現れと存在

L'adresse Du Reel (Moments Philosophiques)新しい実在論が多少ともかまびすしく持ち上げられているようだけれど、一方でそれもまったく一枚岩ではなく、そのあたりを整理し、それぞれの論を批判的に捉えるという動きもやはり出てきているようで、これなどはまさにそういう一冊。このところ読み始めているジョスラン・ブノワ『リアルの在処』(Jocelyn Benoist, L’adresse du réel (Moments philosophiques), J, Vrin, 2017)。まだ前半部分だけだけれど、そこではとくにマルクス・ガブリエル(日本でも『なぜ世界は存在しないのか』で一気に表舞台に躍り出た感がある)への批判的対応がメインに置かれている。その最も中心的な批判が展開されるのは第三章。ガブリエルの説く「意味の場」の存在論(存在するものはすべて、その時々の意味の場のうちに現象する・現れる、という議論)について、その「意味」にあたるSinnに注目し、ガブリエルはフレーゲ的な「意味」と「存在」との対立を解消しようとしているせいで、かえって「現実」の概念を脆弱なものにしているのではないか、その現実の「現れ」(apparaître)の概念は「現実」の概念の一部をなしていないのではないか、その議論はカテゴリーミステイクに立脚してはいないか、と論難する。現れを中立化させて意味と存在をつなぐのは、人が思うほど容易ではない……と。

同著者は「意味」と「存在」は対置しないものの、区別はすべきだとの立場を示す。意味の場が一種の悪しきメタファー(カテゴリーミステイクに立脚した)であるならーーと著者は提案するーー、むしろそこに、規範をともなった(規範が組み込まれた)構造を見るほうがよいのではないか。そのほうが、ガブリエルのような志向的存在論(「規範」が適用される手前、あるいはその外部で、存在する事物がいわば「背景」から「せり上がる」がごとくに意味の場に現象する、と考える存在論だ)には相応しいのではないか、というわけだ。このあたりは考えどころで、同著者のいう「構造」や「規範」にはもう少し厳密な定義が必要な気もする。後半部分でより明らかになることを期待しつつ、もう少し議論を追うこととする。