえば動物とか、有機的身体とか)を作り上げるという考え方。モナドそのものには別様と結びつく際に差し出す手のようなものはないとされる以上、複合的実体の存在を認めるならば、そこにはなんらかの「結ぶもの」が外部からもたらされなくてはらない。それをライプニッツは「実体的靱帯」と呼ぶ。それがどういうものなのかは明示されない。というか、これはあくまで論理的推論によって導き出されている概念なのだから、それ自体がどういうものか、どういう様態で結びついているのかを考察するというモーメントはここにはないのかもしれない。ただ、そうした靱帯が想定されなければ、全体の議論の体系が瓦解してしまうということになる、というわけだ。ネフが掲げる問題はある意味、メレオロジーやトロープス論など成果を当てはめて、そうした論理的概念として出てきた「実体的靱帯」なるものを現代的に刷新できないか探るというものになる。

面白いのは、この実体的靱帯という考え方が出てくる直接的なきっかけになっているのが、キリスト教の「化体説」をめぐる議論らしいこと。聖別されたパンと葡萄酒が、キリストの肉と血の実体化にほかならないというその教義にモナドの考え方を当てはめると、複合的実体としてのパンと葡萄酒のモナドがいったん消滅してキリストの血肉のモナドが生成し、パンと葡萄酒の「現象」のみが存続したようになる、ということになりそうだものだが、ライプニッツはそもそもモナドの生成消滅を認めない。そのため、モナドの結びつきによってパンと葡萄酒が出来上がっていたものが、その結びつきを解かれ(神の力によって)、代わりにキリストの血肉をなす結びつきがそこに出来上がったとすれば、モナドの生成消滅をともなわずに化体説の教義が救済できることになる。こうしてライプニッツは、モナドをモナドのまま温存し、代わりにモナドを相互に結びつけるなんらかのものを仮構してみせる。そしてその「靱帯」は敷衍されて、身体などの複合的実体を「支配的モナド」のもとで一つにまとめるための結合剤として提唱される。

ストア派と「連続性」

前回挙げたネフの著書では、コネクションの問題を前景化(ライプニッツの前に)した嚆矢としてストア派が挙げられている。唯物論的でホーリズム的だと評されるストア派のコスモロジーでは、物体や物質は一続きになっており、それぞれの間に無はなく、プネウマがそこをしっかりと埋めている。そしてそのプネウマこそが、世界の整合性をもたらしているとされる。それはまた、物体の一体性を担う特性・傾向(ディスポジション)ともパラレルであるとされ、こうしてある種の混成・混在・接続でもって世界観が織りなされている、と。

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)こうした連続性、一続きの発想は、諸概念にも適用されていることがわかる。プルタルコスの『モラリア』の一部をなす対話篇『ストア派に対する、共通概念について』(Loeb版:Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library))は、主に倫理学的な問題、ストア派における善と悪の問題などを扱い、矛盾などを指摘しながら批判していくという一篇なのだけれど、逆にそこからストア派の考え方の一端が浮かび上がる。プルタルコスは、ストア派が自然本性にもとづく生を目標としながら、自然における諸力に従って右往左往するのは愚かしいとしていることなどを矛盾として取り上げるが、ストア派側からすれば、目標にそった生き方そのものもまた、それに至る前の愚かしいとされる生き方と一続きなのであり、悪から善へのいわば連続的・漸進的な差異があるだけで、それを知覚するかどうかもまた、連続的に移り変わるだけだということのように思われる。絶対的な悪はともかく、多少の悪は程度の差こそあれ人の生について回るほかないとされ、それらは善への志向と表裏一体であるとされる。こうした考え方は他の諸概念にも敷衍されていく(在・非在など)。

そんなわけで、以前に見たレクトンの概念もそうだが、このストア派の哲学には今なお、多少とも形を変えて新しい息吹(プネウマだ)を吹き込む余地がありそうに思われる。

ダンテ「水と土……」挿入図 2

再びメルマガ関連で、ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』第13節の挿入図。++++が天球、+++が水の球、++が土の球を表す。Dが同心円の中心。基本的に、土のコブ(コブ状のせり上がり)は存在しえても、水のコブは存在しえないという議論が展開する箇所。

「コネクション」の存在論

L'anti-hume: De La Logique Des Relations a La Metaphysique Des Connexions (Problemes & Controverses)フレデリック・ネフの著書に、相変わらず流し読み的に目を通している。今回のは、前に挙げた『なにがしかの対象』『事物の属性』に続く、それらと合わせて三部作をなすという『アンチ・ヒューム』(Frédéric Nef, L’anti-hume : De la logique des relations à la métaphysique des connexions (Problemes & Controverses), J. Vrin, 2017)。これは三冊のうちではとくに面白く、これ単独で読むというのも十分アリだと感じられた。副題(関係の論理学からコネクションの形而上学へ)に示されている通り、今回のテーマは「コネクション」、つまりモノや事象の間のつながり・連関を存在論的に再考しようというもの。結果、そのつながりこそを従来とは別様の存在論的対象として認めようという話になっている。従来の存在論では、実体的か偶有的かはともなく、各々の個物にこそ存在が認められ、個物は多かれ少なかれ他に従属せず(独立して)存在するとされてきた(これをアトミズムと称している)。しかしながらそれを突き詰めると、個物同士の関係性は損なわれていくことになる。ヒュームなどは因果関係を知覚する者の内的なものにまで矮小化した(とはいえヒュームは、因果関係そのものの実在には可能性を残しているようなのだが)し、さらにその後継とされるルイスなどは、因果性など端から認めないというところにまで行っているというのだが、これに対して、因果関係をもう一度救済できないかというのが著者の試み。そこで着目されるのが、複合体を一つにまとめている関係性、とりわけその連関の在り方とはどういうものかという問題。そこから著者は、このコネクションの存在論をつかみ出そうとする。

存在論的アトミズムは歴史的には中世からあるといい、ドゥンス・スコトゥスやトマスの穏健な実在論の後、オッカムの「関係そのものは存在しない」というテーゼをもって最初の極北をなす、とされている。一方で中世思想のある種の集大成としてのライプニッツは、関係性を認識論的なものと見なしつつも、それを事物の基盤として捉えてみせる。ここに、連関(コネクション)の関係性の議論が胚胎する。ネクサス(コネクションが操作・作用を言うのに対して、ネクサスはその産出物としてのつながりを言う)をめぐる思想はその後18世紀に、ウォルフ、バウムガルテン、カントなどによって洗練され、さらに後にはウィトゲンシュタイン(アトミズムの系譜にも入れられるが)、そしてホワイトヘッドにまでいたる……。著者ネフは、新しい存在論の可能性を論じながら、それをきっちり哲学史上に位置付けようとし、実に手際よく整理しながら話を進めていく。もちろん分析哲学的なアプローチが主となるのだけれど、哲学史のあまり表面に出ない系譜をまとめ上げている手法も見逃せない。というか、そういう堅実な部分が、どこか重厚な筆致と合わせて、魅力を醸しているように個人的には思える……。